第255話 断じて行えば甲斐の虎も之を避く
「殿!」
懸川城をいかにして落城させるか、頭を悩ませる家康のもとへ、家老・酒井左衛門尉忠次が一通の書状を手にして駆け寄る。表情は晴れやかとは到底言い難く、怒りが滲みだしているようであった。
「いかがした、左衛門尉」
「先日某が下条志摩守へ詰問したことについて、山県三郎兵衛尉より書状がございました」
「して、内容は?」
「昨年の秋山伯耆守が件と合わせて言い訳がましいことを申しておるのみにござる」
そう言って酒井左衛門尉が手渡した書状を家康も確認するが、たしかに具体的にどう対応するだとか、そういった事柄は確認できず、弁明に努めているといった様子であった。
「じゃが、なおお疑いのようならば甲斐に置いているそなたの息女をお返しすると信玄殿が申していると書かれておるぞ」
「はい。そのことについて、いかがいたしましょう。某が納得したとして、娘の返還までは求めないとするべきか、到底納得できぬと返答して娘を返してもらうか。それについて殿よりご意見賜りたく」
甲斐に人質として残されている酒井左衛門尉の娘・おふう。父として、娘を取り戻したい気持ちがあるのは家康にも分かる。だが、主君とて弟を甲斐へ人質に出しているのだ。それを差し置いて、自分の娘だけを返してもらって良いものか。そんな遠慮が窺える。
「左衛門尉、おふうを返してもらうがよい。今を逃せば、帰ってくることは二度とあるまい」
家康の言葉の末尾。そこを聞いて、酒井左衛門尉は息を呑んだ。
今、信玄率いる武田軍が追い詰められ、徳川を繋ぎ止めたいと心から思っているからこそ、二人の人質のうち一人を返そうというのだ。このような機会は今を逃せば金輪際来ないぞ、と。
だが、酒井左衛門尉は主君が今後、武田とどう付き合っていくつもりなのか、側で見てきている。その立場から言えば、別の意味でも解釈できる。
もはや武田家との関係は拗れた。以後、敵対することも見据えてわしは上杉家と手を結ぼうと考えておる。もしもこの先手切れとなれば、人質は処刑されるだろうから、人質が確実に生きているうちに返してもらいたいのなら、味方として交渉できている今しかないぞ、と。
そんな裏の意味で主君は囁いたのではないか、というのが家老・酒井左衛門尉の考えであった。
「然らば、某の娘を返してもらうということで、山県三郎兵衛尉と交渉いたしまするが、殿はまことにそれでよろしいので?今なら源三郎様も返してもらえるやもしれませぬぞ」
「それはない。信玄殿は人質を手元に置いておきたいはずじゃ。当主の異父弟か、家老の娘。そのいずれかを返せと言われれば、当然家老の娘を返す。それでも当主の弟は人質として手元に残せるからじゃ」
「はっ、なるほど……」
「じゃから、確実に取り返せる人質はそなたの娘だけじゃ。我が弟のことは人質に出した頃より、あきらめが付いておる。ここは確実に救える命を救う方が賢い選択というものであろうが。のう、左衛門尉」
酒井左衛門尉は主君の言葉に涙した。なぜなら、その主君の声は今にも泣きだしてしまいそうな、文字通りの涙声であったからだ。
――あきらめが付いている?そんなのは噓偽りだ。自分の弟の命を、そう簡単に捨ててしまえる非情な方ではないこと、この左衛門尉は知っておる。
そう言いたい気持ちをぐっと堪えながら、顔を上げる。目の前の敬愛する主君は観音菩薩のような笑みを浮かべていた。それが、酒井左衛門尉の心にやり切れない憤りと悔しさを噴き上げる。
「左衛門尉、実はな、先ほど百助を使者として駿府に派遣した」
「なんと!して、それはいかなるわけで……!」
「うむ。昨日、そなたが下条志摩守に詰問した事柄について、武田重臣は如何に考えておるか、そなたが直に会って確かめて参れと申し付けた」
酒井左衛門尉はそれを聞き、本多百助忠政を使者に立てたのはうってつけだと思った。歴戦の強者揃いの武田家重臣に気迫で負けない豪傑となれば、彼が最も適していると酒井左衛門尉は瞬間的に感じ取ったからである。
「その百助が申すことによるが、人質を返してもらえそうであれば左衛門尉の娘おふうを返してもらえるよう、上手く話を誘導せよと命じてある」
