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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第242話 人生意気に感ず

 永禄十一年十二月二十一日。昨日のうちに徳川軍が懸川城から一里ほど離れた地に展開を完了させていたことは、懸川城の今川上総介氏真の方からも丸見えであった。


「御屋形様、懸川へ先着したは武田ではなく、徳川にございましたな」


「おお、備中守か。うむ、それは予も意外であったが、なぜだかそうなる気がしておった」


 櫓の上から小手をかざして遠望する氏真の傍らに立つのは鎧甲冑で身を固めた懸川城主・朝比奈備中守泰朝であった。


「兵士らの士気はどうじゃ」


「某が思っている以上に意気軒高にございまする。加えて、桶狭間合戦で先代義元公がお討ち死になされた後も鳴海城で孤軍奮闘した五郎兵衛殿が入城していると知り、皆戦意に満ちておりまする」


「武器弾薬や兵糧はまだまだ備蓄はあるか」


「はい。某が日頃から備蓄しておりました分がございますれば、この二千数百ほどの数であれば少なく見積もっても半年は籠城に耐えうるかと存じます」


 常日頃から戦時の心を忘れない武人・朝比奈備中守の備えもあり、懸川城に籠城する今川勢は当面の間は補給の心配をせずに戦い続けられそうなのであった。それが兵士たちにも伝播しているため、極めて士気は高い状態で維持されていた。


「それならば良い。その後の信玄めの動きは何か掴めておるか」


「北条軍が薩埵峠を中心に相次いで陣城を築きつつあり、これに対抗するべく興津の横山城を中心として数カ所に陣城を築いたとのこと」


「ふむ、ともすれば合戦には至っておらぬというわけか」


「ただただ睨み合いが続き、戦局は膠着しておる様子。おそらく信玄に遠江を顧みる余裕などありますまいかと」


「それはいい気味じゃ。幾分か胸が空いたわ」


 駿府占領まで順調に事を運んだ憎き信玄が北条軍に退路を遮断されて身動きが取れなくなっている。そんな北条軍と対峙する信玄の背後を花沢城や藤枝城、伊久美山の犬間城に籠城する者たちと井川・安倍での一揆衆が脅かしている。


 憎たらしいことこの上ない武田信玄が敵に包囲されて身動きが取れなくなっていると聞けば、氏真としては「ざまあみろ」と言ってやりたくもなる。


「西から徳川が攻め寄せておらなんだら、このまま懸川を出陣し、一挙に信玄の背後を衝いて北条軍と挟撃できようものを」


「まこと、それだけが悔やまれまする。今こそ、信玄を討ち取る絶好の機会ですからな」


 氏真の本心を聞き、相槌を打つ朝比奈備中守。彼は懐から取り出した二通の書状を主君・氏真に披露したのである。


「御屋形様、こちらが宇津山城代の肥前守殿からの書状。もう一通が堀江城の左衛門佐殿からの書状にございまする」


「おお、そうであったか。して、両名はなんと?」


「おおよそ同じ内容にございました。両者で協力して船舶を派遣し、徳川へ協力する船舶や海賊衆の船を多数拿捕した旨が記されておりまする」


「ほう、それは良き報せじゃ。堀江城からの人質も無事に受け取っておるゆえ、この調子で奮戦してもらうとしようぞ」


 物資を三河から安定供給するためにも浜名湖水運を掌握したい徳川方の動きを完全に封じているというのだから、浜名湖水運の主導権争いは今川方の圧勝といっても過言ではなかった。それゆえに氏真も必然的に上機嫌となる。


「うむ、後ほど予からも大澤左衛門佐基胤、中安兵部少輔種豊に宛てて堀江城を死守するよう要請する書状をしたため、送っておくとしようぞ」


「それがよろしいかと。ともすれば、あとはいかにして攻め寄せる徳川軍を防ぐか、となりまするが……」


「それは予にも見当がつかぬ。備中守は予よりも戦経験が豊富なのじゃ、何か策はないか」


「ただただ突破させぬことを最上とし、攻め寄せる徳川軍を撃退し続けるよりほかはありますまい」


「そうなるか」


「こちらが隙を見せれば落城となりましょうが、翻って、徳川軍に付け入る隙さえ見せなければ良いのです」


 朝比奈備中守の献策はただただ城を堅守すること。これが最上の一手であると断じたのである。派手さのない意見ではあるが、大きく負けさえしなければどうとでもなるというのが籠城側の強みであることは氏真も重々承知しているところであった。


