第246話 膳部揃うて箸を取れ
「殿、申し訳ございませぬ!」
徳川軍が懸川城下へ殺到し、今川軍と激戦を繰り広げた日が明けて、翌二十八日。
天王山砦に本陣を構える家康の面前で頭を下げているのは齢四十となった重臣・本多作左衛門重次。長年にわたって徳川家を支えてきた重臣が、幾つもの刀創を負ったいかつい顔を地にこすり付けるように主君・家康に頭を下げているのである。
そんな家康は久野千菊に山名庄のうちの井領七ヶ郷と、大屋の合計八ヶ郷を給与する旨を記した判物を記しているところであったが、一旦筆を止めて本多作左衛門へと向き直った。
「作左衛門、よいよい。元より勝てるとは思っておらぬ」
「されど、殿から攻めよとの下知を受けておきながら、撃退されるなど……!」
「構わぬ。攻めよと申したはわしじゃ」
「し、しかし……」
「くどいぞ、作左衛門!昨日の戦は今川軍の気を引かんがための戦。わしが本陣を離れる前に一戦交えておきたかっただけなのじゃ」
「ほ、本陣を離れると……!?」
思いがけない主君・家康の一言に本多作左衛門は驚きに目を見張った。それは無理もないことであった。何せ、あくまでも昨日の合戦は総大将が本陣を離れる前に一当てしておきたかっただけだというのだから。
「一度本陣を見附へ移す」
「見附とは……」
「作左衛門も分かったであろうが、秋山伯耆守を牽制するためじゃ。あれからも当家の軍勢と小競り合いをしておるとのことゆえ、精鋭揃いの本隊を引き連れて威嚇しに向かうのよ」
「そのようなことをして、武田と事を構えるおつもりで……!」
「昨日届いた信玄殿からの書状を読んで確信した。今ならば仮に秋山伯耆守と合戦をしても障りはない。そもそも秋山伯耆守を救援に向かうことなど不可能。ならば、秋山伯耆守と一戦交える覚悟で見附へ入り、睨みを利かせておきたい。そして、このことを秋山伯耆守から信玄へ伝えさせるのが狙いじゃ」
本多作左衛門はここへきて、判然としないまでも家康の狙いが掴めそうなところまで推測ができた。秋山伯耆守虎繁へ家康率いる徳川本隊と激突するかもしれない、という危機感を進退窮まっている駿河の武田信玄へ知らさせることが狙いなのではないか、と。
「さては殿、遠江から武田を撤退させるのが狙いではございますまいか」
「その通りじゃ。遠江争奪戦から武田を排除せんがための布石。北条と対峙する中で、当家と事を構えることが何を意味するか、分からぬ信玄ではあるまい。あまり舐めたことをしておっては伊那郡代の首が送られてくる事態ともなるのだと知れば、何らか手を打って来よう」
「されど、武田と事を構えるのは危のうございます」
「ははは、つまらぬことを申す。武田の生殺与奪を握っておるのは他でもない。この家康ぞ?遠江を我らの支配下とするためにも、秋山伯耆守虎繫という生贄が必要となるやもしれぬ、ということじゃ」
家康は言葉のうちに武田信玄に対する不信感を滲ませながら、本多作左衛門へ己の考えを共有する。本多作左衛門は武田と敵対することの恐ろしさを感じ取りながらも、家康の考えは間違っていないことも同時に理解していた。
「然らば、殿――」
「も、申し上げます!」
本多作左衛門が家康へ何かを伝えようとした刹那、慌ただしく伝令が駆け込んできた。そのため、家康は本多作左衛門の発言を制し、火急の要件と見える伝令に発言させた。
「何事じゃ」
「はっ!笠町砦に在番している主君、奥平美作守定能よりの報せにございます!明朝、北条の援軍およそ三百が懸川城へ入城したとのこと!」
家康は北条の援軍が懸川城へ入城したとの報せに驚愕した。道理で城方の士気が昨日よりも高いわけだと妙に納得してしまう。何より、城には今川赤鳥の旗に少ないながらも北条鱗の旗が混じっているのが、じっくり見てみれば判別できた。
「入ってしまったものは致し方ない。北条の援軍が何処から参ったか分かるか」
「おそらくは相良湊か小山あたりではないかと」
「そうか、ならばそちらの警戒を強めねばならぬな。大儀であったと、左様に美作守へ伝えるのじゃ」
