第235話 駿河侵攻の始まり
冬の冷気が肌を包み込む中、冬風に武田菱の旗が靡く。永禄十一年十二月六日、武田信玄はついに駿河侵攻を開始しようとしていた。
「皆の者、よく聞け」
駿河侵攻に帯同する重臣一同を睥睨しながら、信玄は重たい空気とともに口を開く。
「我らはこれより今川攻めへと出陣する!当主氏真は我が姉の子なれど、我が宿敵長尾弾正少弼輝虎と密約を結び、滅亡させんと企てた!これは天文二十三年より続く甲相駿三国同盟への明確な違反である!これより、不義を働きし氏真めを成敗すべく、駿河へ侵攻する!」
信玄はあくまでも氏真が盟約を反故にしたことを大義名分とし、駿河へ侵攻することを高らかに宣言した。
そして、出陣する前に小田原城の北条相模守氏康・左京大夫氏政父子へ演説したのと同義のことを記し、今川氏真との手切の理由であると主張し、今川攻めへの理解と協力を求める書状を送り、準備万端であった。
「いざ、風のごとく進めっ!出陣!」
「おおっ!」
重臣一同、信玄からの出陣命令を受けると次々にあらかじめ定められた持ち場へ戻り、隊を統率して進軍を開始する。
信玄率いる武田の大軍勢は六日に甲府府中を発し、堰を切って溢れ出す水流のように甲駿国境を突破。駿河国富士郡へと流れ込んでいく。
「待っておれよ、甥っ子氏真……!今よりその首、頂戴しに参るでな」
握り飯を頬張りながら明確な敵意を示した信玄もまた、本隊を率いて堂々と駿河入りを果たした。
「御屋形様」
「いかがした」
「はっ、富士郡の土豪らが続々と幕下に参じております」
「上々じゃ。抵抗する構えを取ったのはどこの国衆じゃ」
「はっ、先陣の小山田左兵衛尉殿からは大宮城の富士信忠が籠城の構えであると報せが入っておりますれば」
奥近習衆の一人・武藤喜兵衛からの報告を受け、信玄は髭を蓄えた顎を撫でながら思案する。
「行き掛けの駄賃じゃ。大宮城を攻め潰してしまえ。大宮城を放置しては復路や物資の運送に支障をきたす」
「はっ、承知いたしました!その旨、先陣へ伝えて参りまする!」
実兄である真田源太左衛門信綱、真田兵部少輔昌輝の二人も属する先陣からの報せと聞き、喜色満面であった武藤喜兵衛は使い番へ信玄からの指示を伝えるとすぐに駆け戻ってきた。
「ふふふ、飛び出していったゆえ、自ら兄らのいる先陣へ儂の命を伝えに行ったのかと思うたぞ」
「そのようなことはいたしませぬ!」
「ははは、それならば分かっておったわ。戯言じゃ」
信玄は武藤喜兵衛をからかいつつ進軍。無事に万沢を越え、松野、内房に布陣。富士信忠が籠城する大宮城への攻撃を命令した。所詮は駿河の一国衆の悪あがきだと侮っていた信玄であったが、富士信忠の意地の抵抗もあり、一向に落城する気配はなかった。
「ふっ、なかなか敵もやりおる。あれやこれやと手を変え攻めておるが、落ちる気配はないか」
「はっ、そのようにございまする。某が思いますに、かような小城に構うよりも駿府を陥落させることこそ肝要かと」
「うむ、美濃守が申す通りか。然らば、駿府へ向けて進軍を再開する!城攻めを中止し、全軍に薩埵峠へ向かうよう下知せよ!」
信玄が甲府を出立してから七日が経過した十二月十三日。信玄は鬼美濃こと馬場美濃守信春の進言もあり、いつまでも駿河の入り口で足止めしているわけにもいかないと大宮城攻めを中断。迅速に薩埵峠へ向かって進軍を再開したのである。
そうして信玄が駿河入りし、続々と富士郡の土豪らを従属させている頃。駿府館には甲駿国境を越えて武田信玄自らが数万もの大軍を引き連れて駿河へ侵攻したことがただちに注進された。
「御屋形様!申し上げまする!」
「おう、弥太郎ではないか。いかがした?」
「はっ、一大事にございまする!武田軍が甲駿国境を越え、富士郡へ侵攻を開始したとのこと!」
「なにっ!信玄が駿河へ侵攻してきたと申すか!」
動揺を隠せない氏真に、朝比奈弥太郎泰勝は力なく返事することしかできなかった。しかし、氏真は憎き信玄が駿河へ入ったと知るなり、正気に戻り、ただちに軍勢を招集して武田軍を迎撃せんと勇躍した。
