↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルケイア三国戦記  作者: 広瀬 舞
第2章 翡翠の森の動揺
7/13

夕陽と木剣

評定の間の喧噪が、午後遅くまで続いた。


結論は、出なかった。対話派と即時防衛派の応酬は堂々巡りのまま、いったん休会となった。神官たちは控えの間へ退き、めいめいに声を潜めて、なお言い争っていた。


その控えの間に、エレオノーラ・サクラメントは、いた。


末席に近い位置である。年若い補佐官に、発言の順は容易には回ってこない。


エレオノーラは、人間である。聖林の高位を占める長命のエルフやハイエルフの神官たちの中で、その一生はあまりに短い。家柄も、高くはなかった。聖典の註釈を諳んじ、近隣諸国の交易と政の機微を誰よりも早く読む——その才ひとつで、女王の補佐官にまで上り詰めた女だった。


長く生きる者には、待つという贅沢がある。だが、人間にはそれがない。エレオノーラの一年は、女王の一年とは重さが違った。だからこそ、彼女は急ぐことを恐れなかった。


だが、今は、待った。老神官たちの熱が、ひとしきり緩むのを。


そして、その間隙に、静かに口を開いた。


「——僭越ながら、申し上げます」


声は、高くない。だが、よく、通った。


「即時防衛は、当然のことと存じます。北部の防衛線は、一刻も早く、固めねばなりません。ですが——それと並行して、共和国へ、外交使節を送るべきかと」


控えの間が、静まった。


「帝国は、我ら王国と、共和国の、双方を、敵に回しました。帝国の宣戦は、我らのみならず、共和国にとっても、等しく脅威です。二正面に戦を抱えることは、いかな帝国とて、容易ではありません。ならば——我らと共和国のあいだに、同盟の余地が、あるはずです」


理は、通っていた。誰の目にも、明らかに。


その確信には、根があった。交易商人の噂に、エレオノーラは一人の名を聞いていた。カイル・オルブライト。共和国議会の中堅議員。鉄と算盤の国にあって、ただ一人、声高に「対話」を説く男だという。算盤を弾くだけの国ではない。あの国にも、手を伸ばせば届く相手が、いる——その読みが、彼女の提案を支えていた。


だが、古参の老神官の一人が、白い眉を寄せた。


「異教徒の、共和国とな。あの、精霊を敬わぬ、機械仕掛けの国と、手を組めと申すか」


「敵の敵は、味方でございます」


「聖林の理が、算盤勘定に、屈してよいものか」


エレオノーラは、退かなかった。だが、声を荒げもしなかった。


「屈するのではございません。生き延びるのでございます。聖林が焼かれてしまえば、敬うべき精霊も、もう、おりませぬ」


老神官は、言葉に詰まった。


だが、その沈黙は、納得の沈黙ではなかった。理屈で負けても、心は動かぬ。聖林に千年、根を張ってきた者たちにとって、鉄と硝子の国はいつまでも相容れぬ隣人だった。


控えの間に、重い沈黙が落ちた。


その沈黙を破ったのは、奥の戸口から現れた女王アウローラだった。


神官たちが一斉に頭を垂れる。


女王は、エレオノーラの提案をすでに廊下で聞いていたらしかった。その顔を、しばらく見つめた。若い補佐官の、その顔を。人間の、急く顔を。


そして、ただ、こう告げた。


「考えておこう」


それきり、女王は踵を返した。


緑の光の中を、ゆっくりと奥へ戻っていく。何百年も生きた者の、急がぬ足取りで。


エレオノーラは頭を垂れたまま、その背を見送った。


「考えておこう」。それは、否でも、応でもない。長く生きる者の、時を惜しまぬ言葉だった。だが——今は、その「考えておこう」の一日が、北部の一日と引き換えになる。


エレオノーラは、それを口には出さなかった。言っても、女王の時間は人間の速さでは流れない。


ならば、自分が動くしかない。誰かが共和国へ発つのなら、それはこの策を唱えた自分であるべきだ。胸の奥に、小さな火が灯った。焦りではない。決意に近い、火だった。


◇


社を退いたアルセスは、馬を駆って郊外の練兵場へ向かった。


王城の喧噪も、精霊たちの怯えも、いったん背に置く。馬の背に揺られて風を頬に受けていると、胸の奥がわずかに静まった。


道は霊脈の森の縁を縫っていく。レイラインの濃い土地である。木洩れ日が馬の歩みに合わせて、地面を斑に流れていく。常ならばこの道を行けば、木々の精霊の穏やかな気配が、肌に触れる。だが今日は、それが薄い。社で聞いたあの怯えの余韻が、森全体を押し黙らせているかのようだった。


