ムルナウの森
「旦那、その森を通るのは無理です」
これで何人に断られたであろう。俺は目の前の羊飼いの男の顔を見た。40代半ば。外で働く羊飼いが誰でもそうであるように日焼けで真っ黒な肌。そして深い皺。首には羊を呼び集め、相棒の牧羊犬に指示するための小さな角笛が粗末な革ひもで括り付けられている。
「もう何人もの仲間が帰って来ないのです。隊商が襲われたとも聞きます」
羊飼いの声は沈んでいた。親しい仲間が犠牲になったのであろうか。俺はもう少し詳しい話を聞きたかったが、内容はおおよそ想像できた。
この羊飼いは実際にオオカミに襲われたのではなく、仲間が襲われたと言う話を聞いただけなのだ。襲われたと言う仲間の状況は噂レベルに過ぎない。
「ムルナウの森を通る道は、今は通行止めになっています。何しろ、オオカミは森のいたるところに潜んでいるのです」
これまで断られた時と同じように、予定している移動ルートの危険性を指摘された。もう聞き飽きたと言っていい。こちらは手練れの傭兵5人が帯同し、危険はないと話しても羊飼いたちは首を縦に振らない。
報酬も破格の額を提示したが、誰一人、考える素振りもないところを見ると、彼らの恐怖は本物だと思われた。
しかし、貴族の屋敷で長年働いてきた俺には、その恐怖については全く理解できない。そもそも2ヶ月前、羊の買い付けのために通った時には、普通に通ることができた。移動中にオオカミの姿も遠吠えも聞いたことがなかった。
それが最近になってオオカミの群れが住み着き、人を襲うようになるとは夢にも思わなかった。
(たかがオオカミの群れだろ……。動物に何を恐れているのか……)
それが貴族の家に仕える俺のような上級の人間の認識であった。
確かにオオカミは危険な動物だ。武器なし状態で対峙したら、大人の男でもかみ殺されることは想像できる。ましてや女や子供なら襲われれば、食われてしまうだろう。
さらに群れとなれば危険は大きい。しかし、所詮は獣。武器を持った人間の前では狩られる存在である。そして俺には強力な手札がある。それは戦闘に長けた屈強の戦士が5人いること。彼らは歴戦の勇士であり、長い傭兵生活から、自然の驚異とも無縁ではない生活を送ってきた連中だ。
そんな彼らが「オオカミの群れなど、屁でもない」と言っているのだ。俺には、羊飼いたちが頑なに拒否する理由が分からない。
しかし、どんなに説得し、高額な報酬を提示しても状況は変わらなかった。今回の道中は買い付けた羊50頭も連れて歩かねばならない。羊の世話や誘導など、自分たちではできないのだ。どうしても羊飼いを雇う必要がある。
「では、誰か引き受けてくれそうな者に心当たりはないか?」
俺は羊飼いにそう尋ねた。羊飼いたちがオオカミを恐れるのは仕方がない。彼らにとってオオカミは天敵である。預かった羊が1頭でも襲われれば、経済的にも大損害である。そして羊が失われれば、それは羊飼いの責任になるのが、この世の常識であった。
男は思案している。どうやら俺の依頼を断るために、何か情報を与えることで、後腐れないようにしたいのだという意図が垣間見えた。
それはそうだ。羊飼いは、俺の後ろにいる筋肉隆々の荒くれ者の傭兵たちに、何とかしろと詰められるのだけは回避したいのであろう。
かなり時間を費やした羊飼いは、ためらいがちにこんなことを言った。
「教皇庁公認の羊飼いなら引き受けるかもしれないです……。あの方たちには神のご加護というものがありますから……」
(神のご加護だと……。)俺は心の中で繰り返した。
中年の羊飼いの男が言うそれは『魔法』とでもいうべき能力である。この世界には『魔法』を自由に操る者がいるのだ。
例えば、エリート騎士や宮廷魔術師、それに神殿に仕える神官である。最も神に仕える神官たちは『魔法』などとは言わず、『神の奇跡』と言うらしいが。
「では、その教皇庁公認の羊飼いにはどこで会えるのだ?」
俺はそう聞いた。そんな都合のよい人間がいるなら、どこで会えるか教えてほしいものだ。しかし、中年の羊飼いは俺に問いに知らないと首をすくめた。
教皇庁公認の羊飼いとやらがこんな辺境の町に都合よくいるわけがない。
話はふりだしに戻った。俺はこれまでに何度もそうしたように、深いため息をついて去って行く羊飼いの後ろ姿を眺めるしかなかった。