氏真から招集を受けた今川家臣らは続々と駿府に集まり、数千もの数にまで膨れ上がった。参陣したのは御一家衆にあたる葛山中務少輔氏元、瀬名源五郎氏詮。そして、朝比奈兵衛大夫元長、岡部五郎兵衛元信、庵原将監忠縁といった譜代の重臣たちの姿も見られた。
「ええい、信玄め!目にもの見せてくれるわ!」
怒気を発して騎乗する氏真のもとへ届けられた第一報は富士郡の土豪たちが続々と武田の軍門に降ったという苛立ちを募らせる報せであった。
「ちっ、どうせ信玄のことよ。富士郡の土豪らを予め調略しておったのであろう!おのれ、小賢しい真似を……!」
富士郡の土豪は続々と武田の軍門に降ったならば、すでに万沢を越えて来ているであろうかと武田軍の位置を推定する氏真のもとへ、たちどころに第二の伝令が到着する。
「申し上げます!大宮城の富士信忠様が籠城し、武田軍を苦しめており、落城の気配はないとのこと!」
「そうか!でかした!」
思いがけない奮戦を見せる富士信忠に氏真は心の底から感謝した。もし武田軍に気づかれることなく大宮城まで進めれば、城を攻める武田軍の背後を攻めることも可能となるが、万が一にも罠であった場合には大敗する危険もあった。
「御屋形様」
「おう、五郎兵衛か。何ぞ武田を迎え撃つ策はないであろうか」
「はっ、然らば薩埵峠で迎撃するがよろしいかと。平野部で迎え撃っては兵数の差が勝敗を決しましょうが、山岳戦であらばいかに精強な武田軍で、ご当家が兵数で劣っていようとも歴戦の強者揃いでありますゆえ、勝敗は五分五分ではなかろうかと」
「五分か。うむ、それならばその間に小田原へ援兵を求め、北条勢が加勢となればいかがなろう」
「北条の援軍と合流しての戦となれば十中八九武田の敗北となりましょう。そうなれば、条件の良い和議を引き出し、甲斐へ撤兵させるが上策かと」
「和議か」
和議を結べば今回の侵攻は停止され、命拾いすることは間違いない。しかし、あの叔父のことだ、必ずや数年の後に和議を反故にして再び侵攻してくるに違いない。それが氏真の所感であった。
だが、氏真として一番の頼みの綱は駿越交渉の相手である上杉弾正少弼輝虎が信濃へ出兵し、信玄の背後を衝いてくれることであった。そうなれば、信玄は北からは上杉、東からは北条、南からは今川と三方に敵を受けることとなり、領土防衛で手一杯となるからだ。
そんな氏真の頼みの綱・上杉家は先月本庄繁長の乱を鎮圧させたは良いが、まだまだ越中での反乱分子が残っており、そちらの対応も急務のため、信濃への出兵要請を退けられているため、不可能であった。
「御屋形様、あちらが本陣となる興津の清見寺となりまする」
「うむ。戦はこれからじゃ。兵たちには明日の決戦に備え、ゆっくり休息をとるよう命じよ」
氏真が本陣となる興津の清見寺へ着陣したのは十二月十二日。着陣するなり氏真は兵士らへ休息をとるよう命じながら、軍勢を展開させて武田軍の襲来に備える陣形を取った。
いよいよ明日は武田軍との決戦だと気を引き締める氏真は緊張から眠れない夜を過ごし、迎えた十三日。この駿河侵攻の勝敗の分かれ目と両者が認識する難所・薩埵峠へ武田菱の旗を掲げた大軍勢が着陣したのである。
今川赤鳥の旗と武田菱の旗とが林立する中、先に動いたのは意外にも氏真ではなく、信玄の方であった。
武田軍の先陣が勢いよく今川方の先陣目がけて前進。一挙に白兵戦にもつれ込むかに見えた矢先、氏真の目の前に信じられない光景が広がることとなる。
「ば、馬鹿な!?」
本陣にて床几に腰かけ、先陣同士の合戦の模様を見届け、次の指示を出すべく備えていた氏真は素っ頓狂な声を上げて立ち上がる。それは本陣に控える他の重臣一同も同じであった。
そう、布陣していた味方が敵を前に次々と陣を払い、瀬名谷へと退却を開始したのである。それも、慌てて逃げ去るのではなく、まるで瀬名谷へ進軍するかのように堂々と旗を掲げて。
本陣の前に陣取っていた軍勢の大半が戦うことなく戦線を離脱し、武田軍は歓声を上げて進軍速度を加速させる。その恐ろしいとしか言いようのない光景を前に愕然とする氏真のもとへ、前線の様子を告げる早馬が本陣へ駆け込む。
