神の奇跡
「ピイイイイイイイッ~」
甲高い音が草原に響き渡る。羊飼いが羊たちを呼び寄せる笛の合図だ。訓練されている黒い羊と2匹の精霊犬が反応し、羊たちを追い立てて集結させる。
出発時間10分前である。幸せな時間を得て、不覚にもぐっすりと寝てしまった俺は、起き出して緊張感漂う動きに気を引き締める。
「傭兵のみなさん、羊たちの周辺に集まってください。森に入る前に神の奇跡を施します」
アリエスはそう言って傭兵たちを呼び寄せた。アリエスに恨みがあるルードはアリエスをにらみつけたが、アリエスは全く怯える様子もない。
「神の奇跡?」
俺が尋ねるとアリエスは、傭兵たちに聞こえるような大きな声でこう言った。
「今から2つの奇跡をみなさんと羊たちにかけます、1つは臭い消しの奇跡です。オオカミは人間と羊の臭いに敏感です。嗅覚はオオカミの最も警戒しない
といけない能力です」
そういうとアリエスは神の奇跡を願う言葉を紡ぐ。
「我が仕えし、裁きの神、正義の神ジャスティス。我に奇跡の力を与え給え。1つは人の臭いを消し去り、1つは羊と馬の臭いを消し去る。そして身に着けたるものの臭いを消し去って、我らの存在を悪から消し去って……。エレ・ミレ・レゾ・ドウル」
地面に光が現れ、アリエスたちと羊たち、荷車を牽かせた馬を包み込む。それは3秒ほど続くとやがて光は消え去った。
「これで3時間ほど、臭いでオオカミたちに発見されることはありません。注意します。森の中で不要なものは拾わないでください。それは臭いが付いています。臭いの移動はオオカミたちに発見される恐れがあります」
そういうと2つ目の奇跡に取りかかる。
「我が仕えし、裁きの神、正義の神ジャスティス。我に力を与え給え。決められし空間。そこに属するものの発する音を消し去れ。そして無音の世界に我らを収めよ。アン・ドロワ・カーム」
また光が地面から発せられる。今度は青い光だ。それはくるくる回転するとアリエスたちを包み込む。
「おい、ゴードンの体臭がしないぞ」
「バカ言え、ルードの臭い口の臭いもしないぞ」
「はあ、俺の……口が……く……」
ルードとゴードンの声がかき消された。アリエスはスタスタと集団から離れる。きょとんとしている傭兵たち。アリエスは十分に離れた場所から声を発する。この声は俺や傭兵たちにも聞こえる。
「羊たちの中心から、半径20m以内のエリアは無音となります。オオカミは音にも敏感です。この奇跡、外の音は聞こえますが、内にいる自分たちの音は相手には聞こえません。効果は3時間です」
そう言うと今度は三つ目の神の奇跡を願いだした。先ほど2つと言っていたが、三つ目は自分だけに施したようだ。それが何なのかを俺は聞きたかったが、生憎、声にならない。
「さあ、行きますよ」
そう行っているかのように口を動かし、アリエスは杖を進行方向に向けた。出発である。
無音と無臭の集団は、それこそ完全に風のそよぎのように森に入った。静けさが集団に襲いかかるが、こちらも静けさの塊である。何しろ、羊たちの鳴き声も音にならない。地面の枝を折る足音すら無音だ。
(これならオオカミどもに気づかれることなく、砦に行けるな)
無音で聞き取ることができないが、荷馬車を操るゴードンとルードは、口の動きと手によるジェスチャーで意思疎通を図る。荷馬車には俺が乗操縦する。
そして先頭にモーリスと羊を連れたアリエスが進み、後方をナダル隊長が位置する。
荷馬車には交代で休み、先頭を代わる代わる交代するが、アリエスだけは羊たちの統率でずっと歩く。天丸、地丸の精霊犬はアリエスの指示で羊の群れをまんべんなく回り、はぐれる羊がいないように動いている。
精霊犬の吠え声も羊たちの鳴き声も聞こえない。馬車の車輪音でさえかき消される無音の集団が黙々と進む。




