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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第238話 相模の獅子、奮迅す

 駿河侵攻を開始して七日後に今川家の本拠地・駿府を占領するという、かつてないほど迅速かつ凄まじい戦果を挙げていた。それもあり、武田軍の各陣営では士気が上昇し、勝った勝ったと大騒ぎであった。


 さらには逃げ遅れた公家の三条西実澄を保護したり、今川に従う者たちが駿府へ提出していた人質らも傷つけることなく、保護することに徹していた。


 そんな武田信玄が本陣にて次なる一手、駿河の山西地域をいかにして制圧するか思案しているところへ、薩埵峠で寝返った葛山中務少輔氏元、瀬名源五郎氏詮といった今川御一家衆や朝比奈兵衛大夫元長、孕石主水佑元泰といった重臣らが本陣を訪ねてきたのである。


「此度は首尾よく駿府占領が成せましたこと、心よりお祝い申し上げまする」


 先頭を行く葛山中務少輔からの戦勝賀詞に、信玄は肩を揺らしながら上機嫌だと言わんばかりに豪快に笑ってみせた。


「貴公らが当家との約定に則り、瀬名谷へ退却してくださったおかげで、こうして駿府を占領することも叶った。信玄、改めて礼を申すぞ」


 過剰ではないかと思うほどに信玄は深々と頭を下げて感謝の意を示すと、寝返った者たちの所領はかねてからの約束通り安堵することも信玄自身の口から明言することで、彼らを安心させていく。


「瀬名源五郎殿、そして朝比奈兵衛大夫殿。前へ出られよ」


 突如として名指しされた瀬名源五郎と朝比奈兵衛大夫は何事であろうかと顔を見合わせ、信玄の面前へと進み出る。


「瀬名源五郎殿には此度の功績を賞して我が武田家の通字である『信』の一字を与えようぞ。以後の諱はそうじゃな、『信輝』といたすがよい」


「ははっ!ありがたき幸せ……!」


「朝比奈兵衛大夫殿へも同じく、我が武田家の通字である『信』の一字を与えて進ぜよう。以後の諱は『信置』と改めるがよかろう」


「恐悦至極に存じまする!以後はこの名に恥じぬよう戦って参りまする!」


 かくして今川家から寝返った者たちへの知行安堵状は後日授けることとしながらも、彼らは名実ともに武田家の傘下であること、すなわち駿河先方衆に位置づけられることを理解させた。


 そして、信玄が譜代家臣らを招集し、新たに武田家の傘下となった者たちも交え、抵抗する構えを見せる花沢城や藤枝城、伊久見山の今川方、駿府の北で放棄している井川・安倍の一揆をどのように鎮定していくかの軍議を行おうとした頃、駿河侵攻の開始とともに武田方へと寝返っていた信玄の異母弟・武田六郎信友が鎧甲冑に身を包んで走り寄ってきたのである。


「御屋形様、お初にお目にかかります。武田六郎信友にございまする。この度は知行を安堵いただき、ありがとう存じます」


「儂とそなたは兄弟じゃ。そのような堅苦しい挨拶は良いゆえ、本題に入れ。その様子、ただ事ではないな」


「はっ!どうやら薩埵峠が北条軍の先陣により制圧された模様!加えて、駿東郡と富士郡は北条軍により制圧されたとのこと!」


「なにっ!」


 武田六郎からの思いがけない知らせに驚く信玄であったが、彼以上に仰天したのは従属を誓ったばかりの葛山中務少輔であった。


「六郎殿、我が所領はその駿東郡と富士郡なのじゃぞ!それも占領されたと申すか!」


「おそらくはそうでありましょう。中務少輔殿がこれにおられるということは、葛山家の主力はすべてここにおるということ。北条軍にとって占領するのは容易かったのではなかろうかと」


 葛山中務少輔は力が抜けたように床几から崩れ落ちた。所領を武田軍に攻められては叶わないと今川を見限って従属したのに、自分が留守の間に本領を北条軍に根こそぎ接収されたというのだから、良い笑い種であった。


「加えて北条勢は未だに抵抗を続ける大宮城の富士信忠とも手を結び、当家の補給を遮断。背後を断つつもりで先陣を薩埵峠へ入れたのではなかろうかと」


「ちっ、左様であったか」


「その北条軍の総大将は当主である左京大夫氏政自らが務めておるとのこと!」


「なに、婿殿が総大将じゃと……」


 信玄は愕然とした。今川領への侵攻は今川氏真が宿敵・上杉弾正少弼輝虎と結んだことは甲相駿三国同盟への裏切りであるとして行っている。その旨を伝える書状も小田原城の北条相模守氏康・左京大夫氏政父子に送ったというのに、それは受け入れられなかったというのか、と。


