岩場の攻防⑦
「それよりもこれはピンチですね」
アリエスの言葉にはどこか余裕がある。現状がかなり厳しいことは彼女にも分かっているはずだが。
「ここを突破されれば全員死ぬ」
ナダルは勢いを失った火の壁と壊れかけた柵の向こうをにらむ。うごめくオオカミがその後ろに大量控えている。オオカミたちは持久戦を選択したようだ。数で押し切り、こちらの消耗を待つもりだろう。
「仕方がありませんね。私に任せてください。最後の神の奇跡を使います」
「アリエスさん、この状況を打開できる方法があるのか?」
ナダルの問いに小さく頷き、アリエスは杖を掲げた。左手を開いて奇跡を願う言葉を紡ぎ出す。
「我が仕えし、裁きの神、正義の神ジャスティス。我に力を与え給え。神の御手を遣わし、邪悪を押し出せ。ラ・マン・アン・ヴィ・ザ・ブル・ド・デュー」
空気がよどむ。それはアリエスの突き出した左手の前方に集まり、空気が圧縮されて透明な大きな手になった。
「押し出せ!」
アリエスの言葉で大きな空気の手が前へ進む。ナダルやゴードンのすり抜け、柵や炎の壁を突き抜けた。しかし、その後ろのオオカミたちは例外であった。オオカミたちはかわすこともできず、逃れることもできず、大きな空気の手のひらに捕らえられ、そのまま後方へと押し出される。
その数、実に50頭。ピピンの命を受けて、砦の攻略をしていた第2軍団のオオカミたちである。
大きな手は森の木々をすり抜けるが、オオカミたちは違う。木に衝突して潰されたり、はじけ飛んだりする。運良く激突を免れても圧縮空気の大きな手は、最長10キロ先までオオカミたちを運ぶ。
まるで前方だけに強烈な突風が吹き抜けて、その進路にあるものを根こそぎ吹き飛ばした感じ。巨大な嵐が過ぎ去った形跡が月明かりに照らし出された。
「オオカミたちの半分はこれで消えたことでしょう。今晩は眠る時間を取れそうです」
「マジかよ……」
モーリスもゴードンも俺も唖然とする。ナダルだけが数歩外に踏み出し、外の状況を伺う。柵の外にいたオオカミたちの大半の気配がなくなった。アリエスの奇跡から逃れたオオカミもいるが、この状況に戸惑い、さらに戦意も喪失したようだ。
俺は改めてアリエスの力に驚いた。彼女はただの羊飼いではない。特別な力をもつ、教団公認の羊飼いである。
その時、俺はアリエスが神の奇跡を使う前に「最後の」という言葉を使ったことを聞き流してしまった。
*
(バカな!)
(ピピン様、第2軍団壊滅)
デオウ率いる第2軍団のオオカミたちの多くは大木に衝突して圧死や負傷した。もしくは遠くまで飛ばされて四散してしまった。現時点で軍団長のデオウも行方不明である。
オオカミのボスであるピピンは、本陣でこの一部始終を見ていた。オオカミたちを死に追いやった奇跡は、ピピンが登っていた岩を直撃したものの、岩には被害は出ず、岩にぶつかったオオカミの死体がいくつか転がった。
妃隊は岩の上にいたので被害はなかったが、岩の下にいた老親衛隊の一部は巻き込まれた。
(老親衛隊の被害は4頭。岩にぶつかり負傷。幸いにも死んだものはいません)
報告を聞いたピピンは怒りに夜の空に向かって吼えた。軍団の半数以上を失ってしまったのだ。
(人間に魔法という不思議な力がある者がいることは知っていた。しかし、間近で見たのは初めてだ。許さぬ。全員、この森からは逃がさぬぞ!)
(ピピン様、第1軍を招集して攻撃を続行しますか?)
傍らの雌オオカミがそう進言した。妃の中でも特段に賢く、ピピンの一番のお気に入りのオオカミだ。灰色の毛が主流であるにも関わらず、この雌オオカミは純白で美しい体毛を持っていた。
(ハクヒよ。余が同じ愚を行うと思うか?)
(思いません)
(うむ)
ピピンはこの賢い妃が攻めることを進言したのは本心ではなく、ピピンに冷静さを取り戻すためのものだと理解していた。自分が気に入っているのはこういうところだ。
(第1軍は散開したまま、待機せよ。今晩はこのまま様子を見る。老親衛隊と妃隊は四散した第2軍団の救出を行え。決戦は明日だ)
ピピンはそう命令した。この森は広い。人間どもは明日もこの森に留まるはずだ。この攻めにくい場所で戦っても犠牲が増えるだけだ。
「ウォー—―ン」
森中に響き渡る力強い咆哮。ピピンはオオカミたちに攻撃中止合図の命令を下す。砦の監視と包囲は継続しつつ、はじき出された仲間の救出とまだ森に散らばっている仲間の合流を優先したのだ。
*
「それにしてもルードはどこに行ったんだ」
ナダルは砦の中をくまなく捜したが、ルードの姿を見つけることはできなかった。ルードの痕跡が一切ないのだ。
「本当にルードはあなたのところに来なかったのか?」
「はい。仮眠していましたので分かりません」
「……。」
ナダルはアリエスを疑っているようだ。神の奇跡とやらで、ルードに何かをしたのではないかと考えているようだ。ただ、神の奇跡を使えば、ナダルたちも気がつくだろうし、アリエスの姿を見ると華奢で弱々しい羊飼い娘が腕力でルードをどうにかできるとも思えない。
今朝の出来事はルードの不意をついたに過ぎない。ナダルもモーリスもゴードンも、ルードの強さは知っている。目の前の娘にどうかできるような男ではない。
俺もアリエスがルードに何かをした可能性が高いと考え始めていた。壁を登って逃げたのではないかというアリエスの意見も合理性に欠く。しかし、アリエスを問い詰めたところで、彼女が真実を話すとは思えない。
(それに……)仮にルードがどうなったとしても、自業自得だと俺は考えている。ルードはアリエスを手込めにしようと画策していたことは間違いがない。俺はルードに頭を殴られて気絶させられていたからだ。
「恐らく、ルードは壁を登って外に出たのでしょう。怖くなって逃げたのではないですか?」
俺はそう話してアリエスを庇うことにした。こうなると傭兵たちもアリエスの主張を受け入れるしかない。
いくら考えても分からない。傭兵たちは、ルードが左右のどちらかの壁を登って逃げたと結論づけるしかなかった。砦の外はオオカミがいる。外に出てルードを捜すことは不可能である。
「しかし、ルードの野郎が逃げ出すのは分かるが、この砦から逃げても生きてこの森から出られないだろう」
ルードのことをよく知っているモーリスは首を傾げた。ルードはクズだが、自分が生き残るためには手段を選ばない姑息な男だ。危険な選択は絶対にしない。
遠くでかすかにオオカミの吠え声ではない音が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思うことにした。森には様々な生物が生息しており、夜に活動する生き物も多いのだ。
ナダルは交替で休むよう傭兵たちに命じた。夜明けまであと4時間。明日はオオカミたちの包囲を突破しないといけない。




