97.見捨てない
ずるっと嫌な音がして、ケリーの両足が地面を離れた。
後ろに伸びた彼女の影。
そこから二体目の魔物が這い出し、黒く鋭利な爪で彼女の胴を貫いたのだ。
影人。
真っ黒で巨大な人型のそれは、完全に地面から抜け出し立ち上がると、おぞましい声で高く吼えた。
そうして左手に刺さったままのケリーを見下ろし、口を開く。例によって真っ黒な、ギザギザの牙が並んだ口。
魔物はやけにゆっくりした動きで、その口元にケリーを運んだ。
ボタボタと赤い血が落ちる。
ケリーは長い髪を垂らしたままぐったりとして、動かない。
「ケリーさん……!!」
遠くで泣き叫ぶマリステアの声が聞こえた。
その甲高い悲鳴に頬を打たれて、ジェロディはようやく我に返った。
ケリー。喰われようとしている。
そうだ。助けなければ。助けなければ。助けなければ……!
そう思うのに、足が竦んで動かない。自分は今、震えているのか。
あまりに巨大で邪悪な闇の塊。そいつを前にして、神子でありながら――
「くそっ……!」
ジェロディは悪態と共に剣を抜いた。
そうすることで、まとわりつく怯懦を振り払った。
鞘鳴りを聞いたケリーの手がぴくりと動く。
ケリー。まだ生きている。助けなければ――!
「――ティノ、下がってろ!」
そのときだった。突然目の前にウォルドの巨体が飛び込んできて、落ちていたケリーの槍を拾った。かと思えば彼は四十葉(二メートル)近くもあるそれを振りかぶり、思いきり投擲する。
ブンッと風を切る音がして、投げられた槍は魔物の胸に突き立った。ギエエエエエエ、とまた金属が擦れるような悲鳴が上がる。暴れた魔物がケリーの体を振り落とした。
「ケリー……!!」
吹き飛ばされたケリーの体は、放物線を描きながら落ちてくる。それをウォルドが受け止めた。長身の彼女をジェロディが受け止めることは不可能だったから、もしも彼がいなかったらと思うとぞっとする。
「ウォルド、ケリーは……!?」
「まだ息がある。とにかく下がれ、ここじゃあの化け物に近すぎる! おいマリー、カミラはもういい、こっちを治せ……!」
ケリーを横抱きにしたまま下がり、ウォルドが叫んだ。マリステアは顔中を涙でぐしゃぐしゃにしながらカミラを一瞥し、こちらへと駆けてくる。
――そうだ、カミラ。彼女の容態は? 〝もういい〟ってどういう意味だ? 治療は既に完了したということか、それとも……
「あ、あぁ、ケリーさん……!」
ダメだ。頭の中がグチャグチャだ。思考がまとまらない。そうこうしているうちにマリステアがやってくる。
彼女は泣きじゃくりながら、馬車の陰に横たえられたケリーの傍らへ跪いた。早口に祈唱を紡ぎ、右手に蒼い光を宿す。
「ウォルド、ケリーさんは……!?」
すぐに後ろから声がした。フィロメーナだ。見れば彼女は逃げた仲間の馬を集めてそこにいる。
カミラの馬とウォルドの馬が足りないような気がするが、この状況ではそれが精一杯だったのだろう。元々白いフィロメーナの顔はますます色を失い、肌が透けているかのようだ。
「まだ生きてはいるが、この出血じゃ長くは持たねえ。早く血を止めてやらねえと手遅れになる」
「カミラは? あの子は無事なの……!?」
「あいつは――」
答えかけて、しかしウォルドは返答を躊躇したようだった。直後、魔物の絶叫が轟き渡り、二人の会話を強制的に中断する。
見れば魔物はまだ生きていた。胸に傷を負ったにしては平気な様子で、槍を引き抜き黒い血を流しながら歩いてくる。
血と瘴気と臓物の臭い。いずれもますますひどくなった。正直言って吐きそうだ。神の力で鋭くなった嗅覚が、こんなときは仇となる。
「まずいぞ、やつが来る。このままじゃ全滅だ。フィロ、馬を寄越せ!」
「い、いいけど、どうするの……!?」
「ケリーを鞍に乗せる。ティノ、手伝え。お前、こいつを支えながら手綱を捌けるか?」
「や、やるよ。だけどまだケリーの傷が……!」
「時間がねえ、治療は逃げながらにしろ。フィロはティノとマリーの馬を曳け。走るのは無理だが並足ならどうにかなる。ケリーの傷が塞がったら、そのままロカンダを目指せ」
