雨と焚き火と
宣言から、三日後。
第一突撃騎士団の先発が、鉄冠城を発った。
鉄の城門が、軋みながら開かれる。朝の鐘が、城下に、長く、鳴り渡った。
兵、五千。闘装甲冑、四十機。中央回廊を目指す縦隊が、街道を黒い帯のように、延々と連なった。
城下の民が街道の両脇に出て、軍列を見送っていた。喝采を送る者も、手を合わせて祈る者も、ただ黙って見つめる者も、いた。出征とは、見送る者にとっては別れである。帰らぬかもしれぬ者を、送り出す行いだった。
行軍は、規律正しかった。足音は揃い、隊列は乱れない。帝国軍の練度は、三国の中でも群を抜いている。
中隊長たちが隊列の脇を馬で行き来し、低く命令を飛ばしていた。「隊伍を保て」「行軍速度、変えるな」。その声は淡々として、無駄がなかった。
先頭の闘装甲冑の中に、リヒトはいた。機の名は、ヴァイスアドラー——白鷹。
朝陽を受けた装甲は、銀の鎧の上に薄く、白い光をまとう。両肩には、鷲の紋様が、深く、刻まれていた。リヒトのために誂えられた一機である。
リヒトの胸の奥には、まだ、あの夜の声が沈んでいた。「私が間違った時に、私を止めることだ」。五千の兵を率いて戦地へ向かう今も、その一言は消えなかった。
やがて、隊列のどこからともなく、低い声が湧き上がった。
「フェルム——」
一人が、唱える。
「ヴァナ——ヘルム!」
数百が、和した。
鬨は波となり、縦隊の前後を駆け抜けていった。古くから帝国の兵が出征のたびに唱えてきた、伝統の鬨である。
ただの掛け声では、ない。
唱和に合わせて、闘装甲冑の装甲がごく薄く、脈を打った。武勢強化——フォルテ・オーラ。兵の気魄を言葉に乗せ、機の力に変える、帝国独特の呪法であった。装甲の表面を陽炎のような揺らぎが一度走り、そして、鎮まる。四十機が、同じ拍で、息づくように揺らいだ。
兵たちの背筋が、伸びる。歩幅が、揃う。鎧の重さが、束の間、軽くなる。
リヒトは、フェイスの奥でその揺らぎを感じていた。鬨は、兵の恐れを束の間、忘れさせる。それが、この呪法の本当の力なのかもしれなかった。
リヒトは視界の端で、自分の隊の兵の顔を、一人、また一人と、見ていった。
歴戦の兵がいる。頬に古い傷を負った、無口な男。初陣の兵がいる。十六か十七か、頬がまだ、丸い。
縦隊の脇を進む年若い兵が一人、槍を握る手を小刻みに震わせていた。鬨を唱える声も、わずかに上ずっている。
リヒトは、その兵を咎めなかった。
震えぬ兵など、いない。震えを、見せぬだけだ。
中央回廊に近づくにつれ、空が低く垂れ込めてきた。
やがて、雨が降り始めた。
雨は、土の匂いを、強く、立ち上らせた。装甲を打つ音が、低く連なる。兵たちの足音が、その雨音にまじって、消える。
リヒトは、闘装甲冑のフェイスを開いた。
冷たい雨が、頬を打つ。視界は悪くなる。だが、リヒトはフェイスを閉じなかった。
兵たちは、鎧の下で同じ雨に打たれている。指揮官だけが乾いた鉄の内側にいるわけには、いかなかった。
雨の中で見る縦隊は、ただ、黒い。誰が誰だかも、定かではない。それでもリヒトには、一人ひとりが見えている気がした。
その日の午後、縦隊は街道沿いの小さな宿場町を通過した。
戦の報は、まだこの町まで、はっきりとは届いていないらしい。それでも、軍靴の響きは不穏を運ぶ。住人は軒先や戸の隙間から、黙って軍列を見送っていた。子を抱き寄せる母親がいた。戸をそっと閉める老人がいた。井戸端の女が、桶をゆっくりと地面に下ろした。誰もが、声を出さなかった。
隊列の脇、宿の壁際に、商人風の男が、二人。
荷も持たず、低い声で何かを話し込んでいた。帝国訛りでも、王国訛りでも、共和国訛りでもない。リヒトの耳に、その訛りは馴染みがなかった。
身に着けている外套は、貴族のものではない。商人にしては、上等すぎる。農夫でも、職人でも、ない。だが、何者と問われれば、答えに窮する。そういう、佇まいだった。
途切れ途切れに、言葉の断片が流れてくる。
「——武器の、融通の話だ」
「——次の輸送の、段取りを」
それきり、声は雨音に紛れて、消えた。
リヒトは、歩みを緩めなかった。武器を売る者がいて、買う者がいる。戦場には、いくらでも転がっている話だ。
リヒトは、聞き流した。
