第31話 人生バイバイ
「君、中学生?」
岡野亜麻仁は警官から声をかけられ、口から心臓が飛び出そうになった。
「ひゃ、ひゃい!? わ、私はそのぉ……」
人慣れしてない舌足らずな、かすれた声が亜麻仁の口から漏れる。
やせ細った女子中学生のような見た目にしては、声が少し低い。
亜麻仁本人も、自分のあまり可愛くない声を気にしていた。
新宿は大久保公園の前。
夜の9時頃で、秋風というにはぬるい風が吹いていた。
数多くの立ちんぼ──路上に立って客引きしている売春婦が並んでいる。
その中において、背が低くちんちくりんで、田舎の中学生が一生懸命オシャレしたかのような、地雷系の出来損ないみたいな亜麻仁の姿は逆に目立った。
ピンクでキャラもののロンTと、グレーのティアードスカートの組み合わせが合っていない。サブカル系でいきたいのか、ゴシック系でいきたいのか方向性が迷子になっている。靴にいたっては、ワークマンの紺色のスリッポンだ。もちろんワークマンが悪いわけではなく、組み合わせとして変なだけである。
短い黒髪はぼさぼさで、前髪が伸びきっていてだらしがなかった。素材は良いのだが、ファッションや下手くそなメイク含めて色々と残念な状態になっている。
普段の警官は、この辺にたむろする売春目的の女などスルーしている。
だが、亜麻仁の未成年にしか見えぬ見た目に、思わず声かけをした。
そして、声をかけた理由はもう一つあった。
「あ、そ、そうだ……ッ! み、身分証です!」
亜麻仁が枯れ枝のような腕を、貧相な胸の前でぶんぶん左右に振った。そして、青と紫のストライプ模様のダサいショルダーバッグから、財布を取り出す。その中から身分証を探し、2人組の若い男性警官たちに見せた。
その身分証を受け取った警官が、怪訝そうな顔する。
そして何度も身分証と亜麻仁の顔とで、視線の往復をした。
29歳────
住所は大田区にある、高級というほどでもない住宅街。
それが田舎の中学生にしか見えない、岡野亜麻仁の実像だ。
(俺らより年上だったのか……それに……)
亜麻仁の年齢以上に、若い警官が驚いた情報が身分証に載っていた。
医学博士────その4文字が、名前の前に記されている。
彼女の勤め先は、白金台にある医療関係の研究機関であった。
実際に亜麻仁は医師免許も、医学博士号も持っている。もっとも、臨床研修を受けていない基礎研究医なので、患者の診察や治療などは法的に出来ない。
「ええっと、先生……でいいのかな? 答えづらい質問で申し訳ないんですが、その顔の怪我は大丈夫なのかな? 誰にやられたの?」
地域課の警官が、家出少女用の優しい口調が抜けきってない声で尋ねる。
これが、警官が亜麻仁に声をかけたもう一つの理由であった。
亜麻仁の左頬や目尻が大きく腫れている。
複数の湿布の隙間や外側に、赤黒い痛々しいあとが見受けられた。
「ああ、これは……」
亜麻仁が逡巡したあと、答える。
「認知症の患者さんに……」
そう事実だけを述べた。
「そうでしたか。失礼しました、先生」
小さく細い身体で、頑張ってることへの敬意を含んだ声だ。 亜麻仁が診察、治療の出来ぬ基礎研究医とは知るよしもない警官が、その言葉を素直に受け取る。
「ええっと、先生は今日は何の用でここに?」
「友達と待ち合わせで。歌舞伎町の中はキャッチとかスカウトが多くて、怖くてここに」
落ち着いてきた亜麻仁が、つらつらと嘘を並べる。
事前に用意していたセリフなので、噛まずに言うことが出来た。
それを信じた警官は「キャッチには、絶対ついていってはいけませんよ」とだけ注意して、去っていく。本来ならばもう少し色々と職務質問するのだが、亜麻仁が世間的なイメージだけでならエリートだからか、随分とアッサリ終わった。
「ふう……」
1時間で、結局警察官の人だけか。
亜麻仁が溜息をついて、そう思う。そして弱々しく呟いた。
「……なにやってるんだろ、私」
●
岡野亜麻仁は、都内有数の名門お嬢様学校『冥楯女学院』の出身だった。
他の超お嬢様と比べればそれほどでもないが、大田区でガラス店を経営している実家はそこそこ裕福と言っていい。定期的に行われる都営住宅のガラスの交換が、安定している上に結構な儲けになっていた。
だからこそ、研修医にならず大学院に進むことも許されたし、薄給のポストドクターとして、モラトリアムの延長のような生き方をするのも許されてた。
とはいえ、流石に男手一つで育ててくれた父親も、亜麻仁の初任給が14万円だったことについては
