↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルケイア三国戦記  作者: 広瀬 舞
第1章 鉄の宣言
5/13

雨と焚き火と

宣言から、三日後。


第一突撃騎士団の先発が、鉄冠城を発った。


鉄の城門が、軋みながら開かれる。朝の鐘が、城下に、長く、鳴り渡った。


兵、五千。闘装甲冑、四十機。中央回廊を目指す縦隊が、街道を黒い帯のように、延々と連なった。


城下の民が街道の両脇に出て、軍列を見送っていた。喝采を送る者も、手を合わせて祈る者も、ただ黙って見つめる者も、いた。出征とは、見送る者にとっては別れである。帰らぬかもしれぬ者を、送り出す行いだった。


行軍は、規律正しかった。足音は揃い、隊列は乱れない。帝国軍の練度は、三国の中でも群を抜いている。


中隊長たちが隊列の脇を馬で行き来し、低く命令を飛ばしていた。「隊伍を保て」「行軍速度、変えるな」。その声は淡々として、無駄がなかった。


先頭の闘装甲冑の中に、リヒトはいた。機の名は、ヴァイスアドラー——白鷹。


朝陽を受けた装甲は、銀の鎧の上に薄く、白い光をまとう。両肩には、鷲の紋様が、深く、刻まれていた。リヒトのために誂えられた一機である。


リヒトの胸の奥には、まだ、あの夜の声が沈んでいた。「私が間違った時に、私を止めることだ」。五千の兵を率いて戦地へ向かう今も、その一言は消えなかった。


やがて、隊列のどこからともなく、低い声が湧き上がった。


「フェルム——」


一人が、唱える。


「ヴァナ——ヘルム!」


数百が、和した。


鬨は波となり、縦隊の前後を駆け抜けていった。古くから帝国の兵が出征のたびに唱えてきた、伝統の鬨である。


ただの掛け声では、ない。


唱和に合わせて、闘装甲冑の装甲がごく薄く、脈を打った。武勢強化——フォルテ・オーラ。兵の気魄を言葉に乗せ、機の力に変える、帝国独特の呪法であった。装甲の表面を陽炎のような揺らぎが一度走り、そして、鎮まる。四十機が、同じ拍で、息づくように揺らいだ。


兵たちの背筋が、伸びる。歩幅が、揃う。鎧の重さが、束の間、軽くなる。


リヒトは、フェイスの奥でその揺らぎを感じていた。鬨は、兵の恐れを束の間、忘れさせる。それが、この呪法の本当の力なのかもしれなかった。


リヒトは視界の端で、自分の隊の兵の顔を、一人、また一人と、見ていった。


歴戦の兵がいる。頬に古い傷を負った、無口な男。初陣の兵がいる。十六か十七か、頬がまだ、丸い。


縦隊の脇を進む年若い兵が一人、槍を握る手を小刻みに震わせていた。鬨を唱える声も、わずかに上ずっている。


リヒトは、その兵を咎めなかった。


震えぬ兵など、いない。震えを、見せぬだけだ。


中央回廊に近づくにつれ、空が低く垂れ込めてきた。


やがて、雨が降り始めた。


雨は、土の匂いを、強く、立ち上らせた。装甲を打つ音が、低く連なる。兵たちの足音が、その雨音にまじって、消える。


リヒトは、闘装甲冑のフェイスを開いた。


冷たい雨が、頬を打つ。視界は悪くなる。だが、リヒトはフェイスを閉じなかった。


兵たちは、鎧の下で同じ雨に打たれている。指揮官だけが乾いた鉄の内側にいるわけには、いかなかった。


雨の中で見る縦隊は、ただ、黒い。誰が誰だかも、定かではない。それでもリヒトには、一人ひとりが見えている気がした。


その日の午後、縦隊は街道沿いの小さな宿場町を通過した。


戦の報は、まだこの町まで、はっきりとは届いていないらしい。それでも、軍靴の響きは不穏を運ぶ。住人は軒先や戸の隙間から、黙って軍列を見送っていた。子を抱き寄せる母親がいた。戸をそっと閉める老人がいた。井戸端の女が、桶をゆっくりと地面に下ろした。誰もが、声を出さなかった。