「御屋形様はひとまず本丸へお戻りくださいませ。敵の様子は我らが見張っておきまするゆえ」


「うむ、頼むぞ備中守」


 氏真は城の守りを城主・朝比奈備中守へ一任すると一族が宿泊している本丸の屋敷へと踵を返した。氏真が戻ってみれば、三浦次郎左衛門氏満が中御門宣綱と何事かを語り合っているところであった。


「これは叔父上、次郎左衛門と何を話しておられたのですか」


「いや何、駿府で皆々様と句会を催しておった日々が懐かしいとこの老いぼれがぼやいておりましたのを、次郎左衛門殿が聞き役となってくれておったのです」


「そうでありましたか。それにしても、此度は駿府から懸川までの道のり然り、このような窮屈な場所での生活を強いてしまい、まこと申し訳ございませぬ」


「いやいや、それにつきましては不満などございませぬ。あのまま駿府へ残っておったならば、一体どのような目に遭っていたことやら。それを思えば、こうして上総介殿と懸川へ参れたのは実に幸運であった」


「それならばようございました。叔父上、必ずや駿府を取り戻しまするゆえ、それが叶いましたならば皆で句会を催したいものですな」


「まことじゃ。その日が来るまで長生きせねばなりませぬな」


 氏真が叔母婿・中御門宣綱と在りし日の駿府を思い出しながら言葉を交わしていると、正室・春姫が娘を抱いて氏真のもとへ歩いてきたのである。


「姫よ、輿にも乗せられず、徒歩での脱出となったことはすまなかった」


「あなた様、そのことはもう謝らずともようございます。こうして無事に懸川まで参れたのですから」


「そ、そうか。して、足を痛めたと聞いておるが大丈夫か」


「ええ、日頃から歩いておらぬからか、疲れが出たようにございますが、数日休みましたら治りましてございます」


 氏真は安堵の息を漏らす。もし、春姫の身に何かあれば舅の北条相模守氏康へ何と申し伝えればよいやら、と不安に駆られていたのである。だが、侍女たちから聞かされていたよりも壮健であることに氏真は安堵していたのである。


「あなた様、城の外はいかがなっておりますか」


「城の外か。そなたも幾度か会ったことがあるであろう。あの折の竹千代、改め徳川三河守家康麾下の軍勢が一里ほど離れた場所に布陣しておる」


「ぜ、全軍にございますか」


「いや、先陣であろう。三河守の馬印が見えぬということは本隊はまだ到着しておらぬことの証左」


 そこまで言い切って氏真は後悔した。春姫は明らかに不安げな表情を浮かべているのである。これは余計なことを言ってしまったやもしれぬ、と氏真は少し後悔したが、時すでに遅しであった。


「まったく兄上はまた義姉上《あねうえ》を不安がらせておるのですか」


「おお、於松か」


「今は出家し、貞春尼だと何度申し上げねばならぬのですか。まぁ、それは良いです」


「そなたも壮健そうで何よりじゃ」


 氏真は甲斐へ嫁がせていた同母妹・貞春尼をまじまじと見つめる。その視線に対して、貞春尼はあからさまに不快感を示す。


「兄上、私のことは良いのです。外の敵勢はおよそいかほどに」


「三千ほどであろう。城に籠もっておる兵数をさほど変わらぬ」


「でしたら安全にございましょう。城を落とすには三倍以上の兵が必要となりますから」


「そう聞くが、それが正しいとすれば当城を落とすには八千は必要となろう」


「三河ではそれだけの兵は集められましょうか」


「無理であろうな。集められたとしても浜名湖には当家に与する者が多くおるゆえ、そちらの警戒にも兵力を割いておるのじゃ。到底、それだけの数をこちらへは回せぬ」


 貞春尼は同母兄・氏真がそう断言するのを聞くと口角を上げ、兄嫁である春姫へと向き直り、優しい声音で話しかけていくのである。


「義姉上、只今兄が申した通りにございますれば、そうまで不安がることではございませぬ。いかに徳川軍といえど、無理に力攻めを仕掛けてくることはありませぬ。決して、城が落ちることはありませぬ」


 そう言って聞かせるのを聞いて、氏真はこれまでの妹とのやり取りが何のために行われたのかを理解した。すべては自分の発言のせいで不安がっている春姫の不安を払拭するためであったのだ。


