20 避難民の一日
アイルは痛みと高揚感が混在した意識の中で目を覚ました。
そこはどこかの雑踏の中だった。
彼はどこかの噴水の縁に寝かされていた。日向に寝かされたアイルの顔にかかる噴水の飛沫は爽やかで気持ちが良かった。おそらく地下水から直接汲み上げられたであろうそれは狩人の鼻にも嫌な匂いはしなかった。
アイルは頭の下の柔らかさに違和感を感じた。彼は女の膝枕に寝かされていた。ようやく視界がはっきりした時、アイルは彼女の顔を見上げた。
彼女は修道士の格好をしたブロンドの美しい女性だった。彼女の長い髪がアイルの顔をくすぐった。
「起きました?」彼女は言った。
アイルは頭を起こして周囲を見た。たくさんの兵士や町人らしき人々がこの広場にたむろししていた。修道士らしき人々が列に並んだ怪我人達を魔法で治療していた。
彼らの多くは笑顔だった。楽観的な雰囲気がこの広場に漂っていた。屋台が鶏の串焼きを大量に焼いて兵達に配っていた。
「勝ったのか」アイルがしゃがれ声で聞いた
「勝ちましたよ」修道女が答えた。
彼女はアイルの服をめくり上げ下腹部の傷口に触っていた。聖医術の放つ淡い光がその傷を覆っていた。彼女の産毛を撫でるような淡い手付きにアイルは心地よさを感じた。
アイルは疲労と睡魔に勝てず、そのうちにまた眠りに落ちた。
次に目覚めたときはまた別のどこかの広場だった。
彼は敷物を敷いた石畳の上に寝かされていた。頭はまた誰かの膝の上だった。彼はルイの姉であるジェシカに介抱されていた。彼女の長い茶髪がアイルの鼻梁をくすぐった。彼女はアイルの顔を見つめながら頬をなでていた。彼女の肢体はゴツゴツした石畳とは対象的に柔らかかった。3日は湯浴みしていないだろう彼女の饐えた垢の匂いと女の体の匂いがアイルの鼻腔で混ざりあった。
アイルは勃起していた。
彼女は美しかった。そしてアイルは彼女の好意に気づいていた。しかし気づかないふりをして村で過ごした。村人と血の繋がりがない彼は、たとえどれだけ村人達に認められていようとも、色恋沙汰や人間関係からは離れて暮らした。彼の本能が人であれ獣であれ危険を避けた。誰に教えられるでもなく彼はそうした。それは境遇ではなく本能がそうさせたのだ。誰も知り得ない過去、彼の肉を形作った何かが。
美貌を持つ人間ならたいがい誰でもそうであるように、アイルも自分の相貌が人を引きつけることになんとなく気づいていた。だから彼は、その笑顔をあえて男に向けて使った。彼はあえて男の世界に身をおいた。そうすることで孤立を避けて生きた。もちろんそんなことは、必要ではなかったのかも知れない。彼は村の人間を好いていた。彼らは善人だった。しかし誰も知り得ぬアイルの過去が、本能となり彼を操縦していた。
だからもちろん、アイルは女を知らなかった。
アイルは彼女を下から見上げた。彼女はアイルの怒張した股間を凝視していた。そしてアイルと目があった。
その時馬が嘶いた。そして紺色の服を着た文官が降りてきた。彼は櫓の上にいたモノクルの役人だった。
ジェシカはもうそっぽを向いて髪をかきあげていた。
彼は周囲を眺めた。トリコロ村の住人たちが地面にへたりこんで互いに話をしていた。近くにはエルフ達も休んでいた。彼らの長老が櫓の上にいたモノクルの役人と話し込んでいた。
「いまみんなの住むところが割り当てられてるの」ジェシカが言った。「ここはもともと遺跡があって石造りのお家がたくさん余ってるんだって」
彼は目でゴードンを探した。彼は殿をともに務めていたエルフと話し込んでいた。
「ゴードンは無事だったんだね」アイル言った。「…誰が死んだの?」
