第26話 外の世界
※流血シーンがあります
「あなたは、一生ここから出てはなりません」
光届かぬ地下深く。石の牢獄の奥深く。
母が我が子にそう伝えた。
「はい……」
太郎が、いつも通りに小さい声で答えた。
毎晩、同じことを聞かされ続け、もはやその言葉に何か思うこともない。
おそらく物心つく前から、11年間ずっと言われているのだろう。
地下牢ではあったが、子供が暮らすには十分な広さがあり、ベッドもトイレも用意してある。それ以外はなにもない。風呂は、時折運ばれる水を浴びるくらいだ。
「外は恐ろしい場所です。太郎、貴方はここでずっと、平和に暮らしていればいいのです。母は、貴方のためを思って言っているのです」
息子と呼ぶ黒髪の太郎とは、似ても似つかぬ赤毛の女が、判を押したようにいつもの言葉を淡々と述べる。
そうして、この地下牢に鍵をかけて去っていった。
この言葉を言って出ていくと、母を名乗る者は何日も帰ってこない。
「母ちゃんは、お仕事に行ったんだよ」
そう左目に眼帯をつけた男が、母と入れ替わりに地下牢に来た。
そして、鉄格子越しに太郎に食事を用意する。
「……ありがとう……ございます」
ぼそぼそとした声だが、太郎がちゃんと礼を言う。
前にいた別の男の時は、そう言わなければ殴られた。
「お礼言えて偉いけど、そんなかしこまんなくたっていいって! 俺はお前のお父ちゃんじゃあないけど、家族みたいなもんだからさぁ」
堅気には見えない男が、そう言って豪快に「ガハハ」と笑う。
40近い年嵩だが、無駄な肉がついておらぬ痩身。ひげ面で、灰色の髪をオールバックにしている。牛革で出来た黒い眼帯には、ネズミの意匠が施されている。
「……うん」
太郎は、この男が嫌いではなかった。
これまで、このように太郎に食事を用意する役目の男は何人かいた。だが、どいつもろくでなしで裏で太郎に暴力を振るったり、食事をわざと忘れる者もいた。
彼らは、母とは男女の関係らしく、太郎が邪魔らしい。
基本的にそれらの男と母の付き合いは短く、数か月か長くても1年もすれば別の男に変わっている。
そんな中、この眼帯の男とだけはもう数年以上、関係が続いていた。
太郎も、この男は嫌いではないので、このままでいて欲しいと望んでいる。
「それとな、今日は新しい本があるんだ」
眼帯の男がそう言って、何冊かの本を太郎に手渡した。
「おりゃあ学がなくて字がそんなに読めねぇから、適当に持ってきたけどさ」
「あり……がとう……」
「オイオイ、そんにぎゅーっとしたら、中身くしゃくしゃになっちまうぜ」
無表情だが、太郎が本を強く抱きしめるのを見て、喜びが伝わる。この地下牢以外の世界を知らぬ少年に、何かしてやれたことに眼帯の男も喜びを覚えていた。
文字は母から教えてもらったが、本は読ませてもらえなかった。
いや、幼少時は母に絵本を読み聞かせてもらったり、文字を覚えてからは自分でも読んでいたはずだ。
だが5歳くらいの時に、海が舞台の絵本を自分で読んだ時が最後だった。
海に棲む巨大な龍──深淵龍に襲われた村を、旅の修道士が退治して、海に叩き返す単純な勧善懲悪ストーリーのものだ。
元はシューガイカ教の古の聖人の話らしいが、万人向けにアレンジされ、イシュメイルにおいては宗教の壁を越えて愛されている物語となっている。
その話を子供向けに、さらに話を単純化した絵本を読んで
「海に行ってみたい」
と太郎が言った瞬間、母親の表情が一変した。
すぐさま絵本を取り上げられ、鬼のような形相になった母親から「二度とそんなことを言ってはいけません」と叱られた。
それ以降、全ての本は没収された。
その頃から太郎は、喜怒哀楽などの表情を、表に出すことがなくなった。
何かを楽しみに……例えば海に行きたいと楽しみにしながら言ったら、それを母に否定され、さらには楽しみにしていた本奪われた。
怒ったり、哀しんだりしても母は一切取り合わない。
ただ「ここから出てはいけない」とだけ、言うばかりだ。
その環境では、喜びもない。
この地下牢の闇のような虚無の少年時代を、太郎は歩んできたため、感情を表に出すやり方を喪失してしまった。
時間間隔もはっきりしない。代り映えのしない光景。
心が波立たず、停滞する。
だが、眼帯の男が来てから、再び太郎の心に時間が流れ始めた。
この狭い世界しか知らぬ太郎に、本から与えられる情報の刺激は凄まじいものがあった。と、同時にこの本に書かれている『外の世界』への憧れが高まる。
そして、悩みも生まれ始めた。
色んな本を読んで学んだところ、普通の親はこんなことをしないようだ。
自分と母親だけが、おかしな関係。
いや、本当に自分の母親なのだろうか?
