夕陽と木剣
評定の間の喧噪が、午後遅くまで続いた。
結論は、出なかった。対話派と即時防衛派の応酬は堂々巡りのまま、いったん休会となった。神官たちは控えの間へ退き、めいめいに声を潜めて、なお言い争っていた。
その控えの間に、エレオノーラ・サクラメントは、いた。
末席に近い位置である。年若い補佐官に、発言の順は容易には回ってこない。
エレオノーラは、人間である。聖林の高位を占める長命のエルフやハイエルフの神官たちの中で、その一生はあまりに短い。家柄も、高くはなかった。聖典の註釈を諳んじ、近隣諸国の交易と政の機微を誰よりも早く読む——その才ひとつで、女王の補佐官にまで上り詰めた女だった。
長く生きる者には、待つという贅沢がある。だが、人間にはそれがない。エレオノーラの一年は、女王の一年とは重さが違った。だからこそ、彼女は急ぐことを恐れなかった。
だが、今は、待った。老神官たちの熱が、ひとしきり緩むのを。
そして、その間隙に、静かに口を開いた。
「——僭越ながら、申し上げます」
声は、高くない。だが、よく、通った。
「即時防衛は、当然のことと存じます。北部の防衛線は、一刻も早く、固めねばなりません。ですが——それと並行して、共和国へ、外交使節を送るべきかと」
控えの間が、静まった。
「帝国は、我ら王国と、共和国の、双方を、敵に回しました。帝国の宣戦は、我らのみならず、共和国にとっても、等しく脅威です。二正面に戦を抱えることは、いかな帝国とて、容易ではありません。ならば——我らと共和国のあいだに、同盟の余地が、あるはずです」
理は、通っていた。誰の目にも、明らかに。
その確信には、根があった。交易商人の噂に、エレオノーラは一人の名を聞いていた。カイル・オルブライト。共和国議会の中堅議員。鉄と算盤の国にあって、ただ一人、声高に「対話」を説く男だという。算盤を弾くだけの国ではない。あの国にも、手を伸ばせば届く相手が、いる——その読みが、彼女の提案を支えていた。
だが、古参の老神官の一人が、白い眉を寄せた。
「異教徒の、共和国とな。あの、精霊を敬わぬ、機械仕掛けの国と、手を組めと申すか」
「敵の敵は、味方でございます」
「聖林の理が、算盤勘定に、屈してよいものか」
エレオノーラは、退かなかった。だが、声を荒げもしなかった。
「屈するのではございません。生き延びるのでございます。聖林が焼かれてしまえば、敬うべき精霊も、もう、おりませぬ」
老神官は、言葉に詰まった。
だが、その沈黙は、納得の沈黙ではなかった。理屈で負けても、心は動かぬ。聖林に千年、根を張ってきた者たちにとって、鉄と硝子の国はいつまでも相容れぬ隣人だった。
控えの間に、重い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、奥の戸口から現れた女王アウローラだった。
神官たちが一斉に頭を垂れる。
女王は、エレオノーラの提案をすでに廊下で聞いていたらしかった。その顔を、しばらく見つめた。若い補佐官の、その顔を。人間の、急く顔を。
そして、ただ、こう告げた。
「考えておこう」
それきり、女王は踵を返した。
緑の光の中を、ゆっくりと奥へ戻っていく。何百年も生きた者の、急がぬ足取りで。
エレオノーラは頭を垂れたまま、その背を見送った。
「考えておこう」。それは、否でも、応でもない。長く生きる者の、時を惜しまぬ言葉だった。だが——今は、その「考えておこう」の一日が、北部の一日と引き換えになる。
エレオノーラは、それを口には出さなかった。言っても、女王の時間は人間の速さでは流れない。
ならば、自分が動くしかない。誰かが共和国へ発つのなら、それはこの策を唱えた自分であるべきだ。胸の奥に、小さな火が灯った。焦りではない。決意に近い、火だった。
◇
社を退いたアルセスは、馬を駆って郊外の練兵場へ向かった。
王城の喧噪も、精霊たちの怯えも、いったん背に置く。馬の背に揺られて風を頬に受けていると、胸の奥がわずかに静まった。
