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アルケイア三国戦記  作者: 広瀬 舞
第2章 翡翠の森の動揺
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指先の封蝋

聖都セフィラの王城に、その報がもたらされたのは、霧のまだ晴れぬ朝のことだった。


帝国、宣戦。三国は一つに帰すべし——その一巻の勅の写しが、早馬と伝書の精霊を介し、わずか二日で、聖林の都に届いた。


写しを運んだのは、北部国境の物見から発した若い精霊使いの伝令だった。馬を、三頭、乗り潰したという。届けた当人が、報の重さに声を失っていた。


王城の鐘が、常ならぬ刻に、鳴った。


大神官会議の招集である。月の満ち欠けに合わせて開かれるのが習いの議が、暦を待たず、急遽召集された。聖職に身を置く高位の神官たちが、祭服の裾を引きながら回廊を評定の間へと急ぐ。誰の顔にも、報をまだ信じきれぬ強張りが貼りついていた。


評定の間は、聖林の生木を切らずに建てられている。柱の幾本かは、なお葉を繁らせた生きた大樹のままだった。天井の高みから、朝の光が葉の隙間を縫って、緑に染まりながら降りてくる。石畳のあいだからも、苔と若い下草が覗いていた。人の手で建てた間ではない。森に人が間借りをしているのだ。


帝国の鉄冠の間が、闇を天井に抱く高座であるなら——王国のこの間は、緑の光に満ちていた。同じ玉座でも、二国は光の質からして違っていた。


その玉座に、女王アウローラが座していた。


ハイエルフ。齢、二百八十。だが、その面に歳月の翳りはない。少女のようでもあり、老女のようでもある、時の物差しの外にある顔だった。この王城が建つよりも前から、この森を見てきた者である。女王は、もたらされた勅の写しに長く目を落としていた。


短い文面だった。三百年の均衡を覆すには、あまりに短い。だが、その短さこそが帝国の決意の底知れなさを物語っていた。長い理由は、迷う者が並べるものだ。迷いなき者は、ただ、結論だけを書く。


「——三十年の休戦が」


老神官の一人が、声を震わせた。


「たった一通の、宣言で。……破られたと、申されるか」


ざわめきが、緑の光の中を走った。


会議は、たちまち二つに割れた。


一方は、対話を説いた。その筆頭は、白く長い髭を蓄えた温厚な老神官である。長く戦を知らぬ世代を束ねてきた者だった。


「帝国とて、いきなり聖林に攻め入る愚は犯すまい。まずは使者を立て、意を質すべきである。剣を抜くのは、言葉の尽きた後でよい」


理は、あった。三百年の均衡は、幾度も対話によって保たれてきた。


一方は、即時の防衛を説いた。その声の主は、古い傷で片目を失った痩身の老神官である。三十年前の戦を、神官の身でありながら、最前線で見届けた男だった。


「勅は、すでに下されたのだ。問答の刻は、過ぎた。帝国の鉄が動き出してから使者を立てて、間に合うた例しが、あるか。北部の防衛線を、今すぐ固めねば、手遅れになる」


これにも、理は、あった。緩慢な対話が好機を取り落とすこともある。


声が、声を呼ぶ。緑の評定の間が、人の熱でざわついた。対話派の若い神官が席を立ち、防衛派の老神官が杖で床を打つ。どちらも、王国を思う心は同じだった。ただ、その守り方が違っていた。


「使者を送るあいだに、北部の村が焼かれたら、誰が責めを負う」。隻眼の老神官が言えば、白髭の老神官が静かに返す。「使者も立てず兵を出し、敗れたら、その時こそ、聖林は灰になる」。どちらの言葉にも、三十年前の戦の、消えぬ影が滲んでいた。


アウローラは、その応酬を止めなかった。


ただ、勅の写しを、指先で、静かに、撫でていた。羊皮紙に捺された、帝国の鷲の封蝋を、なぞるように。何を思うのか、その横顔からは、誰にも読み取れなかった。


評定の間の片隅に、エレオノーラ・サクラメントが控えていた。


女王の補佐官。年若く、聖職の位はまだ高くない。末席に近い場所から、エレオノーラは割れていく会議を見ていた。対話派の熱にも、防衛派の熱にも、与していなかった。どちらの理も、半分は正しく、半分は届かぬと見ていた。


帝国は、王国と共和国の双方に刃を向けた。二正面の戦を、帝国自身が選んだのだ。ならば、王国の活路もその二正面の構図の中に、あるはずだった。対話か、防衛か——その二択の、さらに外側に。