だって、髪の色が自分とまるで違う。
「おいらも、そろそろ行かねぇとな……ん?」
眼帯の男が去ろうとすると、その裾を鉄格子の向こうの太郎に掴まれる。
そして、太郎がじっと無言で男の目をその漆瞳で見つめた。
「おっと、悪い悪い。いつものやつだったな」
男がうなずくと、太郎は本を牢獄の片隅に持って行った。
そして、罅の入った石壁の一部を外す。その先には、ちょっとしたスペースがあった。母も知らぬ、太郎の秘密の宝箱だ。
そこに新しい本を入れ、太郎が刃引きをした切れぬナイフを持ってくる。
これも眼帯の男からの、プレゼントであった。
「よし、それじゃ見せてみろ太郎」
眼帯の男に言われて、太郎が神速のスキルを使わずにナイフを振る。
「ダメだ。肩に力が入りすぎている。切ろう切ろうって意識が強すぎて、硬くなっちまってるぜ。もう一度。ダメだ、小指以外には力を込めるんじゃねぇ」
男がいつもと違って厳しく、だが正確に太郎に稽古をつける。
「よし、いいぜぇ。動きが滑らかになった。その感覚を忘れんなよ」
地下牢の床に、太郎の汗で小さな水たまりが出来るほど稽古だった。
しかし、これは太郎が望んだものである。
疲労が楽しい。変化が楽しい。成長が楽しい。
なにより、他人とこんなに会話するのが初めてで、楽しい。
「ねぇ……」
太郎が、息も絶え絶えに眼帯の男に視線をやる。
「これなら……外に出ても……大丈夫?」
「いい感じにはなってるが、もうちょいだな。少なくともおいらに勝てるくらいにゃあ、ならなくちゃ」
太郎の成長を嬉しく感じつつ、男がそう言った。
2年前、母に内緒で男とナイフの模擬戦をしたのだが、神速を用いてなお勝てなかったのだ。隻眼で距離感が掴みにくい中、素人の子供とはいえ神速のスキル相手に勝利するとは、男は恐るべきナイフの達人である。
流石に現在なら、神速を使えば太郎が勝つだろう。
だが、いつの日か神速なしにこの眼帯の男に勝つことを、途中目標としていた。
「おじさんに……勝てたら……外に出ても大丈夫だよね……」
「あ、ああ! 母ちゃんもきっと認めてくれるぜい」
そう男がへたくそな笑顔で答えた。
「それより……ナイフの……お礼……」
「おお、そうだ太郎。今日も頼むぜぇ」
男が砂の入った30センチ×50センチほどのお盆を持ってくる。
そして、鉄格子の前に置くと、太郎がその砂に模擬ナイフで字を書いた。
「前回やった……これ……わかる?」
「『報恩報復』って字だろ。恩も仇も、やられたらやり返せって意味の言葉なんだっけ。へへへ、俺たちの稼業に相応しい言葉だな。刺青として入れようかな」
「うん……」
「だがまぁ……やり返すにしても、やり過ぎちまうのはよくねぇがな……」
一瞬、男の顔に暗いものが浮かぶ。だがすぐに笑顔に戻った。
「そんじゃ太郎……じゃなくて先生よぉ。ナイフ術の報恩に、授業頼むぜぇ」
その後、しばらく太郎が眼帯の男に字を教えた。
紙は貴重だし、証拠が残って母にバレるかも知れないので、紙とペンの代わりに授業には砂を使っている。
報恩報復────母が教えてくれた数少ない教えだった。
それを宝物のように、太郎は心の奥底に刻んでいる。
男が地下牢から去り一人になると、太郎は再び模擬ナイフを握った。
そして、何度も何度も今日の教えを思い出し、一振り一振りに全身全霊をかけて降り続ける。
本で読んだ外の世界は、光あふれる素晴らしいものだった。
だが確かに、悪人やモンスターなども本には登場している。
お母さんはきっと、その怖いものから、自分を守るためにここに入れたんだ。
だから、強くなる。
強くなって、そういう悪者に負けないようになれば、お母さんもきっと外に出ていいと言ってくれるはず。