「ハンスさん、ユーゲルさん、フランツさん」ジェシカが答えた。アイルは押し黙った。村に残った連中はどうなったろうか。もしアナトマ川を今だにオーク共が支配しているなら村との連絡線を遮断されている可能性が高い。領館はあの時点で敵に支配されていた。北と南の双方から囲まれたなら村は全滅の可能性も高かった。彼はゲイルのことを思った。
アイルがぼんやりしているとエルフと役人の話し声が聞こえてきた。
「…クルツ様については私から説得しましょう。そちらからは正規兵を5名ほど募ることになるでしょう。装備はこちらで手配します。それとこんなこといってはなんですが」役人が目配せをしていった。「はやく住居を定めて既成事実を作ったほうが良いかと。あとは私の力でなんとかしましょう」
「なぜ助けるのですか?」老エルフが聞いた。
「あなた方は決死隊を作って我が民を守ったそうですから。当然かと」
「感謝する」老エルフは頭をさげた。
アイル達は斜面をのぼり山の中腹までたどり着いた
このブリスコーは2つの山の峰の合間の谷に作られた自然の砦だった。街の中央には小さな川が流れており、地下水も豊富で水の心配はなかった。この自然の要塞にはおよそ1000年前に街が開かれた。しかしオークとの戦争の前線基地となった後は多くの人間がこの街を去った。街は幾度かのオーク共の支配を受け、今は兵士、義勇兵そして冒険者が住み着く無骨な土地となっていた。山の斜面にはかつて栄えた時代の石造りの町並みが残っていた。しかし時を経て多くの家々が崩れ去った。
彼らに割り当てられた家も、もはや遺跡と読んでいいほど壁面が崩れていた。補修をするには日が陰りすぎた。今日はテントの中で眠ることになった。
アイルは斜面の石に座りながらなんとなくエルフ達の方を見ていた。彼らはアイル達のすぐ隣の遺跡を割り当てられていた。遺跡の中を調べているようだが今夜中に泊まる気だろうか。彼らの積荷は少なかった。今夜寝るための寝具は確保できるのだろうか。なんとなくだが彼らは生活力が低そうな印象を受けた。
女衆は焚き木を集め火を起こし大鍋を用意した。そしていつもの手順で粥を煮炊き出した。男衆が上流から湧き水を運んできた。アイルは直ぐ側の斜面の森できのこや山菜などを集めた。村から持ってきた干し肉が刻まれ入れられた。あり合わせの即席の粥だったが、彼もルイも昨日から何も食べていなかったので、勢いよく腹一杯に粥をかきこんだ。
「うおーいナマズとってきたぞうい」斜面の下から声が聞こえた。見ると漁師のゲルとその息子のシバが魚かごを下げて道を上ってきた。
「もう釣りにいってきたんですか?」アイルが聞いた。
「おうよ、城門では文句垂れられちまったがな。まだ外は危険だから出るなってな」
ナマズはぶつ切りにして煮炊きにされた。薄い塩味の煮汁はナマズの脂がぽつぽつと浮いていて、香ばしいだしが効いてうまかった。ナマズのやわらかい脂身は男の胃袋に染み渡った。
ふと気づくと一人のエルフの小さな少年が指を咥えてこちらを見ていた。年の頃は5歳ほどだろうか、赤ん坊のような細い産毛がそよ風に浮かんで浮かび上がっていた。咥えた指からよだれが垂れていた。彼らエルフは故郷を追われて準備する間もなく出発したらしい。生活具をあまり持っていないし食料も少ないようだった。
「おーいこっちおいで」村の婆や連が手招きした。少年は皆の輪に加わって粥を食べ始めた。彼は箸がうまく使えないようだった。柔らかい粥を掬えず悪戦苦闘するさまに皆が笑った。そのうちに他のエルフたちも輪に加わり、一緒に大鍋を囲んで粥を食べた。
「あんたらあの家で寝るのはまだ危ないからよ、今夜はわいらのテントで寝よしよ」村長の嫁であるヤエがそういった。彼らは男女に別れ2つのテントにすし詰めになって眠った。