「ま、町に戻れって言うの? どうして……!」
魔物の足音が近づいてくる。それがジェロディたちから更に冷静さを奪う。
この状況で落ち着いているのはウォルドだけだ。いや、彼にも焦りはあるのかもしれないが取り乱した様子はない。長年の戦士としての経験がそうさせるのか。早くも茫然自失しかけているジェロディとは大違いだ。
「決まってるだろ、援軍を呼んでこい。さっきの一体はケリーが無理矢理倒したが、同じ手が何度も使える相手じゃねえ。アレを倒すには人数がいる。あとは引き倒すための投げ縄もだ、すぐに持ってこい!」
「も、持ってこいって、だけどあなたはどうするの!?」
「俺はここで時間を稼ぐ。あの野郎、放っておいたらロカンダまで襲いに行くぞ。だから早く行け!」
「ダメよ、そんなの! あなた一人であれの足止めなんて無茶だわ! それにカミラも助け出さないと……!」
「あいつのことは俺が何とかする、いいから行け!」
「嫌よ! あなたたちを置いて逃げるくらいなら、私は――」
「フィロ! お前までジャンカルロと同じ間違いを繰り返す気か!」
殺気立ったウォルドの怒号が、フィロメーナを打った。打ちのめした。
直前まで錯乱した様子だった彼女は冷や水を浴びせられたみたいに硬直し、青い顔で震えている。
その瞳にみるみる涙が浮かぶのを、ジェロディは見た。
魔物が来る。もうすぐそこまで来ている。
足音が近い。ケリーも馬の背に乗せた。
あとは、
「行け、フィロ」
涙を散らし、フィロメーナが馬首を返した。彼女に手綱を曳かれたジェロディの馬とマリステアの馬が、同時に鼻先を南へ向ける。
ここからロカンダまでは、馬の駈足でおよそ一刻(一時間)。ケリーの傷が塞がるまでは走れないから、それ以上の時間がかかる。
その間、ウォルドはたった一人であの化け物と戦うのか。第一カミラはどうなる? 彼女の容態を訊かれたときの、ウォルドのあの沈黙は――?
(嫌だ)
終わる。終わってしまう。何が? 分からない。
けれどこのままでは何かが終わる。確実に。
こらえきれず、ジェロディはケリーの体を支えたまま振り向いた。先程までジェロディたちが隠れていた馬車が玩具のように吹き飛ばされ、魔物とウォルドが対峙する。
魔物は己の胸から引き抜いたケリーの槍を、ウォルド目がけて投げつけた。彼はそれを躱しながら魔物へ突っ込み、大剣を横に薙ぐ。
白刃が閃き、魔物の足に食い込んだ。しかし大木のような影人の足は、分断されることはなかった。
魔物が左手を掲げ、地面に叩きつける。巻き上がった砂塵がウォルドの姿を隠した。ジェロディは息を飲んで伸び上がる――あれではウォルドの視界が。
「フィロメーナさん――」
そう呼びかけようとして、躊躇した。
二頭の馬の手綱を曳き、先頭を行く彼女はもう振り返らない。
ただ、手綱を握る拳が震えているのを見た。
彼女の膝にぱたりと雫が落ちるのを見た。
ジェロディはもう一度、叫ぶように、思う。
(嫌だ)
自分は彼らを、死なせたくないのだ。
「ウォルド……!」
そう呼びかけて振り向いたところで、ジェロディは見た。
濛々と立ち込めた砂塵の中から、ものすごい勢いでウォルドが吹き飛んでくる。
彼はそのまま、さっきのカミラと同じように放置された馬車へ突っ込んだ。晴れた土煙の向こうで魔物がゆっくりと片足を下ろす。
ウォルドはあれに蹴り飛ばされたのか。彼が突っ込んだ馬車の周囲には、衝撃でまた砂塵が上がっていた。おかげで安否が分からない。影人。歩み寄っていく。ゆらりゆらり、頭を左右に振りながら、緩慢な動きで砂埃の中に――
「マリー! ケリーを頼む!」
瞬間、ジェロディは馬の背を飛び下りた。支えを失い、倒れかけたケリーを慌てたマリステアが横から支える。
その間に素早く剣を抜き、ジェロディは自分の馬の鞍につながれていたもう一頭の手綱を切った。元々はケリーが乗っていた栗毛だ。鞍に飛び乗り、余った手綱を結びながら馬首を返す。時間がない――走れ!