「そのようなことまでお命じに……!」
「忠臣の娘を見殺しにすることなど、我が良心が許さぬ。武田が返すと言うのだから、受け取ってやるというくらいの気持ちでどっしり構えることとしようではないか。我が弟を返してもらうことは諦めたが、見殺しにするつもりはない。武田との戦になる前に、必ずや助け出して見せよう。だから、まずは穏便にそなたの娘を返還してもらうところからじゃ」
腰かけていた床几から離れた家康は目の前で平伏する酒井左衛門尉の肩へ、優しく右手をかけ、とんとんと赤子をあやすかのように叩いた。
「わしが母上が腹を痛めて産んだ弟を見捨てると思うたか。わしはあきらめが悪いんじゃ。ここで弟を見殺しにしては、二度と母上に顔向けできぬ。やれることは全部やって、それでも駄目であったならば母上に泣いて詫びるほかあるまい」
「殿……」
「そなたの娘のことはわしに任せよ。そなたは今一度宇津山城の囲みへ戻り、今月中に落城させる気概で城攻めに戻るがよい。誓えるか?」
「はっ、この酒井左衛門尉忠次、八百万の神々に誓って、今月中に宇津山城を攻め落としてご覧に入れまする!」
主君にそこまで言われては酒井左衛門尉は退けなかった。何としても宇津山城を二月中に落とすのだと気負って遠江へ戻っていく。しかし、すでに如月も二十四日となっている。
残り数日のうちに宇津山城へ戻り、落とせるかは大博打といって差し支えなかったが、酒井左衛門尉はそれでもやるのだと己に言い聞かせ、西の方角へ馬を飛ばす。
そうして家康が酒井左衛門尉に発破をかけ、再び宇津山城攻めに向かわせた頃、遠州の隣国・駿河国駿府では家康からの使者・本多百助が武田家重臣・山県三郎兵衛尉昌景と対面していた。
背後の雪景色に映える赤に染めた甲冑を身に纏う兵士らが周囲を取り囲む中、顔色一つ変えずに進んだ本多百助を赤備えの大将・山県三郎兵衛尉が出迎える。
「これは本多百助殿。遠路はるばるよくぞお越しくださった」
「はっ、出迎えかたじけのうござる。武田家が誇る猛将、山県三郎兵衛尉殿にこうして出迎えていただけるとは冥利につきまする」
「ははは、左様に謙遜なさらずとも良い。聞けば、百助殿も家中随一の豪傑だそうな」
「なんの、某よりも強く忠誠心に溢れる豪傑は徳川家中には佩いて捨てるほどおりまする。三河武士一騎は甲信の武者十騎に匹敵しまするゆえ、赤備えの皆々様もさぞかし度肝を抜かれることでございましょう」
本多百助の挑発に山県三郎兵衛尉の側に控える赤備えの一人が刀の柄に手をかけるのを制止ながら、山県三郎兵衛尉がにこやかに口を開く。
「百助殿の申されること、戦場でなくば確かめようもござらぬが、ここへ斬り合いをしに参ったわけではござるまい」
「いかにも。某は主君の命を受け、安倍一揆衆が駿府に提出していた人質を返すことで一揆と和睦を結ぼうとしていたことについて、その真意を確かめるべく参上仕った」
いよいよ本多百助は本題へと斬り込んだ。早々に本題へ斬り込まれたことに驚きながらも、山県三郎兵衛尉も冷静を装い、安倍一揆衆との和睦交渉について武田家の総意を伝えんとする。
「此度のこと、まずは謝罪させていただく。約定をかわしておきながら、当家がそれを破る形となってしまったことは事実にござる」
「左様にござるか。されど、我らは詳細までは存じ上げぬ。いかなる事由で此度の事態に至ったのか、ご説明いただきたい」
「然らば、説明させていただく。安倍一揆衆との和睦交渉に当たっていたのは武田上野介信友、朝比奈駿河守信置、小原伊豆守の三名にござる。三名とも此度の駿河侵攻で当家に降った者ばかりで、武田家中のやり方を心得ておらず、このような事態を招いてござる」
「なるほど。此度のことは駿河衆の独断で行われたわけにござるな」
事情を知って考えるところがあったのか、先ほどまで放たれていた本多百助の怒気が和らいだ。それを見逃さず、山県三郎兵衛尉は巧みに陳弁していく。
「それゆえに某も、我が主も知らぬうちに進んだ交渉だったのでござる。ご理解いただけましたか」
