第244話 正鵠を失わず
今川上総介氏真が懸川城へ籠城する者たちを鼓舞し、家康が江馬弥三と対面したり高天神小笠原家を従属させた十二月二十一日も明けて、翌二十二日。
家康の命令を受け、城から一里離れた地に展開していた徳川軍は懸川城に接近し、攻撃の準備に入ったのである。
「殿、いかがなされまするか!ご下知あらば、すぐにも城攻めを始めまするが!」
「落ち着け、平八郎。まずは包囲するにあたって、付城を築く」
「然らば力攻めはなさらぬと?」
「うむ。今川家当主が籠城する懸川城を勝手に攻めたとあっては、武田から何を言われるか知れたものではない。ここは一度、使いを立てるつもりでおる。とはいえ、損害はわしも出したくないゆえ、まずは付城を築いて敵の補給を断ち、弱らせることを優先としたい」
さっさと強攻して懸川城を落としたいと勇躍する本多平八郎忠勝はしゅんとして、目に見えて落ち込んでいる様子となるのを見て、家康はくすりと笑う。
「良いか、小平太やそなたをはじめとする旗本衆は城北の相谷に砦を築け」
「なるほど、承知いたしました!ただちに砦普請にかかりまする!」
「頼むぞ、平八郎」
家康は旗本衆に相谷への付城構築を命じると、再び絵図と睨み合った。そこには味方の誰がどこに布陣しているのかまで、朱筆で記されていた。
「ふむ、懸川城から東海道を挟んで南西の桑田村には酒井左衛門尉忠次と石川彦五郎家成。そこからさらに南西の曽我山には酒井雅楽助政家と竹谷松平玄蕃允清宗。懸川城すぐ北の天王山へは小笠原勢と久野三郎左衛門宗能らが布陣しておる。各々が付城を築いておるが、今川勢に打って出てこれを妨害する動きは見られぬか」
城の南西と北に付城を三つも構築し始めたのである。家康としては、それを必ず籠城中の今川勢は妨害するべく打って出てくると思っていたが、まったくその気配はなかった。
「じゃが、付城を築くのを妨害してこぬのはこちらとしては勿怪の幸い。そう油断させておく朝比奈備中守や岡部五郎兵衛が策やもしれぬし、油断は禁物か」
家康は絵図を指先でなぞりながら城を攻める策を思案しているところへ、重臣・本多作左衛門重次が到着する。
「殿」
「おお、作左衛門。何ぞ敵に動きがあったか」
「いえ、ございませぬ。されど、付城の妨害に出てくるは必定と、この作左衛門は見ておりまする」
「それはわしも案じておったところじゃ」
「ゆえに、こちらから戦を仕掛けてみてはいかがかと」
「ほう、城攻めをせよと作左衛門は申すのか」
家康の確認を籠めた問いに本多作左衛門は大きく頷いた。
「このまま睨みつけるだけでは敵は必ず打って出て参りまする」
「そうであろうな」
「そうなればこちらの対応は後手に回ることとなりまするが、逆にこちらから仕掛ければ……」
「先手を打てる。敵も城を守らねばならぬゆえ、付城への攻撃を後回しにする、ということか」
「いかにも」
この献策を聞き、さすがは本多作左衛門だと家康は感心した。これならば、家康の懸念事項すべてが払拭される。
「さりとて、攻め方も難しゅうございます」
「ほう、どう難しいと考える」
「攻めすぎては付城が完成するより先に城が落ちるやもしれず、何よりこちらの被害も甚大となりましょう」
「そうじゃ。それを避けるために、わしは付城を築かせて持久戦に持っていこうとしておる」
「それは存じております。さりとて、攻め方が手緩ければ、敵は余剰戦力を付城構築の妨害へ回す可能性もございます。強すぎず、弱すぎない合戦を仕掛けるのですから、この駆け引きは極めて難しゅうございます」
「いや、まさしくその通りじゃ。じゃが、あちこちで小競り合いを起こさせるとしようぞ。一つ一つは小競り合いでも、数が多くなれば敵も対応に苦慮するであろう」
「それがよろしいかと」
家康は本多作左衛門からの献策を容れ、懸川城の今川軍と包囲する徳川軍との小規模な戦闘を開始させた。
そうしている間にも付城の構築は進んでいき、旗本衆が築いた相谷砦、酒井左衛門尉と石川彦五郎が受け持った桑田の付城は長谷砦と名付けられて完成を見た。続けて、酒井雅楽助と松平玄蕃允が曽我山に曽我山砦を完成させ、小笠原勢と久野勢が受け持った天王山の天王山砦が続々と完成していく。
