第29話 愛の言葉 前編
「臓物が生きながらにして、腐れ果てておるのです」
王城附の典医が申し訳なさそうな顔をする。
普段は好々爺なのだが、今日はいつもよりも皺を深め、表情も険しい。
そして老いた典医が太郎の母の身体を視線をやって、続けた。
「灼け傷で血の漿が流れてしまった。そのせいで、臓物に血が足りず、腐れてしまったのです。死肉が張り付いたままなので、治癒魔法も通じにくい」
深い火傷を負うと、血液内の成分が流出してしまう。
結果的に血が足りなくなって、臓器が生きたまま壊死してしまうのだ。
死んだ人間を生き返らせることが出来ぬように、治癒魔法とて死んだ細胞は復活させられない。それが出来るなら死んだ脳細胞を回復させ、人の蘇生すら治癒魔法で可能になるだろう。
そして、その回復させられぬ壊死した細胞が大量に臓器に張り付いているために治癒魔法を効かせにくいのが、今の太郎の母親の身体だ。
新しい細胞を作ろうにも、生きた細胞が座るべき席は、死体で埋まっている。
壊死した部分が一つの臓器の、少ない箇所であれば問題はない。
その部分を外科的に取り除けば、治癒魔法が通るようになる。
だがあまりに多くの臓器が壊死してしまって、壊死した部分を切り取ればそれだけで死を早めるだけだ。それに壊死した部分が臓器の中にランダムに存在しているため、正確に除去することすら難しい。
長々と解説したが、つまりは今の太郎の母を救うことはリード王国の医学、治癒魔法では、不可能ということだ。
あからさまに言えば、死ぬしかない。
「勇者殿は……マリーナ姫様?」
典医がユニコーンの角で太郎の母を消毒しつつ、プルムに尋ねた。
魔王国との密貿易で手に入れたもので、ユニコーンの角には浄化能力がある。しかし物質を消滅させられるわけではないので、壊死した細胞から出る腐毒や、細菌感染を防ぐ以上のことは出来ない。壊死した細胞は残る。
「残念ながら……」
プルムが首を横に振る。
太郎の母親を救える唯一の可能性である勇者は、すでに海を越えて魔王国に潜入している。彼女は『超人』のスキルを一時的に他者に共有させられる。細胞の壊死も関係なく、治ってしまうから治癒魔法とは一線を画したスキルなのだ。
同じ『超人』のスキルを持つ兄は、この共有が出来ない。兄には可能な空間の断裂を放つことがプルムには出来ないように、同じスキルでも可能範囲が違った。
「残念ながら、ご母堂様は助かりませぬ、太郎様」
全ての生存の可能性が絶たれたのを確信し、典医がようやく明言した。
『ご母堂様』と言って太郎と母を敬っているのは、二人が聖剣王の末裔であることを先ほどの会話で知ってしまったからだ。太郎はこれでも王族なのである。
「申し訳ありませぬ、わたくしめがもっと早く駆けつけていれば」
「あなたは何も悪くありません、典医殿」
プルムが慙愧に堪えない顔をする典医にはっきりそう言った。
「私が王城の窓から、太郎が衛兵を打ち倒す姿を目撃して、すぐさま貴方を呼びました。これ以上早くは、治療を開始出来なかったでしょう」
この城に来た時点で、太郎の母が助かった可能性すらなかったのだ。
「そう言ってくださると、少し気が楽になります」
典医がプルムの言葉に感謝し、次に太郎へ視線をやった。
「わたくしに出来ることは血を脳に集めて、ひと時だけご母堂様の意識を取り戻すだけです。この状況で、脳が無事なのは奇蹟でしかありませぬ」
「痛み……は?」
太郎は相変わらず無表情だが、その声には心配する響きがあった。
見るも無残な母の身体を見て、無理に目覚めさせてこの地獄の苦しみを再び知覚させることを憂慮していた。
「ご心配には及びません。これなるはリード王国の東よりもたらされた妙薬。この薬を使えば、痛みや苦しみは立ちどころに消えまする。最近、とんと手に入らなくなって、これが最後のものになりますが……」
そう言って典医が、小瓶に入った淡い黄褐色の液体を見せた。
「…………だったら……お願い」
太郎が逡巡してから、典医に頼む。
このまま眠るようにあの世に行った方が、母にとって良いかも知れない。
そうは思ったが、どうしても母に感謝を伝えたかった。それに、貴重な薬品まで使って、母子に最後の会話をさせてあげたい典医の優しさに応えたい。