「ティ、ティノさま!? どちらへ……待って下さい、ティノさま!」
呼び止めるマリステアの声を振り切った。登りかけていた丘を駆け下る。
魔物はまだジェロディに気づいていない。やつがウォルドに接近するまであと七歩。五歩。三歩――
「間に合え……!」
腹の底からジェロディは叫んだ。途端に栗毛がぐんと速度を上げる。
よく訓練された馬だ。彼だってきっと魔物が怖いだろうに。
それでも彼は、乗り手の意志を読み取った。
全速力で巨大な魔物に向かって駆けた。
右手に剣を、左手に手綱を。
その状態でジェロディは鞍の上に立ち上がる。
魔物が馬車に到達するまで、あと一歩――
「行け!」
声の限りに再び叫んだ。叫ぶと同時に渾身の力で鞍を蹴った。
ジェロディの言葉を理解したのか、栗毛が急旋回して魔物から離れていく。
彼の馬力と体高を味方につけて、ジェロディは宙空にいた。
ちょうど魔物の肘下あたり。
向かい風に髪を煽られながら、一気に影人の左腕に迫る。
そこから先程のケリーを真似て――勢い良く剣を振り下ろした。
「グモォォオォオォオオオォオ!」
重い手応えを感じると同時に、魔物の絶叫が上がる。ジェロディが振り下ろした剣は刃の根元まで深々と黒い腕に突き刺さっていた。
しかし問題はこの高さだ。魔物の足が止まったのはいいものの、ジェロディは現在地上から半枝(二・五メートル)くらいのところにいる。
どうにか片腕で剣にぶら下がってはいるが、魔物の傷口から黒い血が溢れて柄を濡らした。おかげで手套をしていても手が滑る。
この高さから落ちたら神子でもどうなるか――。
ジェロディはごくりと生唾を飲み、選択を迫られた。
負傷を覚悟で飛び下りるか、否か。
だがそんな迷いを振り払うかのように、突然魔物が暴れ出した。
向こうもジェロディがぶら下がったままだと気づいたのだろう、激しく腕を動かしてジェロディを振り落とそうとする。
飛び下りる選択をしておくべきだった。しかし判断が遅れたジェロディはまんまと吹き飛ばされ、二枝(十メートル)ほど先にある馬車の上に落下した。
背中から真白い幌の上に落ちたと思ったら、布が破れて更に落ちる。ボスッと鈍い衝撃が全身を襲い、ジェロディは何かに埋もれた。
突然視界が真っ暗になり、何だと思ったら干し草の臭いがする。どうやら自分は馬車馬用の秣の中に突っ込んだようだ。それが緩衝材になったのだろう、痛みはほとんどなく体も動く。
運がいいのか悪いのか。そう思いながらジェロディは秣を掻き分け、「ぷはっ」とそこから顔を出した。
ようよう馬車から這い出たところで、地響きのような足音を聞く。影人は今度はジェロディへ狙いを定めたようだ。一歩一歩踏み締めるように、ゆっくりこちらへ向かってくる。
(くそっ。やっぱりあの程度の攻撃じゃ効かないか――)
あの魔物を仕留めようと思ったら、頭を狙うしかない。それはケリーが証明した。けれどあんなに高い位置に頭があったのでは、攻撃しようにも術がない。
ケリーのように魔物の腕を駆け上がるか? いや、ダメだ。そんなのはリスクが大きすぎるし、自分に同じ芸当ができるとも思わない。だったらウォルドが言っていたように、何か引き倒す方法を探す……?
必死に思考を巡らせながら、ジェロディは腰の剣へ手をやった。
ところがそこではっとする。
ない。剣が。
一瞬その事実に驚愕し、しかしすぐに気がついた。
あれは影人に刺さったままだ。
見れば魔物の左腕から、不自然に突き出た剣把が見える。
まずいことになった。魔物はどんどんこちらへ近づいてくる。
ジェロディは慌てて何か代わりになるものを探した。そして少し離れたところに、やや刃渡りの長い剣が落ちているのを発見する。
急いで駆け寄ってみると、傍には四肢をあらぬ方向に曲げた傭兵の死体が転がっていた。恐らくは影人に戦いを挑み、蹴り飛ばされるか何かしたのだろう。
ジェロディは彼に内心で詫びつつ、素早く剣に手をかけた。慣れない武器で戦うのは不安だが、この際贅沢は言っていられない――と腹を決めた、のだが。
「お、重っ……!?」
剣を持ち上げようとしたところで、ジェロディは不覚にも間抜けな声を出してしまった。だってこの剣、見た目に反してかなり重い。両手で持ち上げようとしても刃先がちょっと浮く程度で、とてもじゃないが構えられない。
恐らく元の使い手は類稀なる筋力の持ち主で、ウォルドのように怪力を活かして戦うスタイルだったのだろう。
だけど小柄で筋肉にも恵まれないジェロディには無理だ。これじゃ到底戦えない。他に何か、使えそうな武器は――
「ティノさま!!」
――マリステアの声だ。
そう思った刹那、ジェロディの全身を黒い影が覆った。
はっとして振り返る。だがジェロディはまたしても選択を誤った。
振り返るのではなく、逃げるべきだったのだ。
瞬間、真横から振り抜かれた魔物の爪がジェロディを引っかけ吹き飛ばす。
「ジェロディ……!!」
そのとき自分を呼んだのは、一体誰の声だったか。
ジェロディの体は宙を飛んだ。
己の胸から噴き出す、空よりも青い神の血が見えた。




