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不屈の葵  作者: ヌマサン
第6章 竜吟虎嘯の章
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第237話 今川氏真、遠州懸川へ脱出す

 永禄十一年十二月十三日未明。徳川三河守家康が遠江へ侵攻するべく吉田城を出陣したのと同じ頃。


 駿府館には薩埵峠で武田軍を迎撃することすら敵わず潰走し、這う這うの体で駿府へ逃げ戻った今川上総介氏真ほか側近らが慌ただしく脱出するべく荷造りを進めているところであった。


「もはや駿府で武田軍に抗うことは不可能!ここは遠州懸川へ落ち、再起を図る!皆の者、急ぎ荷物をまとめよ!」


 氏真は鎧甲冑を着込んだまま、慌ただしく側近や近侍、奥方や女中たちへ指示を出し、駿府から逃げ落ちる支度を進めさせていた。


「内匠助!」


「はっ!三浦内匠助はこれにおりまする!」


「当家の貴重書や足利尊氏公の御教書二通は用意できたか!」


「この鎧唐櫃に収めてございます!道中は某が担いで参りますゆえ、ご案じくださいますな」


「うむ、頼むぞ」


 氏真は駿府へ突入した武田軍が放火するであろうことや、財宝などは足軽らが奪っていくであろうことは想定していた。それゆえに、貴重な品物を武田軍に渡すまいとまとめさせているところなのである。


「御屋形様!」


「おう、右衛門大夫か。いかがした」


「ははっ、懸川まで落ちるとのことにございますが、いかにして向かわれまするか」


「うむ、武田軍に追いつかれては敵わぬゆえ、武田の者共が知らぬような道で参るしかなかろう。ゆえに、まずは建穂寺《たきようじ》へ向かうつもりでおる」


「なるほど。たしか建穂寺の学頭慶隆と申される方は御屋形様の係累にございましたな」


「そうじゃ。それにその者は修験者との関係も深いゆえ、山家の道を案内してもらうことも可能であろう」


 側近・三浦右衛門大夫真明は主君の考える逃走経路は実に見事であると感じていた。そのような修験者に案内してもらわなければ迅速に抜けることも叶わない道で逃げるなど、武田軍も想定すらしていないであろう、と。


 氏真が付き合いも長くなった側近の三浦右衛門大夫とこれまでのこと、これからのことを綿密に打ち合わせていると、重臣の岡部次郎右衛門尉正綱と安部大蔵尉元真が険しい表情で参上したのである。


「おう、次郎右衛門尉に大蔵尉ではないか。いかがした」


「此度は御屋形様へお別れを述べるべく参上いたした次第」


「なっ、それはいかなることぞ!」


 ――さては、この期に及んでそなたら両名まで予を見捨てるつもりか!


 そう言いたげな氏真に対し、齢二十七の若武者・岡部次郎右衛門尉は堂々と誤解であると弁明する。


「大蔵尉殿とも話し合ったのですが、我らは懸川へお供いたしませぬ」


「なに、共に懸川へは参らぬと申すか!」


「いかにも。御屋形様が懸川へ落ちられる時間を稼ぐため、ここで武田軍と討ち死に覚悟でやり合うつもりでおりますれば、すでに弟の治部右衛門に命じて配置につかせておりますれば」


「なっ、それは真か!」


 御一家衆や譜代の重臣が数多離反した中で、同じ譜代でもこのような若武者が戦死するのを覚悟のうえで武田軍を迎え撃ち、氏真が懸川へ逃げる時間を稼ごうというのである。


 一瞬でも裏切るつもりではないかと猜疑心に苛まれた氏真はその言葉を聞き、胸が罪悪感で張り裂けそうであった。


 そんな岡部次郎右衛門尉に続いて発言したのは、その隣でじっと発言する機会を窺っていた齢五十六となり、すっかり白髪頭となった老将・安部大蔵尉であった。


「御屋形様、某の隊もすでに岡部隊とともに配置につかせておりますれば、心置きなく懸川へお向かいあそばせ。それまでの時は稼いでみせましょうほどに」


「すまぬな、そなたらの忠義の心は決して忘れぬ……!」


「加えて、齢十七となりました我が嫡男、彌一郎信勝は我が本貫である安部へ向かわせました」


「なに、安部へ向かわせたと……!?」


「はっ、井川と安部の土豪らで一揆衆を結成して蜂起させるよう命じたのでございます。また、長谷川殿の軍勢は藤枝城、三浦勢は花沢城にて籠城戦の構えを、由比勢や浅原勢、斎藤勢は伊久見山へ軍勢を結集させ、皆々武田軍の襲来に備えておりますれば、駿河の山西地域のお味方は健在にございますれば。そこへ、井川と安部の一揆勢は駿府に北で抵抗いたしますゆえ、駿府へ入ったが最後、武田軍は身動きが取れなくなりましょう」