だが、その考えを述べるには、エレオノーラの席はまだ、遠すぎた。


光が、葉を透かして、緑に揺れた。


戦は、まだ、遠い。


だが、この評定の間の空気は、すでに戦の前夜のものだった。


◇


その日の午後、アルセスは女王の召しを受けた。


王城の最も奥、聖林の中心に、王家の聖域がある。歴代の王が精霊と言葉を交わしてきた、生木の社である。社といっても、人の手で組んだ建物ではない。幾本もの大樹が長い年月をかけて枝を絡め合い、自ずと丸い天蓋を成した、生きた森のひと間だった。差し込む光は、緑に濾され、薄暗い。空気はしっとりと、土と若葉の匂いを孕んでいた。


霊装騎の操手の中でも、精霊との交感が際立って深い者だけがここへ立ち入ることを許される。アルセスはその数少ない一人だった。


「精霊たちが、ざわついている」


女王アウローラは社の中央に立ち、低く告げた。


「お前の耳で、聞いてきてほしい。何に、怯えているのかを」


アルセスは膝を突き、応とだけ返した。


この社に入るたび、アルセスは自分がひどく小さなものに感じられた。何百年もの王と精霊の対話を、この生木は見てきた。その時間の前では、人ひとりの生など、一枚の落ち葉にすぎない。


社の床に、両の掌を置く。目を閉じ、息を、深く、長く、吐いた。胸の奥のいつもの場所へ、意識を沈めていく。


掌の下から、かすかな脈動が伝わってきた。レイラインの、流れである。聖林の地の底を、大地の血のように巡る、力の脈。この社は、その脈の最も濃く湧き出す一点に建っていた。


風精霊の声は、自分の耳ではなく胸の奥で聞く——その回路を、アルセスは開いた。


あの朝、シルヴァーンのコクピットで聞いた細い囁きが、よみがえる。南方が、乱れている——あれは、入口にすぎなかった。


ざわめきが、押し寄せてきた。


無数の、細い声。風精霊だけではない。木々に宿る精霊も、地を這う精霊も、水底に潜む精霊も。聖林のありとあらゆる気配が、一様に震えていた。怯えていた。だが——その怯えは、戦の気配を恐れる怯えとは、何かが違っていた。


兵の足音でも、騎体の唸りでも、ない。もっと、深い。地の底から、湧き上がる、何か。


精霊たちは、それを名づける言葉を持たなかった。ただ、震えることでしかそれを伝えられなかった。


アルセスは、その震えを自分の胸の震えと区別できなくなっていた。交感とは、そういうものだった。精霊の怯えが深ければ、それを聞く者の胸も同じだけ軋む。


アルセスがその違和の正体を掴みかねていた時。


一つの声が、ほかの無数の声を貫いて、届いた。


ほかよりも、古く、強い。高位の、風精霊だった。聖林が若木であった頃から、この地に在る気配である。


この精霊が人語に近い形を取るのは、稀なことだった。よほどの異変でなければ、彼らは人の言葉になど降りてこない。それが、降りてきた。アルセスは息を詰めた。


辛うじて、言葉の形を結んでいた。


『——中央回廊の、地下。レイラインが、乱されている』


アルセスの背に、冷たいものが走った。


『誰かが——大地の脈を、地上へ引き上げようと、している』


声はそれきり、無数のざわめきの中に溶けて、消えた。


掌の下で、地の脈動が、一度、大きく、乱れた。痛みに、身を捩るように。


アルセスは、目を開いた。掌の下の木肌が、かすかに湿っていた。自分の汗だった。背を伝った汗が、社に入るために纏った祭服の内で冷えていた。


何のことか、アルセスには分からなかった。レイラインを引き上げる——そのような業を、誰が、何のために、為すというのか。地の脈に手を入れるなど、触れてはならぬ禁忌だ。それは、王国の子供でも知っている理だった。


それでも、精霊たちの怯えが戦そのものではなく、その地の底の何かに向いていることだけは、確かに感じ取った。


アルセスは立ち上がり、女王に聞いたままを報告した。レイラインの乱れ。地の脈を引き上げようとする、何者かの手。


アウローラは、静かに、頷いた。


ただ、それだけだった。


その目は、驚いてはいなかった。すでに知っていたかのようでも、あるいは、永い時の中で似た予兆を幾度も見送ってきたかのようでも、あった。だが、女王は何も語らなかった。


「下がってよい」


女王の声は、穏やかだった。そして、何の決断も、含んでいなかった。


アルセスは一礼し、社を退いた。


退りぎわ、一度だけ、女王を見た。緑の光の中で、女王はなお、社の中央から動かずにいた。何百年も、そうしてきたかのように。

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