「東大に入って、院を出て、医師免許も博士号も持っててこの給料?」
と、驚愕を隠せない様子で、温厚な性格にしては珍しく怒ってさえいた。
もちろん娘に対する怒りではない。自慢の娘に対する金銭的評価の低さに、父親は憤慨していた。それも、ちょっと異常なくらいにしつこく怒り続けている。
それに対して、亜麻仁は父の愛に対する嬉しさより、煩わしさが勝ったようであった。「まぁ、そんなもんだよ」と、父親に対して世間をわかっている風の口調で宥めた。弱気だが、自分に甘い男親にはちょっと生意気な口が利けるらしい。
給料に不満がなかったことからわかるが、彼女の自己評価はかなり低い。
世間から見れば学力的には上澄みだが、大学時代は必死に勉強しても、周囲のそこそこ遊んでサークル活動もしている他の医学生とどっこいどっこいな成績。自分が10割の力で出来ることを、周囲が6割くらいの力でこなすのを散々体感したからだ。むしろ、周囲がどうやって遊ぶ時間を作っているか不思議だった。
「私みたいなしょうもない陰キャのガリ勉ネクラ女が、世間の『東大生は勉強しか出来ない』という誤ったイメージを作る一因になって、申し訳ない」
そう、常日頃思っていた。
とはいえ、勉強自体は好きで苦になったこともない。安定性のない安月給のポスドクだとしても、実家が裕福であったのであまり将来を気にせず、亜麻仁はそこそこレベルのお嬢様として、比較的呑気こいて人生を送っていたことは間違いない。
その風向きが変わったのは、父が交通事故を起こしてからであった。
〇
集団登校中の小学生の列に、飲酒運転の車で突っ込んだのだ。
幸いにして、被害者の中に死亡した子や、一生残る障害を負った子などはなかったし、慰謝料や治療費も任意保険で支払われた。
ただ飲酒運転は重大な法令違反であるため、保険会社から被害者へ払った金額のほぼ全額を請求された。もちろん、父自身の怪我に保険は使えない。
これで持ち家以外の貯金含む資産も、今後の仕事もほぼ全て吹き飛んだ。
特に、都営住宅に関する仕事を全て失ったのは大きい。
各種賠償が終わり一息ついた時、亜麻仁は父に対する怒りより『奇妙』さを感じた。少なくとも彼女が知る限り、父は聡明かつ真面目で、朝から酒を飲んで運転するような人間だとは、娘としての贔屓目なくとも解釈違いである。
その理由を、彼女はほどなく知ることになる。
若年性アルツハイマー型認知症。
それが父の病名だった。
脳にアミロイドβという毒素が溜まり、神経細胞が死滅して脳が委縮する。
その結果、混乱やせん妄、状況判断能力の低下などの症状が表れるのだ。
元が聡明な男性で、あまり初期症状を表に出さなかったためだろうか。
それとも、院に入って以降の亜麻仁は家には寝に帰る以外は戻らず、父との会話が少なくて気付けなかったためであろうか。結果的に、検査がかなり遅れた。
父の脳は、すでにかなり委縮していた。
そして医師免許を持つ亜麻仁から見ても、類を見ないほど進行が早い。
温厚だった父は別人のように怒りっぽくなり、些細なことで暴れる。
そのうち娘の顔もわからなくなり、亜麻仁を見て「泥棒だ!」と叫び、時には暴力を振るうことさえあった。
初老とはいえ、暴れる男性を華奢な亜麻仁の手で抑えることはほぼ不可能だ。
優しかった父親の脳がどんどん壊れていく。
父親の身体を、父親自身が壊していく。自分の身体を血が出るほど強く引っ搔いたり、壁に何度も頭をぶつけて額が割れて血を流した。
そして自慢の娘だと言ってた亜麻仁を殴ってくるのを、止めようがない。
施設に空きはなく、金もない。交通事故の時、認知症だったと認めさせる裁判を起こせば、保険会社から請求された賠償金は返ってくるかもしれなかった。だが、研究と介護でいっぱいいっぱいの亜麻仁に、そんな余裕などなかった。
〇
「とにかく、今の仕事じゃパパの介護の時間も……生活費も……」
精神的に追い詰められていた亜麻仁が考える。
その時、『風俗』の二文字が浮かんだものの、自己評価の低さから「いやいや、こんなアラサーのちんちくりん需要ないって」と思い直した。
「いや、でも実際はどうなのかな……」
研究者として、実験検証してみようという気持ちも出てきた。
出来れば、ある程度安全を確保した上で、だ。
この時の亜麻仁は、介護疲れと暴力、そして精神的な限界により少しおかしくなっていたのかもしれない。頭がまともに回ってない状態だった。
彼女が思いついたのは、とりあえず人生で初めて自分の女性としての価値を推し量ってみることだった。
