次席家令の憂鬱①
「どうするのだ、フェルナンド。お姫様の輿入れは1週間後だぞ」
そう傭兵隊長のナダルに言われた黒髪の青年は頭を抱えた。青年は逗留している宿屋『爛々亭』の食堂の椅子に座っている。
朝食の時間はとっくに終わり、閑散とした食堂には、フェルナンドたち以外は、食後のお茶を飲んでいる行商人風の男が片隅に座っているだけであった。
フェルナンドは漆黒の髪をもつ、今年26歳になる青年だ。長身で上品な顔立ちで町の娘たちの視線を釘付けにする美貌をもっている。着ている服も上等で町ではかなり浮いているのだが、嫌みを感じさせない爽やかさが全身を包んでいる。
彼は幼少期より、バインド伯爵家に仕え、若くして次席家令に抜擢されたエリートであった。
家令とは、伯爵家の生活全般の世話を司り、屋敷に仕える使用人の人事管理、領地から得られる収入と支出の管理、伯爵の仕事のサポートやその家族の世話等である。役職としては非常に重要であり、伯爵一家からは最も頼りにされる職である。
フェルナンドは12歳で伯爵家へ奉公に出て、賢明に働いた。そのかいもあり、小間使いから料理人見習い、そして家令見習いと職を変えて20代で次席家令の席に着いたのであった。
そしてフェルナンドは主席家令のロダンから命じられ、2ヶ月後に結婚を控えたバインド伯爵家の一の姫、ミリィリャ姫の持参金の一部となる羊の買い付けを任されたのだ。これは大変重要な役であり、信頼されてのことであった。
高貴な身分の花嫁が大量の持参金を持って嫁ぐのは、この国の貴族の習慣であった。金銀財宝はもちろん、牛、豚、羊などの家畜。絹や木綿などの布地など、持参金は実家の権勢を象徴しているのだ。
2ヶ月前にこのルルドの町に来たフェルナンドであったが、羊の買い付けに苦労した。何しろ、買い付けに来たのはただの羊ではない。大変に貴重な羊だ。数も50頭。任務は尋常ではない。予想されたこととは言え、予想以上に時間がかかった。バインド伯爵領まで戻る期限が、あと1週間になってしまった。
(もし間に合わないことになったら……)
大失態である。これまで築いてきた地位を失うかもしれない。こういうところが、平民の辛さである。貴族とは違って、任務に失敗すれば後がない。
「無論、最短距離を通って帰る。幸い、ここからムルナウの森を通れば十分に間に合う」
フェルナンドはそう傭兵隊長に答えた。もはやそれしか選択肢はない。今から迂回するルートを使っていては間に合わない。
「しかし、そこはオオカミが出るのだろう。俺たちがいるから問題ないとはいえ、怖じ気づいた羊飼いが引き受けないのであれば、打つ手がない」
日に焼けた太い腕が革鎧から出ている。年齢は40代くらいに見えるベテラン隊長の言葉に、これまた何度も同じ言葉をフェルナンドは繰り返した。
「羊飼いをなんとか見つけるしかない」
50頭の羊を操って長い距離を歩かせることは、傭兵や家令の仕事ではない。簡単なようで非常に難しいのだ。
羊の生産地として有名なパルフェ地方は、いくつもの村や町からなり、それぞれから毎月1と15日の日に羊を取り引きする市場が開かれる。
品質の良い羊毛が取れるパルフェ地方の羊は高価で、その価値は通常の羊の3倍と言われている。パルフェ産の羊とそれ以外の羊を見れば一目瞭然で、毛並みの質と量が圧倒的に違うのだ。これは他の羊をパルフェ産と偽って取引することがとても困難なくらいの差であった。
フェルナンドはそんなパルフェ産の高価な羊の中でも最上級レベルにランクされる羊を50頭買い付けた。価格は通常の3倍から4倍したから、羊150頭以上の価値がある。
問題はその羊を遠く離れた伯爵領まで連れて帰ることである。当初は雇った羊飼いにバインド伯爵領まで同行させる予定であった。
滞在しているパルフェ地方の主要都市ルルドからバインド伯領までは、最短距離であるムルナウの森を通るルートなら、3日で到着する。これはフェルナンドが2ヶ月前に来るときに実際にかかった日にちだ。
オオカミが現れて通行に支障が出た現在、もう一つの迂回ルートを通ると徒歩で5日はかかる。馬で走ればその半分。羊を連れてであると、7日はかかるだろう。2倍以上のタイムロスである。
迂回ルートはきちんと整備された道で、道は石造りである。ところどころに警備隊が常駐する詰め所もあり、村や町が連なるために治安はよい。山賊や追いはぎの類に出くわすことはない。また危険な野生動物の心配もない。
一方、ムルナウの森ルートも道はあるにはあるが、舗装されていない荒れた道。途中に村もない。草原と深い森と岩場が連なる場所だ。
元々、羊を買い付けたら、安全を優先して迂回ルートで運ぶ予定であったが、問題が発生した。大雨と暴風雨が5日も続き、途中の町を流れる大川の氾濫で出発することができなかったのだ。しかも橋がいくつも破損し、すぐに渡ることができないという情報まであった。
それによって、迂回ルートでは間に合わないことが確定した。この危機を乗り越えるには、ムルナウの森を通り抜けるしかない。そこを通れば7日かかる道のりを3日に短縮できる。