 今川譜代ですらない、土豪・安部大蔵尉は先代義元から『元』の一字を偏諱されたことを誇りにしていたが、よもや譜代の重臣以上に自分の味方をしてくれようとは思っていなかった。


 ここまで裏切り続きで心を病みそうになっていた氏真であったが、今一度奮起しようと忠臣らの言葉を聞き、心の底から思えてならなかった。


 そうして立ち直り、戦意を取り戻した氏真のもとへ、譜代家臣の朝比奈弥太郎泰勝が血相を変えて飛び込んでくる。


「弥太郎、いかがした!」


「はっ!武田軍の襲来を確認したとの報せがありましたゆえ、ご報告に上がりました!もはや一刻の猶予もございませぬ!」


 氏真は想像以上に速い武田軍の進軍に歯ぎしりした。まだまだ持っていかねばならない貴重品などがあるため、もう少ししてからの出発を予定していたのに、そのようなことをしていたのでは逃げ遅れてしまう。


「やむを得ぬ。予はすぐにも館を発つ!弥太郎は荷造りを直ちにやめ、出発すると皆に伝えて回れ!」


「ははっ!」


 朝比奈弥太郎が荷造りをしている奉公衆や女中らに懸川へ共に落ちる者はすぐに参集せよ、出発であるぞと触れ回り出すと、決然と岡部次郎右衛門尉と安部大蔵尉は起立する。


「では、御屋形様。どうかご武運を」


「次郎右衛門尉、そなたの忠義決して忘れぬ。良いか、死んではならぬぞ!」


「ははっ!」


 まずは岡部次郎右衛門尉が家臣らを従えて氏真の前を去ると、次は安部大蔵尉の番であった。


「然らば、御屋形様。無事に懸川へ逃れられますこと、お祈り申し上げまする」


「うむ。我が父の頃よりの忠義、決して忘れぬゆえ、そなたも必ず生きて我が元へ戻って参れ」


「御意」


 安部大蔵尉もまた涙をぬぐいながら立ち去ると氏真は潤んでぼやけた不明瞭な視界で空を見上げた。


「御屋形様、次郎左衛門にございまする」


「おお、次郎左衛門であったか。女房衆らの身支度は整ったか」


「はい。されど、奥方様や姫君を乗せる輿の支度が間に合わず……」


「この際、輿を用意している時間はない。やむを得ぬが、妻と娘にも徒歩で逃げてもらうほかない。次郎左衛門はすぐにも門前へ妻たちを連れて参れ」


 駿越交渉において、これから氏真が落ち延びようとしている懸川城主・朝比奈備中守泰朝とともに取次役を務めた三浦次郎左衛門氏満はすぐにも今川家の身内の女性らを集合させるべく急ぎ支度を進める。


「御屋形様。さっ、こちらへ」


 付き従う兵らを束ねる岡部五郎兵衛元信に促され、側近の三浦右衛門大夫とともに城門へ到着した氏真は女性陣の到着を待った。


 すると、三浦次郎左衛門に導かれ、まだ幼い娘を抱きかかえる齢二十二の氏真正室・春姫を先頭に、苦労して武田家から取り戻した齢二十八の妹・貞春尼、氏真の伯母・中御門宣綱の妻と齢五十八となった中御門宣綱本人、寿桂尼の妹で山科言綱後室の御黒木殿、最後に他ならぬ三浦次郎左衛門の生母である北条幻庵の娘といった者たちが到着。


「よし、出発じゃ!武田軍が駿府へ入ってくる前に、まずは建穂寺を目指す!予について参れ!」


 氏真の号令で駿府館の門扉が重苦しい音で開かれると、一行は駿府館を出立。今川氏の係累である学頭慶隆のいる建穂寺を目指したのである。


 建穂寺に辿り着いた氏真一行は学頭慶隆へ事情を説明すると、修験者たちを道案内として付けてもらえることが決まり、道案内役を得た一行は建穂寺から小瀬戸を経由し、富厚里峠を開始していた。


「きゃっ!」


「御前!」


 娘を抱きかかえる氏真正室・春姫が足元の悪い悪路で転倒すると、氏真は足を止めて助け起こす。


「大事ないか」


「はい、申し訳ございませぬ……」


「よいよい。姫は予が預かろう。そなたは我が身のことだけ案じておればよい」


 氏真は助け起こした春姫の衣に付着した土を自らの手で優しく払うと、逃避行を再開したのである。


 しかし、ろくに整備もされていない悪路であることに変わりなく、富厚里峠を抜けた先の朝比奈谷において氏真家臣・三浦義次が代々の証文をいくつか紛失してしまうなどの事件もあった。