そして、相谷砦と長谷砦、曽我山砦、天王山砦の構築が始まった四日後の二十六日には、家康は新たな付城を築こうとしていた。
「殿、次は何処に付城を築かれるおつもりで?」
「小平太は何処に築くがよいと考えるか」
近侍する榊原小平太康政へ意地悪く質問を投げかけた家康であったが、齢二十一の榊原小平太は絵図と睨み合い、付城を何処に築くべきか、真剣な眼差しで吟味し始める。
「殿、まずは左衛門尉殿や彦五郎殿がお築きになられた長谷砦の少し北に位置する金丸山はいかがにございましょう」
「何故か、申してみよ」
「はっ、金丸山であらば眼下を東海道が通っており、そこから分岐して二俣へ抜ける信州街道も見渡せまする。ここへ付城を築かれれば、街道の往来に睨みを利かせることができまする」
「見事じゃ。わしもそれを思案しておったところじゃ。わしは他にも三ヶ所築くつもりじゃが、どこだと思うか」
金丸山へ付城を構築するのが良いと見事看破した榊原小平太。やはり、この若武者は見る目があると家康はつくづく実感していた。そんな麒麟児・榊原小平太は再び絵図と睨めっこした後、懸川城から東海道を挟んで南に位置する高台を指さした。
「殿、この青田山はいかがでしょう」
「ほう、青田山か。それは何故じゃ」
「はっ、この青田山は懸川から南東の菊川へ抜ける街道が通っておりまする。これを遮断する狙いで青田山へ付城を築かれるのがよいと考えまする」
「見事じゃ!よくぞ見破った、まさしくその通りぞ」
榊原小平太は自分の着眼点が間違っていなかったことに安堵しつつ、何より主君・家康から称賛の言葉を頂戴したのが何よりも嬉しかったのである。
そんな榊原小平太へ家康はどこへ付城を築くべきかと三つ目の問いを投げかけた。だが、ここまでの問いで勘所を押さえたのか、瞬時に返答してしまう。彼が指さしたのは懸川城すぐ東の笠町であった。
「何故、笠町に付城を築くべきじゃと思ったのか」
「はっ、懸川城の東の防禦の要となる逆川。この河川交通を封じるためにも笠町へ付城を築いておくべきではないかと」
「その通りじゃ。いやはや、小平太は目の付け所が良い」
「恐悦至極に存じます」
見事に三問連続正解した榊原小平太。だがしかし、四ヶ所目を何処に築くべきか、という家康の問いには答えられず、唸り声を上げてしまっていた。
「申し訳ございませぬ、分かりませぬ」
「ははは、謝ることではない。平八郎では一ヵ所たりとも言い当てられておらぬ。重臣らならばこれまでの経験則で言い当てられるであろうが、その年でここまで分かる者はそうはおらぬゆえ、誇ってよいぞ」
「ははっ、ありがとう存じまする。して、もう一ヵ所は何処に築かれるおつもりで?」
「うむ、先ほど小平太が指さした青田山の菊川へ抜ける街道を挟んだ杉谷じゃ。ここからならば東海道と東の相良湊へ抜ける信州街道の交差する地点を見張りやすいからの」
「なるほど、左様にございましたか」
「他にも付城を築きたい箇所はあるが、一気に進めようにも人手も資材も足らなくなる恐れがあるゆえな。順を追って進めていくこととしたい」
家康は現実的に同時に構築できる砦の数は四つほどが限界だと感じてもいた。そのため、少しずつ付城を構築していくこととしていた。
そういった極めて現実的な判断から進められた付城の構築。
二十六日からは金丸山砦は天王山砦の構築でも活躍した久野三郎左衛門宗能、久野佐渡守宗憲、本間五郎兵衛ら久野勢へ命じられ、青田山砦は形原松平紀伊守家忠と福釜松平右京亮親俊らが受け持ち、完成後はそのまま在番することとなった。
そして、最も懸川城に近い笠町砦には秋山伯耆守虎繁との交戦で敗走した作手奥平、田峯菅沼、長篠菅沼の山家三方衆が普請から在番まで担当することとなり、今川方への備えとされた。
この他にも杉谷城が築かれ、その後も大六山砦、塩井原砦、八幡山砦、龍穴峰砦、岡津砦などが次々に構築されていくこととなる。
そして同じ十二月二十六日。家康は二俣城将の鵜殿三郎氏長と二俣先方衆二十三人対して発給する起請文と知行宛行書を作成していた。