「申し上げます!前線に布陣しておりました葛山中務少輔様、瀬名源五郎様、朝比奈兵衛大夫様、三浦義鏡様をはじめとする二十一名が瀬名谷へ無断で退却いたしておる由!」
使者が告げた内容は想定外も良いところであった。戦わず戦線を離脱したのは御一家衆の葛山中務少輔氏元や瀬名源五郎氏詮。それに、朝比奈兵衛大夫元長や三浦義鏡といった今川譜代の重臣らが揃いも揃って退却を開始したのである。
武田軍と軍勢の大半が四散するなど想定すらしていなかった氏真にとって、このような衝撃的な出来事は脳の処理が追いつかなかった。
今年で齢四十九の葛山中務少輔氏元は駿河国駿東郡の国衆で、天文十四年の第二次河東一乱において小田原の北条氏を離反し従属した。その功績によって御厨地方を与えられ、以後は養父の葛山氏広同様に御一家衆としての待遇を受けて駿府に居住していた。
そんな葛山中務少輔の養父・葛山氏広は伊勢宗瑞の子であり、北条相模守氏康の叔父にあたる者。その縁もあり、葛山中務少輔は氏康の妹・ちよを妻としていた。すなわち、氏真の正室・春姫の叔母の婿にあたるのが葛山中務少輔という男であった。
そして、その葛山中務少輔の娘婿でもある齢二十五の若武者・瀬名源五郎氏詮。彼は桶狭間合戦にも義元に従って参戦した瀬名陸奥守氏俊の長男であり、生母は今川氏親の娘、すなわち氏真の叔母。つまるところ氏真の従弟にあたる立派な一門衆なのである。
何より忘れてはならないのが瀬名源五郎はかつて失脚させられた関口伊豆守氏純の甥であることである。つまり、家康の正室・築山殿の従弟でもあるのだ。
氏真にとって妻同士が叔母と姪の関係にある葛山中務少輔や従弟にあたる瀬名源五郎氏詮といっ御一家衆に離反されたことが一番精神的に応えていた。
加えて、離反した重臣の一人・朝比奈兵衛大夫元長は父・義元から『元』の一字を与えられた武士であり、宿老として桶狭間合戦にも参加し、以後も氏真のもとで側近を務めた重臣・朝比奈丹波守親徳の長男であった。
そんな父以来の重臣たちがこぞって離反したことも、氏真の心に与えた打撃は極めて絶大なものであったのだ。
愕然したまま、時が止まったように動かなくなった氏真のもとへ駆け寄ったのは忠臣・岡部五郎兵衛元信であった。
「御屋形様、しっかりなされませ!」
そう言って肩を揺らし、氏真の意識を現実へ引き戻させ、強面な面構えでじっと氏真を見つめる。
「五郎兵衛、予は、予はどうすれば……」
「こうまで軍勢が離散しては駿府を防衛することも叶いますまい。某と同族の岡部次郎右衛門尉正綱や安部大蔵尉元真殿、庵原将監忠縁殿もおります。駿府には三浦右衛門大夫真明殿、三浦次郎左衛門氏満殿も控えております。決して皆が裏切ったわけではござらぬ!」
「じゃが、それだけの軍勢では到底駿府を守り切れぬ……」
「はい。ですから、ここは駿府を捨てるべきかと存じます」
氏真は自身を叱咤激励する岡部五郎兵衛の言葉に心動かされていた矢先、駿府を捨てるべきという発言には耳を疑った。
「五郎兵衛!そなた、予に駿府を捨てよと申すか!」
「はい。駿府はもとより敵を防ぐ造りではございませぬ。それよりもここは駿府を離れ……そうですな、いっそのこと朝比奈備中守泰朝殿の遠州懸川城へ逃れられるがよろしいかと。あの城は堅固な造りにございますれば、さしもの武田軍とて攻めあぐねましょう。その間に北条を動かせれば武田軍は退路を断たれることとなり、じきに兵糧も枯渇して停戦を申し込んで参りましょう。良いですか、御屋形様さえ無事ならばいつでも駿府を奪還することは叶うのでございます」
岡部五郎兵衛の申すことはもっともであった。そうと決まれば、氏真の成すべきことは一つ。そう、駿府までまずは生きて辿り着くこと。
「五郎兵衛の申す通りか。皆の者!この戦は負けじゃ!じゃが、予は絶対に諦めぬ!其方らの力を貸してほしい!まずは共に駿府まで退却することといたそうぞ!」
かくして、氏真の駿府経由の懸川城への逃避行が幕を開けたのであった――