 何より、信玄の長女・梅姫は北条家当主・左京大夫氏政に正室として輿入れしている。そんな婚姻同盟を破棄してまで、圧倒的に形勢不利である今川氏真を北条は助けるというのか、と。


 ――もしかしたら北条とも一戦交えることになるかもしれぬ。


 信玄は決してそのことを想定していなかったわけではない。だがしかし、信玄が北条と戦うにしても、今の局面は最悪と言えた。このままでは信玄率いる武田軍は兵糧や武器弾薬が枯渇し、全滅へと追いやられることも有り得る。まさに絶体絶命であった。


 東からは当主・氏政自らが指揮する北条の大軍。西には未だ意気軒高な今川方の諸城。駿府の北には井川・安部の一揆衆。信玄は文字通り三方を敵に囲まれる窮地に立たされていた。


「御屋形様、いかがなされますか」


 先鋒を務める馬場美濃守信春から決断を仰ぐ一言に信玄は腹をくくった。


「やむを得ぬ。薩埵峠すぐ西の興津へ本陣を移す。そうじゃな、興津の横山城を拠点とすれば薩埵峠の北条勢と睨み合って対陣することとし、その間の駿府支配は我が異母弟の六郎信友に委ねることといたす。者ども、支度にかかれ!」


 風林火山を体現するかのように疾風迅雷、駿府占領を成した武田信玄。彼としては駿府を制圧次第、すぐにも宇津ノ谷峠、当目峠を越えて山西地域に進軍して駿河西部を制圧。その後は大井川を渡河して遠江へ侵攻する算段であった。


 だが、事ここに至ってはそれどころではなかった。駿河西部を制圧して遠江へ進むどころか、駿府より先に進めず、さらには退路を北条軍に遮断されて補給に事欠く事態となってしまったのである。


 信玄が出陣前に抱いていた戦略はこの瞬間、大きく狂わされることとなったのである。


 ――そんな信玄が苦境に立たされる前日、北条家の居城・小田原城では一門や重臣を招集しての軍評定が執り行われていた。


 上座には今川氏真と同じく齢三十一の当主・氏政、そして齢五十四となった御隠居・氏康。


 氏政の同母弟にあたる齢二十七の大石源三氏照、同じく氏政の同母弟で齢二十四の北条助五郎氏規、齢二十一で氏政の異母弟にあたる藤田新太郎氏邦や齢十五の北条三郎といった頼もしい兄弟たち。


 そして、氏政にとっては大叔父、氏康にとっては叔父にあたる伊勢宗瑞の末子・北条幻庵。齢六十を超えているが、北条家を支えてきた頭脳は健在であり、此度の評定にも召集されたのである。


 さらに、五色備の黄備を担って北条家を武の面で支え、上げてきた戦功は数知れず。地黄八幡と呼ばれ畏怖される齢五十四の古強者・北条左衛門大夫綱成も軍議に加わっていた。


 他にも相模国中郡郡代を務める大藤式部丞、評定衆の一人で五色備の白備を担う下田城主・清水太郎左衛門尉康英といった者たちが一堂に会していた。


「皆の者、よくぞ集まってくれた。今月六日より武田信玄殿が駿河の今川領へ目下侵攻を続けておることは皆もよく存じておろう。そのことについて当家がいかに動くか、そのことを評議するべく、皆に集まって貰ったわけじゃ」


 当主・氏政が家督を譲られた時からは考えられないほどの威厳に満ちた声で一同へ告げる。とはいえ、傍らに先代当主の父・氏康がいることもあってか、多少声の上ずりは見られたが。


「まずもって侵攻前に信玄殿からは駿河侵攻の理由として上総介殿が我ら共通の宿敵である上杉弾正少弼輝虎と密約を結び、信玄滅亡之企を企図したのだそうだ」


「兄上。某からよろしいか」


「源三か、申してみよ」


「某が思うに、此度のことは静観すべきかと心得まする。上杉に内通するなど、甲州屋形も申す通り、明確な同盟違反であり、攻められても致し方なき事であろうかと。それは武田だけでなく、当家に対してもと言えましょう。何なら、武田に抑えられる前に第二次河東一乱で当家が手放さざるを得なかった駿東郡と富士郡だけでも制圧してしまうのも手であろうかと」