隊列の脇、宿の壁際に、商人風の男が、二人。


荷も持たず、低い声で何かを話し込んでいた。帝国訛りでも、王国訛りでも、共和国訛りでもない。リヒトの耳に、その訛りは馴染みがなかった。


身に着けている外套は、貴族のものではない。商人にしては、上等すぎる。農夫でも、職人でも、ない。だが、何者と問われれば、答えに窮する。そういう、佇まいだった。


途切れ途切れに、言葉の断片が流れてくる。


「——武器の、融通の話だ」


「——次の輸送の、段取りを」


それきり、声は雨音に紛れて、消えた。


リヒトは、歩みを緩めなかった。武器を売る者がいて、買う者がいる。戦場には、いくらでも転がっている話だ。


リヒトは、聞き流した。


二人の商人は、軍列が通り過ぎるのを最後まで見送っていた。その視線に、兵を恐れる色も、敬う色も、なかった。ただ、値踏みするような静けさだけがあった。


宿場を抜けると、雨はいっそう深くなった。日が、傾いていく。


雨は、止まなかった。


縦隊は、暮れていく中央回廊へ、黒い帯のまま進み続けた。


◇


野営地。


雨は、止んでいた。


濡れた地面にいくつもの焚き火が焚かれ、兵たちは鎧を脱いで、束の間の休息をとっていた。湯気の立つ椀。低い笑い声。誰かが、故郷の唄を低く口ずさんでいる。行く先の戦を、誰もがまだ遠くに感じている。あるいは、感じないようにしているのかもしれなかった。


野営地は、丘の麓に組まれていた。哨戒の声が、遠く、低く、交わされている。


リヒトは、焚き火の一つの傍に腰を下ろしていた。濡れた外套から、湯気が立ち昇る。


一日の行軍の重さが、肩の鎧の中にまだ残っていた。だが、リヒトはそれを振り払うように、息を静かに吐いた。


そこへ、年少兵が一人、駆け寄ってきた。ティル——十五歳。鉄冠城の練兵場で組手の指導を受けた、あの少年である。候補生を終えたばかりで、今度の出征が初陣だった。


ティルは数歩手前で、一瞬、足を止めた。副団長の傍に、自分のような新兵が座っていいものか——その迷いが、足取りに表れていた。だが、リヒトが目で頷くと、安心したように近づいてきた。


「副団長、隣、いいっすか」


リヒトが頷くと、ティルは隣に腰を下ろした。腰を下ろす位置には、少し距離があった。敬意なのか、遠慮なのか。たぶん、その両方だった。


手を、火にかざす。指先がまだ、かじかんでいるらしかった。


しばらく、二人とも火を見ていた。


ティルは何か言いたげに、口を開きかけては、閉じる。それを幾度か繰り返した。


やがて、火に目を落としたまま、ぽつりと言った。


「副団長。俺たち——正しいんですよね?」


リヒトは、すぐには答えなかった。


火の粉が一つ、夜空へ昇っていく。


練兵場で、この少年に言ったことがある。強さは、結果にすぎん。大切なのは、何のために、その力を使うかだ、と。


——では、俺たちは、何のために。


「……ああ」


短い、一言だった。


だが、その声は——わずかに、揺れた。


ティルは、揺れに気づかなかった。


ぱっと顔を上げ、安心したように、笑った。


「——っすよね! 副団長がそう言うなら、俺、頑張ります」


リヒトは、その明るい顔を、しばらく、見ていた。


リヒトは何も言わず、ティルの肩を一度だけ、叩いた。


ティルは何度も頷きながら、自分の隊の焚き火へ戻っていった。その背中は、まだ、細い。


焚き火の輪のあちこちで、語らいの声が低く続いていた。リヒトは、それをしばらく聞いていた。兵たちの声は、いずれも明日の話を避けていた。明日のことを口にすれば、それは現実になる気がしたのだろう。


リヒトは一人、焚き火の傍に残った。


ふと、空を見上げた。


雨上がりの夜空は、澄んでいた。星が、瞬いている。


その時——北の方角の遠い山稜に、淡い光が、ひとすじ、揺れた。


リヒトは、目を凝らした。


だが、光は、すぐに、流れる雲の向こうに、隠れた。


何の光だったのか。狼煙でもない。雷でも、ない。


「……気のせいか」


リヒトは、小さく呟いた。


そして、視線を火に戻した。


焚き火の音だけが、夜の中に続いていた。


◇


焚き火が、爆ぜた。


夜は、深い。星の数が、いっそう増えていた。


兵たちの寝息が、あちこちで低く聞こえ始めている。明日を、まだ知らぬ眠りだった。


リヒトは炎を見つめたまま、胸の奥で、独り、問うた。


正しい——のだろうか。


俺は、皇帝陛下を信じている。あの届かぬ高みの御方を、疑ったことは、ない。


だが、信じることと、考えることをやめることは、違う。


違うはずだ。


あの夜、声は言った。私が間違った時に、私を止めることだ、と。


そして、人は過ちを犯す、とも。


ならば俺は、信じながら、なお、考え続けねばならない。それが、どれほど苦しくとも。


ティルの「俺、頑張ります」が、耳の奥にまだ残っていた。あの信に応える道が、どこかにあるはずだ。少なくとも、探さなければならない。


リヒトは、息をひとつ、吸った。冷たい夜気が、肺の奥まで届いた。


そして、ゆっくりと空を見上げた。


北の山稜は、もう闇に沈んで、見えなかった。


それでも、光の見えた方角は、覚えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。