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98.動け






 ……何が起きたのだろう。


 ジェロディは地面にうつ伏せたまま、ぼんやりする頭で考えた。

 上半身が熱い。燃えるようだ。特に、右の肩口から左の脇腹にかけて。

 乾いた色の枯れ草が、じわじわと青色に染まっていく。

 神の血――そうか、僕は魔物の爪で切り裂かれたのか。どうりで呼吸がしづらいわけだ。ジェロディはどうにか息を吸おうとして、代わりにゴホッと咳き込んだ。

 途端にパッと青い血が散る。何だか呼吸音が変だ。肺をやられたのか。とすると、受けた傷は相当深い。


(まずい、な)


 痛いとか苦しいとか、そういう感覚はなかった。神子の力がそうさせるのか、それとも熱で分からなくなっているだけか。

 でも体は動かない。意識が朦朧とする。

 いっそこのまま気を失ってしまおうか。

 だけど近づいてくる。ズシン、ズシンと地を震わせながら――真っ黒お化けランキー・ブギーが。


(この、ままじゃ、)


 魂を抉り出されて喰われる。

 いや、違う。カミラやウォルドの身が危ない。

 自分が喰われたら残るはあの二人だ。魔物はきっと一片の慈悲もなく、手負いの彼らを丸呑みにするに違いない。


(うご、け……早く――)


 ぴくりと指先が痙攣した。しかし力は入らない。神の恩寵が本来なら致命傷であるはずの傷を癒やし始めているのは感じるのに。

 少しすると呼吸はだいぶ楽になった。意識も辛うじてつなぎ止めることができている。肺の傷は既に塞がり、血も止まりつつあるのだろう。

 けれどジェロディが再び立ち上がるのを、魔物は待ってはくれなかった。

 影人チェーニ・ムーシ

 もう、すぐそこにいる。


「オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、……」


 魔物は腰を屈めてジェロディを観察した。やっぱり珍しい虫でも眺めるように。

 いや、さてはジェロディが流す青い血に反応しているのか。

 魔物かれらは二十二大神と敵対する邪神の手先。

 ならば天界の神の血が流れる者を見過ごすはずがない。


 ジェロディは何とか目線を上げた。

 そこでは真っ黒な魔物が裂けるように笑んでいた。


 影人の手が伸びてくる。


(ダメだ、動け――)


「――凍える牙コオル・ヘッツ!」


 ジェロディの思考に被さって、悲鳴にも似た叫びが聞こえた。

 瞬間、真横から飛んできた何本もの氷の刃が魔物の腕に突き刺さる。

 影人が仰け反り、悲鳴を上げた。氷水系の神術。まさか。


「グモォオォオオオォオォ……!」


 怒り狂った魔物が絶叫し、右腕を振り回した。刺さっていた氷が次々と砕け、硝子が割れるような儚げな音を立てる。

 神術を振り払い、影人が顧みた先にはちっぽけな娘がいた。

 マリステア。

 魔物に見据えられ、真っ青になって震えている。どうして彼女がそこにいるんだ。どうして――僕を助けに来たんだ!


「マリー……!」


 ジェロディが振り絞った叫びは、魔物の咆吼に掻き消された。影人が歩き出す。大袈裟な足音を立てながら、しかし先程よりも断然速い歩調で。

 マリステアとの距離はあと十アナフ(五十メートル)もない。影人の歩幅は人間の比ではないので、あっという間に距離が詰まる。

 ダメだ。ダメだダメだダメだ!


「逃げろ、マリー……!!」


 体が軋むのも構わず、ジェロディは叫んだ。

 だがマリステアは動かない。動けないのだ。


「ティ……ティノ、さま――」


 涙に濡れた目がこちらを向いた。視線が合った。

 それがもうすぐ魔物に遮られる、


「やめろ……!」


 魔物がマリステアの眼前に迫った。そうして彼女を観察する。腰を屈めて、さっきジェロディにそうしたみたいに。


「うご、け……!」


 ジェロディは両肘を地につき、どうにか体を持ち上げた。ブチブチという音がして、衣服か皮膚か、何かが徐々に裂けていく。

 けれど何がどうなったって構わなかった。そんなことより、動け。

 動け、動け、動け!


「動けよ、早く……!」


 立ち上がろうとして、体勢が崩れた。自分が作った青い血溜まりの中に沈む。

 そのとき魔物が腰を屈めたまま、ついに左腕を振りかぶった。


「やめろ……!」


 動け。動いてくれ。頼むから。


「やめろ――!!」


 ――動け!!