その森の脇道に、一台の馬車が止まっていた。


商隊のものらしかった。だが荷は、ほとんど積まれていない。御者台の男が膝の上に大判の紙を広げ、何かを熱心に書き写していた。森の地形である。沢の位置。尾根の走り。古い街道の分かれ目。その一つ一つを写し取っているようであった。


アルセスは馬の脚を緩めた。


商人らしき男たちが二人、三人。アルセスの姿に気づくとこちらを向き、軽く会釈をした。それきり慌てるでも隠すでもなく、写しの手も止めなかった。やましいことのある者の強張りがない。むしろ、見られることに慣れた者の落ち着きだった。


交わす言葉の訛りが、耳に触れた。


低く交わす言葉は、王国の訛りでも共和国の訛りでも帝国の訛りでもなかった。アルセスの知るどの土地のものともつかなかった。


地形図を写す商隊——珍しいことではない。隊商は街道の常連であり、地の利を知ることは商いの基本である。


しかし、荷を積まぬ商隊が、なぜ戦の気配の立ったこの時に、レイラインの森の地形を写しているのか。


アルセスはわずかに眉を寄せた。


問い質そうかと一瞬思った。だが頭の大半は、北部の防衛線と精霊たちの怯えで占められていた。商隊の一つに構っている暇はなかった。


アルセスは馬の脚を再び進めた。


商隊はその背を見送りもせず、また地形図に目を落とした。


馬を進めながら、アルセスの胸に、小さな棘が残った。あの落ち着き。戦が迫るというのに、まるで、その戦を、どこか遠くから眺めているような。だが棘は、すぐに、北部の防衛線の算段に紛れて消えた。


練兵場に着くと、夕陽がすでに傾いていた。


ガレス・アイアンルートが新人の騎士たちを訓練していた。木剣の打ち合う音が乾いて響く。老いてなお、その背は太い幹のように揺るがなかった。


三十年前の戦をくぐり抜けた、老いた騎士長である。アルセスにとっては剣の師であり、騎士となった日から命を預けてきた相手でもあった。数日前の朝も、詰所の前で短く言葉を交わした。いい風だな、と。あれから、幾日も経っていない。だが、その幾日かで、世界の重さは変わっていた。


アルセスの姿を認めると、ガレスは手を止めた。新人たちに短く休息を命じ、アルセスの隣へ歩み寄ってくる。


二人は並んで、沈む夕陽を見た。


しばらく、どちらも口を開かなかった。


この老人とのあいだには、言葉の要らぬ時間が長くある。沈黙そのものが、一つの会話だった。アルセスはその沈黙の中で、王城で聞いたことを、どう切り出すか迷っていた。レイラインの乱れ。地の脈を引き上げる、何者かの手。


だが、口に出すよりも先に、ガレスが、低く言った。


「三十年前の、あの戦争でな」


夕陽に目を細めたまま。


「北の山が、一度だけ、揺れたんだ」


アルセスは、隣の老兵の横顔を見た。


「山が崩れた、わけじゃない。地震とも違う。なんと言えばいいか——山が、身じろぎした、とでも言えばいいのか」


ガレスはそれきり口を閉じた。多くを語る男ではない。


なぜ、今、この話を。アルセスはそう思った。だがすぐに、思い直した。この老人もまた、何かを感じ取っているのだ。言葉にならぬ何かを。三十年前の記憶の底から、それがひとりでに浮かび上がってきたのだろう。


アルセスは、その意味を測りかねた。山が身じろぎする——比喩なのか、老兵の見たまことの光景なのか。


だが問い返しはしなかった。ただ、その言葉を胸の奥に留めた。精霊たちの怯えとその言葉が、どこかで繋がっている気がしたからだ。


誰もが、同じ不安を、別の言葉で語っている。女王は勅を撫で、精霊は震え、老兵は三十年前を思い出す。そして自分は——その全てを、まだ、像に結べずにいた。


夕陽が森の稜線に沈んでいく。


木剣の音が、また背後で鳴り始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。