 そんな貞春尼の努力を水泡に帰させようというのか、春姫と同じ齢二十二の氏真側近・朝比奈弥太郎泰勝が胴丸姿で駆け寄り、庭先に片膝ついたのである。


「いかがした、弥太郎!」


「はっ!備中守殿よりの報せにございまするが、徳川軍の先陣がこちらに向かって進軍してきているとの由!」


「それはまことか!」


「はいっ!加えて、先ほど天竜川まで物見に出ていた岡部隊の斥候の報せによれば、徳川軍の後続が渡河しつつあるとのこと!加えて、曳馬城からも敵軍が天竜川西岸目指して動き出したのことにござれば、いよいよ徳川の本隊も明日にもこちらへ参るのではないかと思われまする!」


 朝比奈弥太郎から告げられた報告を受けて、氏真は瞠目する。その隣では肩を震わせる春姫。そして、先ほどまで春姫を安心させようとしていた貞春尼すらも、手を恐怖で震わせていた。


 城のすぐ傍まで敵が接近してきたというのだから、近日中にも城への攻撃が始まるのは必定。そのことは戦と無縁であった女子たちにも理解できてしまったらしかった。


「弥太郎!」


「はっ!」


「急ぎ広間に皆を集めよ!ただちに軍議じゃ!」


「承知いたしました!」


 氏真は腹をくくり、朝比奈弥太郎に軍議を開くから重臣たちを集めるよう下知し、自らもその支度に移った。


「於松。姫とともに屋敷の中へ入っておれ」


「はっ、はい。さっ、義姉上こちらへ……」


 念のために妹と妻子を建物の中へ避難させると、氏真は三浦次郎左衛門を従えて広間へ一足早く入り、皆の到着を待った。


 そうしているうちに諸将が集まりだし、懸川城主・朝比奈備中守や氏真に駿府から付き従ってきた岡部五郎兵衛元信といった各地で戦の経験を積んできた強者の顔もあった。


「皆の者、いよいよ徳川の軍勢が城傍まで兵を進めてきた。また、なおも続々と天竜川を請う賊が渡ってきつつあり、いよいよ徳川本隊も懸川へ入ると見える」


 いよいよ徳川軍が城傍まで進んできている、すなわちまもなく城攻めが開始されるであろうことは皆の共通認識であった。それゆえに、誰しもが表情を強張らせ、警戒の色を強めている。そんな重苦しい空気に気圧されるものかと氏真は一段と声を張り上げる。


「良いか、敵はかつて当家の親類衆でもあった徳川三河守家康率いる三河衆じゃ。我が父にも気に入られるだけの才覚のある油断ならぬ敵である。そんな敵から城を守り抜くこと。それこそが我らの勝利に繋がるのじゃ」


 力説する氏真は改めて攻め寄せる敵の大将が誰であるのか、その名を告げる。中には共に桶狭間合戦を戦った者、駿府在住時代を知る者も混じっていたが、だからこそ《《裏切り者》》には負けられぬと諸将を奮い立たせた。


「先日届いた知らせによれば、宇津山城の大原肥前守と堀江城の大澤左衛門佐が連携して徳川方の船舶を数多拿捕したとのことじゃ。後方に敵を抱えながら、この堅城と名高い懸川城を攻め落とそうなどと考えておる敵など恐れるでない!ここで我らが粘りに粘れば、敵は補給に難儀し、撤退せざるを得なくなる時が参ろう!そうなれば我らの勝利じゃ!」


 氏真の言葉は多くの今川方の諸将を奮起させた。これならば勝てるかもしれない。そう城の者らに想わせておかねば、戦にすらならないことは戦経験の乏しい氏真にも分かった。だからこそ、そうならないために皆を鼓舞するような演説をしているのである。


「徳川軍さえ撤退させられれば、我らは駿河で今なお武田に抗っている諸勢と力を合わせて駿府の武田軍に攻撃を仕掛けられよう!そして、薩埵峠の北条軍と息を合わせて東西より武田軍を挟撃すれば、憎き信玄の首級をも挙げられるであろうぞ!」


 今ここを耐え抜けば、徳川軍を退けられることはおろか、憎たらしい武田信玄を討ち取る絶好の機会も巡ってくる。そんな輝かしい未来がまことに訪れるのかなど誰にも分からない。


 だが、それが来る可能性が自分たちにもあるのだと希望を抱けば、人間というものはさらなる強さを発揮する。それこそが今川家が生き残るための唯一の道なのだと氏真は演説してみせた。


 そして、軍議では誰と誰がどこを守備するのか、仔細を打ち合わせ、ひとまず徳川軍の出方を窺うことで評議は決したのであった――

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