典医は「せめてお顔だけでも」と言い、太郎の母の顔に残った焼けた組織をメスとハサミで取り除いてから、治癒魔法で再生させた。髪の色こそ違うが、よく見知った美しい母の顔と再び太郎は再会できた。
そして典医が痛みを取る妙薬を意識なき母に飲ませ、魔法を用いて血を脳に集中させる。そして、鹿角塩を砕いて太郎の母に嗅がせた。
鹿角塩とは炭酸アンモニウムのことであり、そのアンモニア臭を用いて、意識を失った人間に対して古くから気付け薬として用いられている。
「……ん」
と、太郎の母親の口から小さく声が漏れる。
「二人きりにしてあげましょう」
プルムがそう言うと、典医が無言でうなずく。
そして、二人は仮の治療室として使っていた月見櫓から退出した。
〇
「お母……さん……」
残された太郎が母に声をかける。
「た、太郎……太郎なのですか……」
意識を取り戻した母親がそう言って、何かを探すように両手で宙を探る。
目が見えてないようだ。眼球の治癒も済んでいるが、血液量も酸素量も足りておらず、機能していない。すぐ左で顔を覗き込む太郎を探していた。
そして、左手の指が太郎の頬に触れ、我が子の位置を確認する。
手のひらが焼け爛れた左手で、太郎の右側頭部を撫でた。
「…………」
太郎は黙ってその姿を見ていた。色々と言いたいことはある。だが、それを上手く言葉にすることが出来ないのだ。
「ごめんなさい……」
先に口を開いたのは、母親だった。
もはや感覚器官としては機能していないその瞳から、涙が零れる。
「あなたをずっと、あんな暗い地下に閉じ込め続けて……でも、私にはそれ以外に出来ることがなくて……」
違う、そう太郎は言いたかった。
お母さんの言うとおりだった。
世界は自分らを殺そうとする、残酷で恐ろしい場所だった。
お母さんは、命をかけて働いて、その世界から自分を守ってくれていた。
何も、恨むことなんてないし、お母さんが謝ることじゃない。
そう言いたいのだが、上手く言語化できない。
人とほとんど喋ったことがないので、どのタイミングで言葉を発すればいいのかわからない。
それに、様々な感情が溢れて顎が震えている。
それでも、母の最期に感謝を伝えたい。
生んでくれたこと、育ててくれたこと、心配してくれること。
どれに対してかわからないし、どれもかもしれない。
とにかく、母が眠ってしまう前にその言葉を……
そう思い太郎が口を開こうとした瞬間、再び母が小さく呟いた。
「太郎、こんな世界を生きることにさせてしまって……ごめんなさい。もう、守ることが出来なくなって、ごめんなさい……」
だんだんと、母の声が弱くなっていく。
死にゆく自分ではなく、太郎のことだけを案じ続ける言葉を発している。
だがその言葉も、どんどん小さくなっていって聞き取れない。
太郎が、母の最期の言葉を聞こうと口元に耳を寄せる。
そして、その言葉を聞いた。
「あなたは、生まれてくるべきじゃなかった」
その言葉を言い残し、母親は息を引き取った。
「…………………………………………」
月見櫓には、物言わぬ死体となった母と、何も言葉を発せぬ死体よりも瞳が虚無の闇となった子供だけが残された。
〇
もしも、この母の言葉が憎しみや悪意で発せられたものだとしたら、まだ太郎は救われただろう。
心に深い傷は残すだろうが、成長と共に人によっては癒える傷だ。
「まぁ、そんなことを言うロクでなしの毒親だったよ」と、いつの日か苦い気持ちはあるが、心の中で咀嚼し、整理がつく。酒の席で愚痴ることもあるだろう。
だが、太郎の母から発せられた言葉は違う。
太郎を恨んだわけでもなければ、憎いという気持ちもない。
カッとなって感情的に発した言葉でもない。
紛れもない────愛の言葉だった。
死の際まで我が子を想い続けた母親が、絞り出した本心。
我が子を、この残酷な世界に産んでしまったことに、心から申し訳なく想い、赦しを請う言葉。そのことを、母の愛を知った太郎は理解してしまった。
〇〇
「儂らは……生まれてくるべきじゃなかったのかも知れないな」
8か月後の魔王城で、魔王が最後に太郎へ発した言葉。
その時も、心は揺れ動かなかった。
「ああ、やはりそうだったんだ」という、冷めた納得だけが太郎にはあった。
生まれてきたこと自体が間違いならば、いつか正さねばならない。
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