家康は笠町砦に在番する作手奥平家臣からの報告を受けると、家康は顎に手を当てて思案する。
少数とはいえ、北条の援軍が入り、孤立無援を悟っていた今川勢が勢いを盛り返して来ることは十分に考えられた。そうなれば今、天王山砦を離れるのは正解なのであろうか、と。
「殿、この作左衛門は殿の仰る通り、本陣を見附へ移されるのがよろしいかと」
「大丈夫であろうか」
「はい。さすがに籠城する今川の者らに打って出て参る気力はございますまい」
そうであるか、と家康が言いかけると、砦のある天王山の麓から鬨の声が上がった。時刻は午の刻のお昼時。雑兵同士の喧嘩事とも考えられるが、その線は薄そうであった。
はたして何事であろうかと家康と本多作左衛門が情勢を見守っていると、本多平八郎忠勝が嬉々とした様子で本陣へやってきた。
「殿!」
「平八郎!麓で何かあったか!」
「はっ!今川の者らが城を打って出て参った様子!」
「よもや、天王山麓まで押し出してきておるのか!」
「はいっ!されどご案じくださいますな!すでに今川の者らは死傷者を多数出して退却を開始しておりますれば」
「そうか。ならば、このまま敵を押し戻せと伝えよ。じゃが、追い討ちは許さぬとわしが申していたと伝えよ」
「ははっ!では伝えて参りまする!」
愛用の長槍に胴丸姿の本多平八郎が戦の音を聞いて血が昂っているのが手に取るように分かる家康は、彼に追い討ちは無用だと伝令させるとともに、本多作左衛門へと視線を移した。
「作左衛門、籠城衆に打って出る気力があったようじゃぞ」
「それを仰らないでくださいませ。断言したことが外れて恥ずかしい想いをしているところにございますれば……!」
家康は自信満々に予想を外した本多作左衛門をひとしきりからかって遊ぶと、次なる命令を下した。
「よし、本隊は天王山砦を出て見附へ本陣を移す!敵からは攻撃を受けて家康は恐れをなしたと判断するであろうから戦をまた仕掛けて来よう。じゃが、それに怯むことなく付城を堅守し、各隊は城の包囲を厳重にするように命じよ」
「まことに見附へ向かわれるのですな」
「うむ。懸川城を包囲しておくくらい、わしがおらずとも何とかなろう。じゃが、秋山伯耆守への牽制はわしがいなければ意味をなさぬ。ゆえに出立するまでのこと」
家康は各砦へ本陣を見附へ移すこと、今川勢が攻めてきた場合には守備に徹して追い討ちしてはならないことや包囲網を厳重にしたうえで警戒を怠るなと厳命したうえで愛馬に跨り、下山を開始したのである。
狙いは今川でなく武田。同盟相手でありながら遠江にて好き放題調略したり、徳川に与すると言った国衆へ攻め込んだりする秋山伯耆守虎繁をこのまま放置することはできない。そのための本陣の移動なのである。
そうして家康率いる本隊は続々と天王山砦を出ていく様を見て、懸川城内の今川勢は味方が城を打って出て家康の本陣がある天王山砦を攻撃したことに恐れをなしたのだと歓声を上げていた。
「わはははは!見よ、家康の馬印が西郷之構を離れていくぞ!」
「さすがは備中守殿。徳川の本陣は我らが打って出てくるとは思っておらぬゆえ、奇襲すれば勝てると仰られたが、まさにその通りになりましたな」
「じゃが、あれしきのことで家康めがそそくさと逃げ出すとは某も予想外であったわ!あっはっはっは!」
北櫓の上から徳川軍が天王山砦を離れていく様を遠望するのは懸川城主・朝比奈備中守泰朝と三浦次郎左衛門氏満の両名であった。
自らの目論見以上の成果が上がったことにご満悦の朝比奈備中守。そして、三浦次郎左衛門もいつになく上機嫌に朝比奈備中守と会話していた。だがしかし、その勝利を喜ぶことなく冷静沈着に見守る将がいた。そう、岡部五郎兵衛元信である。
「備中守殿、三河守があれしきのことで退却する腰抜けではないこと、そなたもよく存じておろう」
「ちっ、分かっておるわ。あやつはわしが鷲津砦を攻め落とすよりも早く丸根砦を制圧した奴じゃ。わしはあやつのことはいけ好かないが、さりとて亡き義元公が重用なされていたゆえ、それなりに評価はしておる」
「そうであろう。然らば、その三河守が何を狙って天王山砦を降りたのか、疑ってかかるべきであろう」