そう太郎が考える。
そして、ナイフを振り続けた。強く、強く、ひたすら強くなるために。
地下の暗い牢獄の中、外に憧れる少年はひたすらその牙を磨いていた。
〇
それからしばらくして、太郎は念願の外へ踏み出した。
大切なものと引き換えに。
「ドジっちまったな……」
背に何本もの矢が刺さった男が、水音を立てながら地下に来た。
背から尻、足を伝わって靴の中に自らの血が溜まっているのだろう。
男が太郎に近づくたび、湿った水音が地下牢に響く。
「おじ……さん……?」
太郎がさすがに目を見開き、僅かに驚愕の響きを声に含ませる。
「あいつら、『神速』に勝てねぇからって建物ごと火を……くそったれめ……」
そう言いながら、男が鉄格子まで辿り着く。そして、鍵を開けた。
そのまま男は、鉄格子にしがみつきながら、ずるずると床に倒れる。
「大丈……夫?」
太郎が不安そうに眼帯の男に近づくが、矢が深く傷口に刺さっていては応急手当も出来ない。そして矢を抜こうにも、子供どころか大人の力でも矢床がなければ無理だった。助けようがない。
いや、男がここではなく治療してくれる闇医者の元へ行けば、可能性は低いとはいえ助かったかも知れない。だが、男は万が一を考え、太郎の元へ来た。
闇医者に向かい、その途中で死んだら、誰もこの地下牢を開けられない。
そうなれば、太郎が餓死するからだ。
「なん……で……?」
聡明なので、そのことを瞬時に理解した太郎が男に尋ねる。
「そりゃあ、太郎おめぇ。惚れた女のガキだからな……守ってやらねぇと……」
へへへ、と男が力なく笑う。
「それより、上にいる母ちゃんの方だ太郎。ありゃあもう、闇医者に診せても助からねぇ。最後に太郎よぅ、母ちゃんに顔を見せて……や……れ……」
そう言い残し、眼帯の男はこと切れた。
「…………お父……さん」
太郎が無意識に、男をそう呼んでいた。
次の瞬間、その身体が放たれた矢のように出口に向かう。
母の危篤を、父と呼んだ男から聞かされたからだ。
初めて登る階段というものに、途中で一度転びながら地上へ向かう。
地上部分と思われる場所は、ボロボロの屋敷だった。
太郎が様々な本で読んだ知識と照らし合わせると、没落した貴族が地価高騰に伴う固定資産税の上昇に耐えられず、放棄した屋敷のようだ。
その地下に、今までずっといたらしい。おそらくは無断で。
「…………あ」
地下牢への階段すぐ近くに、母が横たわっていた。
その美しい顔は無残に火傷で爛れて、包帯が巻かれている。
他にも全身、あちこちに重い火傷を負っていた。
だが生きていた。
意識こそないが、弱々しく呼吸もしているし、首の脈も確認出来る。
そして、母の首の脈を確認した時、太郎はある事実に気付いた。
火に焼かれたあと、水をかぶったであろうその髪の毛が変化している。
髪の赤色が、水に溶けて流れ出しているのだ。今まで何らかしらの染料で、髪を赤く染めていたらしい。そして、染料が抜けた下には黒髪があった。
「…………」
太郎が、無言で自分と同じ黒髪の母の身体を背負う。そして、館から出た。
リード王国王都の、貴族の上屋敷が並ぶ地区だ。
幸い夜明けの時間帯だったので、初めて太陽を見る太郎でも、その劇しい光に目を潰されることはない。
夜明けの朝日に照らされる、美しい王都の光景。
小鳥たちが木の上で囀っている。
だが、太郎に初めて体感するその光や音を楽しむ余裕などない。
太郎が、朝日を浴びて白く輝く王城に吸い寄せられるよう、瀕死の焼けた母を背負いながら、ゆっくりと歩きだした。
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