世間や俗事に疎い亜麻仁であったが、ニュースくらいは見る。
だから、新宿のトー横やら立ちんぼの話は知っていた。
なので、ひとまずそこに立ってみることにした。
もちろん、売春する気はない。今のところは。
とりあえず立ってみて、自分はどれほど声を掛けられるのか──男性からそういう目で見られているのか、確かめてみようと思った。
声をかけられても、「友達との待ち合わせがある」と言って断ればいい。
正直なことを言えば、この愚かな冒険に対して少しワクワクした気持ちがあったのは否定出来ない。もちろん、後悔や罪悪感や不安もあった。
とはいえ、彼女のどちらの気持ちも、無意味に終わった。
そもそも、警察官以外からは誰からも声をかけられなかったからだ。
〇
「やっぱり、私みたいなのなんて……」
亜麻仁が暗い顔で呟く。
実際、彼女が声をかけられなかったのは魅力がないというより、未成年のような見た目だったゆえと、顔の傷のせいであった。
しかし、介護疲れで頭が回ってない亜麻仁にはそれがわからない。
自己否定感が高まるばかりだ。
この世界において、自分は誰からも必要とされてないと感じた。
そして、父の待つ……いや、父の姿をした何者かが待つ家に帰らなければならないと考えると、陰鬱な気持ちになる。
この先、父の症状が良くなることは……ない。
一度死滅した脳細胞は、海馬の一部を除いて復活はしないからだ。
どんどん父の症状が悪化していけば、遠からず研究室は辞めねばならない。
24時間、365日、こちらを娘とも思わず、見知らぬ泥棒か何かと思っている父を介護し続けねばならないからだ。
そして父は認知症患者にしては、かなり若い。まだまだ長生きするだろう。
この先10年、20年、場合によってはもっと……面倒を見続けねばならない。
父親に対する愛情は、もちろんある。あった。
だがそれは、日々の罵倒と暴力でどんどん消えていってしまっている。あくまで病気のせいで、父のせいではないと理解しているのだが、どうしようもない。
それが悲しかった。
「…………」
考えても、嫌な気持ちにしかならないので、亜麻仁がJRの新宿駅に戻ろうと思った時であった。
一番通りの新宿駅方面から、こちらに歩いてくる者に目を奪われた。
「…………あ」
異世界のお姫様みたい。
亜麻仁が、視線の先の人物を見てそう思った。
銀色の長い髪が輝く少女だ。
年齢はおそらく16歳かそこらで、日本人ではない。
オフホワイトのブラウスに、ダークグリーンのスカート。
左手にだけ、白い手袋をしている。
この歌舞伎町近辺の女性の服としては、地味と言っていい恰好。
だが、その少女は誰よりも輝いて見えた。
他の通行人も、その少女に視線を向けているのだが、誰も声をかけられない。
美しさに目を奪われると同時に、少女の発する王族のような高貴な圧に近づくことすら出来ないようだった。
「……えっ?」
亜麻仁が、通行人の視線が自分にも集まりつつあることに気付く。
何故なら、その銀髪の少女がどんどん自分に近づいているからだ。
そして、お姫様のような少女が自分の目の前でピタリと歩みを止めた。
アメジストの瞳で、じっと亜麻仁の顔を覗き込んでいる。
「プルムと申します」
長い長い銀の髪を持つ少女が、そう日本語で名乗る。
そしてダークグリーンのロングスカートの裾をつまんで持ち上げ、片膝を軽く曲げながら
「ごきげんよう」
と優雅な挨拶をした。大仰だが芝居じみてはおらず、自然な手つきである。
「え……えっと……あ、あの……」
見知らぬ異世界のお姫様のような少女に声をかけられ、亜麻仁が困惑する。
あまりに予想外すぎる展開だったためだ。
そしてプルムと名乗った少女が、さらに予想を超える言葉を発した。
「あなたを買いたいです」
そう言って、優しく微笑み亜麻仁の手を握る。
「あなたの人生を、わたくしに売ってください」
まるでプロポーズかのように、その言葉を伝えてきた。
「……はい!」
亜麻仁自身が、そう即答した自分に驚いていた。
プルムと名乗った少女の笑顔を見ていたら、自然とその言葉が出たのだ。
買われそうになった時のために考えてた、言い訳の言葉なんて出てこない。
介護疲れよりも暴力よりも将来の不安よりも、少女の笑顔と声が何よりも亜麻仁の脳を痺れさせ、思考能力を奪っていたのだった。
岡野亜麻仁はあっさりと自分の人生を売買し、普通の人生とバイバイした。
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