道は霊脈の森の縁を縫っていく。レイラインの濃い土地である。木洩れ日が馬の歩みに合わせて、地面を斑に流れていく。常ならばこの道を行けば、木々の精霊の穏やかな気配が、肌に触れる。だが今日は、それが薄い。社で聞いたあの怯えの余韻が、森全体を押し黙らせているかのようだった。
その森の脇道に、一台の馬車が止まっていた。
商隊のものらしかった。だが荷は、ほとんど積まれていない。御者台の男が膝の上に大判の紙を広げ、何かを熱心に書き写していた。森の地形である。沢の位置。尾根の走り。古い街道の分かれ目。その一つ一つを写し取っているようであった。
アルセスは馬の脚を緩めた。
商人らしき男たちが二人、三人。アルセスの姿に気づくとこちらを向き、軽く会釈をした。それきり慌てるでも隠すでもなく、写しの手も止めなかった。やましいことのある者の強張りがない。むしろ、見られることに慣れた者の落ち着きだった。
交わす言葉の訛りが、耳に触れた。
低く交わす言葉は、王国の訛りでも共和国の訛りでも帝国の訛りでもなかった。アルセスの知るどの土地のものともつかなかった。
地形図を写す商隊——珍しいことではない。隊商は街道の常連であり、地の利を知ることは商いの基本である。
しかし、荷を積まぬ商隊が、なぜ戦の気配の立ったこの時に、レイラインの森の地形を写しているのか。
アルセスはわずかに眉を寄せた。
問い質そうかと一瞬思った。だが頭の大半は、北部の防衛線と精霊たちの怯えで占められていた。商隊の一つに構っている暇はなかった。
アルセスは馬の脚を再び進めた。
商隊はその背を見送りもせず、また地形図に目を落とした。
馬を進めながら、アルセスの胸に、小さな棘が残った。あの落ち着き。戦が迫るというのに、まるで、その戦を、どこか遠くから眺めているような。だが棘は、すぐに、北部の防衛線の算段に紛れて消えた。
練兵場に着くと、夕陽がすでに傾いていた。
ガレス・アイアンルートが新人の騎士たちを訓練していた。木剣の打ち合う音が乾いて響く。老いてなお、その背は太い幹のように揺るがなかった。
三十年前の戦をくぐり抜けた、老いた騎士長である。アルセスにとっては剣の師であり、騎士となった日から命を預けてきた相手でもあった。数日前の朝も、詰所の前で短く言葉を交わした。いい風だな、と。あれから、幾日も経っていない。だが、その幾日かで、世界の重さは変わっていた。
アルセスの姿を認めると、ガレスは手を止めた。新人たちに短く休息を命じ、アルセスの隣へ歩み寄ってくる。
二人は並んで、沈む夕陽を見た。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
この老人とのあいだには、言葉の要らぬ時間が長くある。沈黙そのものが、一つの会話だった。アルセスはその沈黙の中で、王城で聞いたことを、どう切り出すか迷っていた。レイラインの乱れ。地の脈を引き上げる、何者かの手。
だが、口に出すよりも先に、ガレスが、低く言った。
「三十年前の、あの戦争でな」
夕陽に目を細めたまま。
「北の山が、一度だけ、揺れたんだ」
アルセスは、隣の老兵の横顔を見た。
「山が崩れた、わけじゃない。地震とも違う。なんと言えばいいか——山が、身じろぎした、とでも言えばいいのか」
ガレスはそれきり口を閉じた。多くを語る男ではない。
なぜ、今、この話を。アルセスはそう思った。だがすぐに、思い直した。この老人もまた、何かを感じ取っているのだ。言葉にならぬ何かを。三十年前の記憶の底から、それがひとりでに浮かび上がってきたのだろう。
アルセスは、その意味を測りかねた。山が身じろぎする——比喩なのか、老兵の見たまことの光景なのか。
だが問い返しはしなかった。ただ、その言葉を胸の奥に留めた。精霊たちの怯えとその言葉が、どこかで繋がっている気がしたからだ。
誰もが、同じ不安を、別の言葉で語っている。女王は勅を撫で、精霊は震え、老兵は三十年前を思い出す。そして自分は——その全てを、まだ、像に結べずにいた。
夕陽が森の稜線に沈んでいく。
木剣の音が、また背後で鳴り始めた。




