20話 イシュカ誕生後編
「し、下が水で助かった……」
崖下でラピスウィル二等工兵が呟いた。
しかし、その軍靴を濡らす川は、水深10センチほどしかない。
とにかく、助かったんだからなんとか崖上に戻ろう……
ラピスウィルがそう思って、崖の上を見上げる。空が小さい。かなり高く、50メートルはある。ビルで言えば地上16階から18階の高さだ。
次の瞬間、ラピスウィルの身体がびくん、と強張る。
「戻る……? あそこに……?」
そう呟いたあと、ラピスウィルはゆっくりと下流に向かっていった。
もはや戻る気はない。
こうして、ラピスウィルは脱走兵になったのだ。
〇
「お腹すいた……」
丸一日以上、ラピスウィルが下流に向かって進んでいた。
川の水深が深くなったのか、途中で転んだのか全身びしょ濡れだった。
周囲はまた、崖下のような景色になっている。日中なのに太陽が見えない。
本来、遭難した際にこのような行為を取るのは、推奨されない。
途中で沢や滝にぶつかり、身動きが取れなくなることがあるからだ。
だが、この魔族の少女にとっては何も問題ない。
「うう、家に帰ってシチューが食べたい、人参抜きで…………あれ?」
空腹とはいえ、まだ選り好みする余裕があるラピスウィルが何かに気付いた。
馬車だ。崖下の小さな河原に、馬車が横向きに倒れているのが見える。
人がいるなら、助けなきゃ!
あとなんか食べ物あったら、もらっちゃおう!
その二つの動機で、ラピスウィルが馬車に近づいて中を覗く。
無人であった。
だが、カバンが1つ、横たわっているので地面に面してる窓に落ちている。
「何が入っているのかな……よっと」
ラピスウィルが馬車に潜り込み、カバンを引っ張り出した。
外に出して開けてみる。
すると、中に暗紅色の軍服が入っていた。
「服? まぁそれは、どうでもいいや。それとこっちは……おおおっ!」
もう一つのものに、ラピスウィルが思わず歓声を上げた。
茶道具一式と茶葉、それにこの世界では貴重で高級な砂糖が缶に入っている。
おそらくはリード王国から輸入したステンレス製の茶道具だ。崖から落ちても、割れたりしていない。
すぐさま火をおこし、ステンレスのケトルでお湯を沸かす。
そして、同じくステンレス製のカップにそのまま茶葉と砂糖をたっぷり入れて、沸いたお湯を注いだ。
茶漉しなどなく、茶葉が口の中に入って口当たりは最悪で、死ぬほど甘ったるかったが、ラピスウィルが今まで飲んだどんなお茶よりも美味しく感じる。
「ううう……」
涙まで出てくる。
それを3杯ほど飲むと、ようやく落ち着いてきた。
だが、脳に糖分がいきわたり、思考能力が戻ってくると再び不安に襲われる。
脱走したことより、前に先輩のアヤから教えてもらった脅威についてだ。
脱落兵や、孤立した敗残兵は、冒険者たちの格好の獲物である。
特にそれが女の魔族だと……
「いやいやいやいや、洒落にならないってそれぇ」
ラピスウィルが崖上の森を見渡す。
どこに冒険者が潜んでいるかわからないのが、恐怖だった。
と、とにかく、人の多い街に出なきゃ。
あと今の軍服、赤いジャケットが目立つから着替えよう。
そう思って、お茶を飲むために腰かけてた岩から立ち上がる。
そしてびしょ濡れのまま、先ほどのカバンに向かった。
「おっと、そうだ。『水』は、ここに残ってて」
ラピスウィルがそう言いながら進むと、彼女の髪の毛や身体や服を濡らしていた水が、まるで脱皮の時に残された殻のように、その場に残った。
水を置き去りにし、すっかり乾いたラピスウィルだけが、先に進む。
これがラピスウィル・ケルピーの魔族としての固有能力。
液体のコントロールであった。
だから、高さ50メートルから落ちても助かったのだ。
水深わずか10センチしかない川の水を、自分の真下に集めて水のクッションを作っていた。下流へ下る途中にあった滝も、彼女にとってはエスカレーターやエレベーターの類でしかない。
水馬────
湖や沼を住処にし、人を誘い込んで水中に引き込むモンスターである。
そんなラピスウィルが、馬車にあった暗紅色の制服に着替える。
そしてとにかく町を探して、彷徨い始めた。
〇
「なんか普通に町あるじゃん……」
数時間後、案外近くに町があったので、日が暮れる前に辿り着く。
冒険者に出くわすこともなかったので、コンプラ的にお見せ出来ない展開になることもなかった。
街中に入り、冒険者への不安が消えると、また別の不安が首をもたげる。
(私、脱走兵なんだよね……普通に街中歩いてて大丈夫?)