二人の商人は、軍列が通り過ぎるのを最後まで見送っていた。その視線に、兵を恐れる色も、敬う色も、なかった。ただ、値踏みするような静けさだけがあった。
宿場を抜けると、雨はいっそう深くなった。日が、傾いていく。
雨は、止まなかった。
縦隊は、暮れていく中央回廊へ、黒い帯のまま進み続けた。
◇
野営地。
雨は、止んでいた。
濡れた地面にいくつもの焚き火が焚かれ、兵たちは鎧を脱いで、束の間の休息をとっていた。湯気の立つ椀。低い笑い声。誰かが、故郷の唄を低く口ずさんでいる。行く先の戦を、誰もがまだ遠くに感じている。あるいは、感じないようにしているのかもしれなかった。
野営地は、丘の麓に組まれていた。哨戒の声が、遠く、低く、交わされている。
リヒトは、焚き火の一つの傍に腰を下ろしていた。濡れた外套から、湯気が立ち昇る。
一日の行軍の重さが、肩の鎧の中にまだ残っていた。だが、リヒトはそれを振り払うように、息を静かに吐いた。
そこへ、年少兵が一人、駆け寄ってきた。ティル——十五歳。鉄冠城の練兵場で組手の指導を受けた、あの少年である。候補生を終えたばかりで、今度の出征が初陣だった。
ティルは数歩手前で、一瞬、足を止めた。副団長の傍に、自分のような新兵が座っていいものか——その迷いが、足取りに表れていた。だが、リヒトが目で頷くと、安心したように近づいてきた。
「副団長、隣、いいっすか」
リヒトが頷くと、ティルは隣に腰を下ろした。腰を下ろす位置には、少し距離があった。敬意なのか、遠慮なのか。たぶん、その両方だった。
手を、火にかざす。指先がまだ、かじかんでいるらしかった。
しばらく、二人とも火を見ていた。
ティルは何か言いたげに、口を開きかけては、閉じる。それを幾度か繰り返した。
やがて、火に目を落としたまま、ぽつりと言った。
「副団長。俺たち——正しいんですよね?」
リヒトは、すぐには答えなかった。
火の粉が一つ、夜空へ昇っていく。
練兵場で、この少年に言ったことがある。強さは、結果にすぎん。大切なのは、何のために、その力を使うかだ、と。
——では、俺たちは、何のために。
「……ああ」
短い、一言だった。
だが、その声は——わずかに、揺れた。
ティルは、揺れに気づかなかった。
ぱっと顔を上げ、安心したように、笑った。
「——っすよね! 副団長がそう言うなら、俺、頑張ります」
リヒトは、その明るい顔を、しばらく、見ていた。
リヒトは何も言わず、ティルの肩を一度だけ、叩いた。
ティルは何度も頷きながら、自分の隊の焚き火へ戻っていった。その背中は、まだ、細い。
焚き火の輪のあちこちで、語らいの声が低く続いていた。リヒトは、それをしばらく聞いていた。兵たちの声は、いずれも明日の話を避けていた。明日のことを口にすれば、それは現実になる気がしたのだろう。
リヒトは一人、焚き火の傍に残った。
ふと、空を見上げた。
雨上がりの夜空は、澄んでいた。星が、瞬いている。
その時——北の方角の遠い山稜に、淡い光が、ひとすじ、揺れた。
リヒトは、目を凝らした。
だが、光は、すぐに、流れる雲の向こうに、隠れた。
何の光だったのか。狼煙でもない。雷でも、ない。
「……気のせいか」
リヒトは、小さく呟いた。
そして、視線を火に戻した。
焚き火の音だけが、夜の中に続いていた。
◇
焚き火が、爆ぜた。
夜は、深い。星の数が、いっそう増えていた。
兵たちの寝息が、あちこちで低く聞こえ始めている。明日を、まだ知らぬ眠りだった。
リヒトは炎を見つめたまま、胸の奥で、独り、問うた。
正しい——のだろうか。
俺は、皇帝陛下を信じている。あの届かぬ高みの御方を、疑ったことは、ない。
だが、信じることと、考えることをやめることは、違う。
違うはずだ。
あの夜、声は言った。私が間違った時に、私を止めることだ、と。
そして、人は過ちを犯す、とも。
ならば俺は、信じながら、なお、考え続けねばならない。それが、どれほど苦しくとも。
ティルの「俺、頑張ります」が、耳の奥にまだ残っていた。あの信に応える道が、どこかにあるはずだ。少なくとも、探さなければならない。
リヒトは、息をひとつ、吸った。冷たい夜気が、肺の奥まで届いた。
そして、ゆっくりと空を見上げた。
北の山稜は、もう闇に沈んで、見えなかった。
それでも、光の見えた方角は、覚えている。