「まあ、確かに上総介殿が攻められて仕方なきことをした。それはわしも同意するところよ」


 当主・氏政としては舅を依怙贔屓したい感情がやや混ざってはいるものの、三国同盟の宿敵・上杉と密約を結んだとあっては攻められても仕方ないというのが本音であった。


 そして、その意見を評定の場で堂々と述べてみせた大石源三は自分は正しいことを発言したと顔に書いてあるかのように満足げな表情を浮かべ、着座。それを確認するなり、氏政は次に共有すべき事項について発言していく。


「駿府に潜らせていた草の者からの便りによれば、本日未明に我が妹の於春は上総介殿とともに駿府を脱したとのこと。されど、輿も用意できず、徒歩で逃げておったことと草の者から報告されておる」


 今川家へ嫁いだ北条相模守氏康の娘・春姫が輿でなく徒歩で逃げるという、見るも無残な敗走となった。そのような事態が起こっていようとは思わなかった一同はざわめく。それを氏政が鎮めようとする中、先に口を開いたのは御隠居の氏康であった。


「皆の者、これを聞いていかが思うか!儂は言いようのない怒りがこみ上げてくる!我が娘を腰に乗せることなく駿府を脱出した婿殿に対してではない。そうせざるを得ない状況を作り出した武田に対してである!この屈辱雪(そそぎ)がたし……!」


 隠居の氏康は心の内に抱える憤怒を暴露した。それもそのはずである。自分の娘が見るも惨めな徒歩での逃亡を余儀なくされたのである。それを聞いて関東の覇者以前に、一人の父親として激情に駆られているのであった。


「何より、一年前に武田と今川が同盟を継続できるよう儂は左京大夫とともに中人となり、相互に起請文を交換することで婚姻による同盟の裏付けがなくなったとしても同盟が破綻に至らぬよう配慮してやったことを皆もよく覚えておろうが!そうであるのに、信玄めは今川領国へ攻め入っておる!これは儂と左京大夫は中人としての面目を潰されたことと同義であろう!紛れもない当家に対しての侮辱!断じて信玄めを許すことなどせぬ!」


 あまりに激しい御隠居の怒りを前に、まだ若い北条氏康の子・北条三郎や清水太郎左衛門尉康英、大藤式部丞などの重臣もすっかり委縮してしまっていた。


「されど氏康殿。上杉や佐竹、宇都宮や里見との小競り合いが続く中、武田とも敵対するとは現実的ではありますまい」


 氏康の憤怒を前にしながら何事もなかったかのように静かに発言したのは一族の長老ともいえる北条幻庵その人であった。


「いかにも叔父上の申す通りにござる。ゆえに、上杉とは同盟を結ぶこととする」


「「ど、同盟ですと!?」」


 思いもよらなかった宿敵・上杉弾正少弼輝虎との同盟。それを父の口からしかと聞いた大石源三、藤田新太郎の両名は素っ頓狂な声を上げて驚く様子を見せた。


「その通りじゃ。上杉と結べば武田よりも厄介な敵を減らすこともできよう。その同盟交渉を新太郎、そなたに任せたい。そなたはかつて上杉に従属経験のある由良氏の指南役であろう。由良氏を通じて上杉に同盟交渉を持ちかけよ。加えて、源三には外交経験の浅い弟の面倒を見ることを命じておく」


「父上!こうなったら上杉との同盟交渉、是が非でも成して見せましょうぞ!加えて、武田の動きに備えて、北武蔵に鉢形城を築くことをお許しいただきたく」


「許可する。何かあれば源三を頼り、兄弟協力して上杉との同盟交渉を急ぎ進めよ」


「……然らば、某と新太郎は東へ睨みを利かせるため、駿河へ向かう必要はないということですか」


 三男・大石源三からの確認に対し、氏康は察しの良い息子だと感心しながら首肯する。あくまでも東の守りは上杉との同盟交渉を担う大石源三、藤田新太郎の両名を軸に担うことと言外に定められたのである。


「良いか、上総介殿は永禄三年から永禄四年にかけて当時の長尾弾正少弼景虎に攻められ、苦境に陥った我らを桶狭間合戦の傷が癒えぬ中で幾度と関東へ援軍を派遣してくれ、自らも出馬してくれた大恩がある。今こそ、この恩に報いる時であろう!」


 北条家の方針は定まった。氏康の鶴の一声で当主・氏政はその日のうちに妻の実家である武田家との同盟を破棄し、自ら小田原城を出陣して駿河を目指し、動き出したのである――

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