「御屋形様、我らは常日頃より戦場を往来しておりますゆえ慣れておりますが、まだ歩けまするか」


「予は問題ない。じゃが、足腰の弱い老人や女子供もおるゆえ、思うように進めぬか」


 氏真一行は健脚なものばかりではないため、なかなか逃避行も思うに任せなかった。それでも懸命に歩き続け、宮崎《みやがさき》、笹川、入舟《にゅうふね》、地蔵峠、葉梨大沢と順次踏破してゆく。


 その葉梨大沢ではまたしても三浦義次が代々の証文を紛失する出来事や、氏真が荷物の中に入れておいた今川家代々の判形をどこかで紛失してしまうなどの惨事に見舞われた。


 それでも氏真一行は歩みを止めることなく進み続け、殿ン場平、滝沢、大賀《おおか》を経て、駿河・遠江の国境である大井川の渡渉点まで辿り着いたのである。


「ようやっと大井川まで来られたか……」


「御屋形様、ここまで来られれば懸川は目と鼻の先でございますぞ」


「うむ。そうじゃな」


 随行する三浦次郎左衛門と疲労をにじませながら会話をしていると、側近・三浦右衛門大夫が前へと進み出た。


「御屋形様、某は大井川を渡河した後に、別行動をとらせていただきたく存じます」


「なに、懸川へは入らぬと申すか!」


「どうか、お察しくださいますよう……」


 俯く三浦右衛門大夫の姿を見て、氏真はどうして駿遠国境まで共に難所を越えて逃避行をしてきたのに懸川城へ入らないのか、理由を悟った。


「そうか、そなたは城主の備中守とは不仲であったな」


「はい。ですから、某は懸川城へ入りたくないのでございます。ゆえに別行動をと」


「そなたとともにこれから先も戦いたかったが、それは叶わぬか……」


「申し訳ございませぬ。某は妻子とともに南へ落ち、懇意にしております馬伏塚城主の小笠原美作守氏興殿を頼り、再起を図るつもりにございます」


「ほう、高天神小笠原氏を頼ると申すか。うむ、気を付けて参るのだぞ」


「ははっ、御屋形様もどうかご無事で」


 氏真は三浦右衛門大夫と視線を合わせると、三浦次郎左衛門へ目配せし、進発の号令をかけさせる。


 そうして大井川の渡河が済んだところで三浦右衛門大夫は妻子と僅かな手勢とともに懸川城へ向かう氏真一行を見送ると、方向を変えて川下の方へと進んでいくのであった。


 こうして駿府からの逃避行は大井川を渡河すると、横岡を経由して目的地である懸川城下へと到着したのである。駿府を発したのが十三日、懸川への到着は二日後の十五日となっていた。


「弥太郎、城まで一走りし、城主の備中守へ予が到着した旨を伝えて来てはくれぬか」


「ははっ!承知いたしました!」


 朝比奈弥太郎が同族でもある朝比奈備中守のもとへ氏真到着を報せに行っている間に小休止とした一行。


 しばらくすると、軍勢を率いて朝比奈備中守が氏真の身柄を保護するべく出撃してきたのであった。


「御屋形様!よくぞご無事で!」


「うむ、なんとか懸川まで落ちて参れたが、多くのものを失ってしもうた……」


「ご案じなさいますな!ここ懸川城には兵粮や武器弾薬の蓄えは潤沢にございますれば!一年は籠城できまするぞ!」


「それは頼もしき限りじゃ……!」


 かくして氏真一行はようやく懸川へ辿り着き、城内にて身柄を保護されることとなった。その中で、朝比奈備中守は知り得る限りの各地の戦況を氏真へと伝えていく。


「まずは駿府にございますが、十三日に陥落。一部の軍勢が抵抗するも多勢に無勢、瞬く間に撃滅されたとの由」


「そ、そうであったか……」


 駿府陥落の報せを受け、氏真の脳裏に駿府を守るべく残留した岡部次郎右衛門尉や安部大蔵尉の顔が浮かび、彼らの安否を確かめたくなってくる感情を誰にも気づかれぬよう押し殺す。


「されど、朗報が二つございまする」


「聞こう。朗報とはなんじゃ」


「まず一つは花沢城、藤枝城、伊久見山、井川や安倍の一揆衆の抵抗が激しく武田軍は駿河西部に未だ兵を進められずにおること」


「ほう!して、もう一つは?」


「駿府が武田軍に占領されたのと同日、北条軍の先陣が薩埵峠を占領。武田軍の退路を断ったとのこと!」


 ――北条が薩埵峠を抑えた?


 決して思いがけない来援ではない。しかし、こうも迅速に妻・春姫の実家である北条家が軍を動かすと思わなかっただけに氏真は目を丸くした。


 一体、相模国で何が起こったというのか、氏真には皆目見当もつかなかった――

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