そう思った時であった。
自分に向かって、クマのような見た目の軍曹がぐんぐん近づいてくる。
や、ヤバい。脱走兵ってバレた!
に、逃げなきゃ!
とラピスウィルが考え、踵を返そうとした瞬間であった。
「大尉殿!」
軍曹が大きくそう叫んだ。
「ひぃ!」
た、大尉が後ろにいたの?
挟み撃ちされたんじゃ、逃げられない。
もう駄目だあぁ……
ラピスウィルが観念して、ぎゅっと目をつぶる。
「いかがしました、大尉殿?」
「…………あれ?」
おそるおそる目を開くと、強面の軍曹が不思議そうな顔でこちらを見ている。
後ろを振り返ると、誰もいない。
「あ、あの大尉って……誰?」
「えっ? もう一人大尉殿がいらっしゃるんですか?」
「その……いや、えっと……」
このやり取りで、ようやくラピスウィルは、軍曹が自分を大尉と呼んでることに気付いた。ビビッていたとはいえ、鈍すぎる。
「おほん、確かに大尉は私なのである。この大尉に何かよう大尉かな?」
解像度の低い将校ムーブを、ラピスウィルがする。
だが軍曹は奇妙さは感じても許容範囲だったらしく、本題を続けた。
「アルヴァ平原会戦の潰走後、友軍からはぐれてしまいました。大尉殿の指揮下に入れてもらえないでしょうか」
「そうだな。君はなんか強そうだし、私の指揮下に入るといい。ああ、ただ……」
ラピスウィルが、曇りなき眼の軍曹をじっと見る。
「何か食料を手に入れてくれたまえ。大尉は空腹なのだ」
〇
それからは、まるで雪だるま式に膨らむ借金の数値かのごとくであった。
ラピスウィル一行の頭数は、増える一方である。
適当にふらついていると、どんどんと敗残兵や脱落兵が、近衛大尉の制服を着たラピスウィルの元へ集ってくるのだ。
みんな単独でいると、冒険者に襲われやすく危険だ。だから寄ってくる。
しかし、数が増えると困ったことも出てきた。
初期の頃は、敗残兵の手持ちと民間人からの徴発で食料は賄えた。
だが、数百人を超えてくるとそうもいかない。そして必要なのは食料だけではなく、替えの下着や靴下、他にも多種に及ぶ。
期せずして、ラピスウィルは兵站の大変さを学んだ。
(ここで『実は私は大尉じゃありませんでしたー、ごめんね』って言ったらどうなるんだろう?)
と、ラピスウィルが思ったが、それこそコンプライアンス的に見せられないシーンが始まることになると思って、やめた。賢明な判断である。
しかし、兵站がもう限界であるし、正規の軍ではないので補給の見込みはない。
そこで、ラピスウィルは思いついた。
「兵站がないなら、兵站があるところからもらえばいいじゃない」
そうして、数百の手勢を連れてあるところに向かった。
この一味に加わった輜重兵から場所を聞き出した、兵站集積場だ。
〇
「ここの備蓄を運び出したい。食料だけでなく、武器に着替えに、とにかくあるもの全てだ」
ちょっと気が強くなってたのか、ラピスウィルが大きく出た。
そして偽造の命令書を見せる。
他の兵站集積場で、工兵の分を超えて書類仕事もしていたのが役に立った。
「えっ? そ、そのような命令は受けていませんが……」
流石に集積場を管理していた将校が、驚いた顔をする。
「え、えっと、それは君たちへの命令の伝達が遅れているだけだ。私の知ったことじゃないです……ないぞ! それに、一刻を争う事態なのだ」
「あっ、緊急事態でしたか。それならば」
制服の威光に、死体のように素直に従う相手を見てラピスウィルがほっとする。
「えっと、何か敵部隊が迫ってるんです?」
「そ、それはだな……」
知らんて!
私は下っ端二等兵なんだから、そんな敵情知らんて!
ここで余計なこと聞かないでーッ! 一般将校は黙っててーッ!
うわー、どうしよう? どうしよう? マジでどうしよう?
て、適当に答えちゃおうかな……で、でもボロ出しそうだし……
そ、そうだ!
絶対、リード王国軍にいなさそうな、『架空の敵』を作っちゃえばいいんだ。
「ここを狙っているのは恐ろしい相手で、彼の者が来たらそれこそ兵站は全て奪われてしまう。そうならないよう、我々近衛は魔王陛下の勅命で来たのだ」
「い、いったいどんな恐ろしい相手なんです近衛大尉殿?」
「それはだな」
「そ、それは……?」
緊張し、生唾を飲む将校に大尉の服を着たラピスウィルがその名を伝えた。
「怪盗イシュカだ」
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