「うむ、事情については某も理解いたした。されど、約定を交わして早々に起こったことにございますれば、我が主君も疑念を抱かれ、酒井左衛門尉を筆頭とする当家の重臣らも憤慨してござる。はたして、先ほどの説明で皆が納得いたすかどうか、それは保証いたしかねる」
私は今の説明で理解したが、私の主君やそのほかの重臣は納得するかどうかわからない。そう言う本多百助の言動に山県三郎兵衛尉もむっとしながらもその通りだと思ってしまった。だとすれば、納得するに値するだけの証を示す必要がある。
「なおもお疑いのことゆえ、某から酒井左衛門尉殿へ起請文をしたためましょうぞ。加えて、我が主君も甲斐にて預かっておる酒井左衛門尉殿のご息女をお返しするとも申しておりましたが、これらを実現いたせばご納得いただけますでしょうや」
そんな山県三郎兵衛尉の言葉に、一拍の間を空けた後、本多百助が応答する。
「そこまでしていただけましたら、当家の者も皆納得しましょう」
「然らば、起請文のことと人質の返還、某から主君へ話を通しておきましょうぞ。後日、改めて書状を送りまするゆえ、確認してくださるよう、立ち返って徳川殿と重臣の方々へご説明願いたい」
「委細承知仕った。然らば、これにて失礼いたしまする」
本多百助は交渉成立と見るなり、席を立った。このように敵意を帯びた視線を向けられる空間に長居しては危険と武人の本能が警鐘を鳴らしていたのである。
かくして本多百助は山県三郎兵衛尉から酒井左衛門尉宛に起請文を提出すること、加えて甲斐に留められている娘を返還する約束を取り付け、無事に懸川の家康本陣へと帰還したのである。
「百助!交渉はいかがなった!」
「はっ、さしもの山県三郎兵衛尉も根負けし、山県三郎兵衛尉から左衛門尉殿に宛てて起請文を提出すること、左衛門尉殿のご息女をお返しいただくとのことで話がまとまりましてございます」
「おお、それならば良い。じゃが、武田のことじゃ、どうせまた盟約を破るに相違ない」
「某も同意見にござる。さればこそ、殿は越後の上杉家と手を結ぼうとしておられるのでござろう」
「いかにも。じゃが、それだけでは足らぬ。何せ、武田は岐阜城の弾正忠殿とも婚姻同盟を締結しておられる。ここが仲たがいでもしてくれれば良いのじゃが、弾正忠殿は信玄殿を高く評価しておるし、ここを離間させることが叶えば、織田家や上杉家とともに武田を相手どれるものを」
家康の言わんとしていることは本多百助も十分理解していた。それが実現すれば、上杉家が北から、織田家が西から武田家へ睨みを利かせてくれる。さらには東からは北条が牽制してくれたならば、徳川としてこれほど心強いことはない。
「されど、織田殿は武田を盟友として頼りにしておりますれば、それは難しかろうかと」
「そうなのじゃ。せめて畿内のことが落ち着けば、武田と戦うことも思案してくださるであろうが、畿内のことに忙殺されておるゆえ」
「たしか今月四日付の書状では遠州へ舟を派遣するとともに、軍勢も少数であるが派遣すると申しておりましたが、それすら参らぬ状況ですからな」
「その通りよ。当家への援軍すらも確保できぬ弾正忠殿へ、武田家との敵対に動いてくれなどとは口が裂けても言えぬわ」
そう、今月の上旬に上洛中の織田信長からは遠州への援軍を要請した家康の要望に応えて水陸の援軍を少数でも派遣すると言ってきていた。
それすらも実現せずに今に至るのか、それが分からない家康ではなかった。それゆえに、武田家と戦になることを承知のうえで手切したい、というのは織田家としては「やめてくれ」と返答をしてくるのが容易に想像できる。
「ともすれば、今しばらくは武田家とは穏便に済むよう取り計らわなければなりませぬな」
「いかにもじゃ。武田の言いなりになるのは癪に障るが、あまり刺激しすぎてもならぬ。これは塩梅が難しいところじゃ」
「されど、この百助には殿ならば成せてしまうような気がしてなりませぬ」
「ははは、だと良いのじゃが」
ついに武田との敵対を見据えて動き出した家康。ここからは今川との戦だけでなく、対武田を見据えての動きを展開していくこととなる――