「殿、それは二俣城の者らへ発給する起請文と知行宛行書にございますか」
「左衛門尉か。うむ、その通りじゃ」
本陣へやってきた家老・酒井左衛門尉へ、家康は発給しようとしている起請文と知行宛行書を見せることとした。
まず、起請文に記されていた誓約内容は以下の三カ条であった。
一、二俣城の鵜殿らは居成とすること。
一、知行として与える約束をした場所は保証すること。
一、二俣籠城の人数については今川時代のままとすること。
「ほう、鵜殿三郎をはじめ、城将らは在城継続とし、籠城衆の人数もこれまで通りとなされるのですか」
「うむ。地の利を心得ておる者らを城に置いておく方が守備の面ではよいと思ったのじゃ。それで交渉し、何とか合意に至っておる」
「左様にございましたか。仮に城から出そうものなら、知行についても代替地を用意せねばなりませぬからな」
「その通りじゃ。それならばいっそのこと、今まで通りで良いとしてしまった方がよい」
家康は家老・酒井左衛門尉からも同意が得られたことに安堵しつつ、続けて見せた知行宛行書には以下の条文が記されていた。
――国領、山田など十六ヶ郷を今川時代のまま安堵する、と。
しかし、これには問題があった。すでに国領や二俣左衛門尉跡職一円は家康が十四日前に記した井伊谷三人衆宛の起請文で与えることとしていた郷村も幾つか含まれていたのだ。そのことについて、家康は大きな課題を残すこととなるのである。
そして、その井伊谷三人衆は家康の命を受けて、井伊谷の掻揚砦に籠城する井伊家の家老・小野但馬守道好、それに与する松下、中村といった者たちを攻撃している真っただ中であった。
小野但馬守は今川氏真の命を受けて井伊家より井伊谷を横領し、専横していた。そのこともあって、井伊谷三人衆へ味方する数の方が遥かに多かったのである。
「石見守殿、よもや憎たらしいことこの上ない小野但馬守が籠もる掻揚砦攻めの下知が殿から入るとは思わなんだ」
「うむ。しかも、容疑は今川方についたからではなく、武田への内通容疑とは意外であった」
「秋山伯耆守率いる伊那衆に山家三方衆が攻められて甚大な被害を出したゆえ、その報復なのではあるまいか」
「それは次郎右衛門の申す通り、大いにあるじゃろうな。加えて、自らに従属すると誓った久野城も攻めておるのじゃ。徳川方につくと言った久野城を攻めたのが許されるなら、武田方につこうとしている掻揚砦を攻めても差し支えないという解釈なのじゃろうて」
そう言って近藤石見守為用はにやり、と不気味な笑みを浮かべた。同伴する菅沼次郎右衛門忠久、鈴木三郎大夫重時の両名にも、どうして近藤石見守が笑うのか、理解できるような気がした。
「徳川殿もなかなかにしたたかな御方ですな」
「いかにもそうじゃ。しっかりやられたらやり返しておる。家格では遥か上の武田家に対してじゃ。そうそうできることではないぞ」
そう言って感心する菅沼次郎右衛門と鈴木三郎大夫の婿舅であったが、最年長の近藤石見守に制止され、本題の城攻めについての評議へ入っていく。
そうして家康からの命を受けた井伊谷三人衆は井伊谷の掻揚砦を実行に移した。これにより小野但馬守を筆頭として、松下、中村といった者たちは没落することとなり、砦から逃亡する際に多くが討ち取られたのであった。
かくして徳川方にとって補給路として重要拠点である井伊谷領は井伊谷三人衆によって完全に制圧され、武田方に介入させる余白をなくしてしまったのである。
そして、井伊谷三人衆による井伊谷領制圧を受けて真っ先に動いたのは野田城主・菅沼新八郎定盈であった。
機を見るに敏な菅沼新八郎は手勢を率いて出陣すると、井伊谷のすぐ南に位置する気賀、刑部の今川方へただちに攻撃を仕掛け、これを見事に敗走させたのである。これにより井伊谷から曳馬城にかけての物資輸送の安全性は格段に向上。
この勝報は二十七日に不入斗の地に布陣していた家康のもとへただちに伝達され、井伊谷三人衆による井伊谷領制圧完了の報せとともに大いに喜ばせることとなった。