「疑う、か」
「左様。某には何か裏があるとしか思えぬ」
岡部五郎兵衛の冷静な指摘に朝比奈備中守は顎鬚をいじりながら何事かを考え始めていた。そのあたりに、ただの匹夫ではないことが表れている。
戦のことに疎い三浦次郎左衛門には何が何やらさっぱりであったが、朝比奈・岡部の両人は家康の動きに裏があるのではないかと考えている様子であった。
「備中守に五郎兵衛、一体何をしておる」
「こ、これは御屋形様!」
思いがけず、鎧甲冑姿で城兵らを鼓舞して回っていた当主・今川上総介氏真の登場に、朝比奈備中守と岡部五郎兵衛、三浦次郎左衛門は櫓を駆け下りて跪いた。その忠犬のような動きに氏真がくすりと笑うと、彼の隣に並ぶ正室・春姫もくすくすと笑い始める。
「頭を上げよ。して、櫓の上で重臣が三人も集まって何をしておったのじゃ」
「ははっ、去る午の刻に徳川本陣がある西郷之構を攻めさせたのでございますが、その直後に三河守率いる本隊が次々に砦を出ていくので、何かあるのではないかと話し合っておったのでございます」
「ふむ、たしかに怪しい」
「やはり御屋形様もそう思われまするか」
「当然じゃ。あの三河守がその程度で怖気づくはずなかろう」
この場にいる誰よりも徳川三河守家康のことを知っているのは他でもない今川家当主・氏真その人であった。それを知っているだけに、朝比奈備中守は岡部五郎兵衛の指摘が間違っていないのだと確信していた。
そんな朝比奈備中守へ、氏真から状況を確認するべく質問が投げかけられていく。
「して、西郷之構を離れた徳川の軍勢は何処へ向かっておる」
「西へ向かっておりまする」
「西か。さしずめ、浜名湖水運の奪取に動くのではないか」
「たしかに徳川方の補給路は脆弱であると堀江城の大澤左衛門佐殿よりの書状で存じておりますが……」
「その脆弱な補給路を盤石なものとするべく、家康自らが動くこととしたのならば筋は通るであろう。そして、それを決断したのは、ここの囲みは家臣らに任せておけば十分だと判断したうえでの行動であろう」
ここは家臣たちに任せておけば包囲は維持できる。そう家康が判断したのであれば、懸川城へ籠城する今川軍は随分見くびられたことにもなる。そのような屈辱的なこと、今川譜代の朝比奈備中守には耐えがたいことであったが、短慮は避けるべきだと自分に言い聞かせていた。
「じゃが、当主自らが陣頭指揮を執らねばならぬほどの事態となっていようとは、宇津山城の大原肥前守殿と堀江城の大澤左衛門佐殿は大層善戦しているようですな」
続いて口を開いたのは百戦錬磨の古強者・岡部五郎兵衛元信であった。今川義元から『元』の一字を、武田信玄から出家前の諱の一字である『信』を拝領した、今川家からも武田家からも認められた名将は氏真の推測をもとに考えられる可能性を口にした。
宇津山城の大原肥前守資良、堀江城の大澤左衛門佐基胤が家康自ら浜名湖水運の確保に動かざるを得ないほど善戦している。だとすれば、浜名湖水運は今川方が圧倒的に優位なのではないかと推測できる。
「そうじゃ、そなたらに良い知らせがあるのだが聞きたいか」
思い出した、と言わんばかりの語調で重臣三名に語り掛ける氏真。彼の表情はとても籠城中とは思えない、嬉々としたものであった。
「明朝入城した北条家臣の大藤式部丞殿より聞いたのじゃが、北条家は武田と手切に及ぶにあたり、越後の上杉弾正少弼輝虎殿と同盟を結ぶことにしたそうな」
「なっ、何と!それはまことにございまするか!?」
「ははは、次郎左衛門がそこまで驚くとは思わなんだ。じゃが、宿敵である上杉と和睦してでも武田と戦い、当家を助けるべく尽力してくれておるのじゃ。我らもここが正念場ぞ」
北条の援軍が入り支援物資がもたらされただけでなく、北条家の最新の動向も伝えられたのである。
そして、氏真はそれを最大限活用するべく、鎧甲冑を身に纏い、北条相模守氏康の娘で北条左京大夫氏政の妹にあたる春姫を連れて兵士らを鼓舞。それもあり、懸川城に籠城する今川勢の士気はうなぎ登りに回復していくのである――