 血を吐くようにジェロディが叫んだ、瞬間だった。

 右手の手套の下で何かが光る。その光が炸裂し、解き放たれ、宙を飛んで視界の端に吸い込まれていく。

 何だ、と驚いて振り向いた先には、先程ジェロディが持ち上げられなかったあの剣があった。剣は光を吸収するや、カタカタと小さく震え出す――誰も手を触れていないのに。


 それを見たジェロディがぎょっとした刹那、剣が宙に浮き上がった。かと思えばギラリと陽光を照り返し、放たれたように飛んでいく。

 まるで命を・・・・・吹き込まれたみたいに・・・・・・・・・・、剣は一直線に空を飛んだ。

 そして魔物の首に突き刺さる。何度目の絶叫とも分からぬ魔物の悲鳴が、平原を震わせる。


(今の、は――)


 ジェロディはなおもうつ伏せたまま、唖然として自身の右手に目をやった。

 今は手套に隠れて見えないが、そこに刻まれている神刻エンブレムがある。


 《命神刻ハイム・エンブレム》。


『生命神ハイムは死者の魂を導き、命なきものに命を与える神』


 と、頭の中で誰かの声がした。あの声は光の神子ロクサーナか。そう言えば彼女は、大神刻グランド・エンブレムにはそれぞれの神が持つ能力ちからが宿っていると言っていたっけ。


(だとしたら、今の光は……)


 魂、だったのだろうか。

 だから命を持たないはずのつるぎが、ひとりでに動き出した――?


(いや、だけど、)


 この際あの光の正体なんて何だっていい。とにかく今は魔物の気が逸れている。影人は首に刺さった剣を引き抜くのに夢中だ。

 そんな魔物の足元では相変わらずマリステアが立ち竦んでいた。あんなところにいたらいつ踏み潰されてもおかしくない。だからジェロディは体をもたげ、声の限りに叫ぶ。


「マリー、早く逃げるんだ! 僕なら大丈夫だから……!」


 その声に打たれたように、マリステアがびくりと震えた。常磐色の瞳を見開き、泣きながらジェロディを振り向くと、微かに口を動かしてみせる。

 何と言ったのかは分からなかった。魔物の地団駄がすべて掻き消してしまう。けれどジェロディは頷いた。もう一度、大丈夫だから、との意を込めて。


 それが伝わったのかどうか、とにかくマリステアは駆け出した。革の外套を翻し、後方でケリーを支えているフィロメーナのもとへと走り出す。

 ところが魔物の再起は早かった。影人は首から抜いた剣を振り上げると、苛立たしげに地面へ叩きつけた。

 あんなに重かった長剣が、まるで石ころみたいに跳ね上がり、落ちる。魔物は無機物には興味がないようで、黒い血に濡れた剣を無視すると逃げるマリステアを追いかけた。


 マリステアはもたついている。恐怖のあまり足が思うように動かないのだ。

 何度も転びそうになりながら、それでも前へ進もうとしている。

 なのに魔物は一瞬でそんな彼女と距離を詰め、


「マリー……!!」


 ジェロディの声を聞きつけたのか、マリステアが走りながら振り向いた。視線の先で魔物が手を振り上げている。

 マリステアの表情が絶望に染まった。黒い爪に引き裂かれ、風が低い唸りを上げる。


「――伏せていろ」


 そのときだった。

 バンッと何かが爆ぜるような音がして、突然影人の左腕が吹き飛んだ。

 肩のあたりから外れ、後ろに飛んだ黒い塊が地面を跳ねる。

 大きすぎる傷口から、真っ黒な血が驟雨のように噴き出した。

 魔物は今までのものとは比べものにならない規模の絶叫を上げ、天を仰ぐ。


 何が起きたのか、ジェロディにはさっぱり分からなかった。

 ただマリステアの無事を確かめたい一心で見やった先に、誰かいる。

 ついに何かに躓いたのか、うつ伏せに倒れたマリステアの隣。

 そこに見える黒い影。

 小型の影人――ではない。そう見紛うほどに、髪も顔も外套も黒いけど。


(あれは……)


 遠目でも分かる。

 顔の左半分が真っ黒に見えるのは、黒い布に覆われているからだ。

 鍛え抜かれた長身に、抜き身の剣。

 その双方に殺気を漲らせながら、男はニヤリと不敵に笑う。


「影人か。こんなところにこんな魔物が現れるとは驚きだが、お前も運が悪かったな」


 ジェロディはぞっとした。

 隻眼の男が浮かべた笑みは、愉悦の笑み・・・・・に見えた。

 腕を斬り飛ばされた影人が、なおも絶叫しながら男を見下ろす。

 怒りの咆吼と共に、右腕が高く振り上げられる。


「悪あがきはよせ。――終わりだ」


 男も剣を下段に構えた。影人が右手を振り下ろすと同時に男も剣を振り上げた。

 すさまじい剣圧が風を生む。まるで三日月のように巨大で、鋭利な。

 風の刃は影人の爪よりずっと速かった。枯れ草が巻き上がり、疾風が原野を駆け抜けると同時に魔物の動きがピタリと止まる。

 それからゆっくりと魔物の体は二つに割れた。

 サラサラと音を立て、闇の塊が少しずつ霧と化していく。


「あ……あなたは……!」


 ややあって、驚愕に彩られたマリステアの声が聞こえた。

 そんな彼女を見下ろしながら、男がふっと笑みを刻む。


「八年ぶりだな、マリステア。立てるか?」


 男はそう言って、何の気後れもなくマリステアに手を差し伸べた。

 その光景を茫然と見つめながら、思う。


(あの人は――)


 ジェロディは男を知っていた。

 そう、何故だか彼のことだけははっきりと覚えている。


 ヴィルヘルム・シュバルツ・ヴァンダルファルケ。


 かつて正黄戦争を父と共に戦い、数多の軍功を残した伝説の傭兵だ。



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