燭台ひとつ
大広間を退いたその夜、リヒトは皇帝執務室に召された。正式な召し状は、なかった。近衛が一人、リヒトの耳元で低く、用件だけを告げた。公の沙汰ではない——そのことが、かえってリヒトを身構えさせた。
皇帝の執務室へ夜に召されることなど、何年に一度あるかという稀事である。リヒトの記憶にも、同輩の誰かが召されたという話はない。
宴も、祝賀も、なかった。統一を宣言した夜だというのに、城は、奇妙に静まり返っていた。リヒトはその近衛に先導され、灯りの乏しい回廊を奥へ奥へと進んだ。リヒトの足取りは、晴れがましさよりも、得体の知れぬ重さに引かれていた。
途上、すれ違う者はほとんどいなかった。燭台の灯りに照らされた回廊は、ただ、長かった。回廊を進む自分の靴音が、いつもより、大きく響いた。
執務室は、玉座の間とはまるで違っていた。
高い円柱も、段も、高座もない。卓が一つ、燭台が一つ。卓の上には、書きかけの書状と印のついた羊皮紙が、無造作に積まれていた。壁の一面に、三国の地図が広げられている。中央回廊を貫いて、帝国軍の進路が赤い線で引かれていた。線は幾筋にも枝分かれし、そのことごとくが中央回廊の一点へ収束していた。地図には、三国の主要な都市の名が細い筆跡で書き込まれていた。聖都セフィラ。工都アルカナム。鉄冠城グランフォート。それぞれの名の脇に、小さな印が付されていた。何の印かは、リヒトには読めなかった。
部屋にいたのは、三人だけだった。皇帝ジークハルト三世。リヒト。そして、第一突撃騎士団 団長 エリック・ヴォルフ。
近衛はいない。侍従長もいない。代読する者は、誰も、いなかった。
リヒトは入口で片膝を突き、頭を垂れた。いつもの作法だった。
「面を上げよ、とは言わぬ」
声が、した。
リヒトの肩が、わずかに強張った。うなじの逆毛が、立った。
それは、侍従長の声ではなかった。代読では、なかった。低く、乾いて、疲れを含んだ——皇帝、その人の、声であった。
臣下が、皇帝の肉声を直接聞く。それがどれほど稀なことか。リヒトは頭を垂れたまま、その声を、全身で受けた。玉座の間では、高みから沈黙だけが降りていた。その同じ御方が今、肉声で、自分に語りかけている。
「面を上げれば、お前は余の顔を見る。顔を見れば、情が移る。情が移れば——お前は、余を、止められぬようになる」
リヒトには、言葉の意味が、すぐには、掴めなかった。
なぜ自分なのか。なぜ今夜なのか。問いが、頭の中でいくつも湧いた。だが、声に出すには、どれもまだ形を成していなかった。
皇帝は、地図の前に立っているらしかった。衣擦れの音が、赤い線の上をゆっくりと移動していく。
「リヒト・アドラー。お前に、独立遊撃の権を与える。第一突撃騎士団 副団長の任に、団長と並ぶ裁量を付す。戦場において、お前は、誰の指図も待たずに動いてよい」
「——は」
破格であった。副団長が、団長と並ぶ裁量を持つ。軍の常では、ありえない。それは栄誉であると同時に、リヒトを軍の序列の外側へ、独り、置く沙汰でもあった。誰の命も待たぬということは、誰にも責めを分けられぬ、ということだ。誤れば、誰にも慰められぬ。それが、独立遊撃というものの真の意味だった。
リヒトが言葉を探していると、皇帝の声が続いた。
少し、低くなった。
「お前の役目は——」
衣擦れの音が、止まった。
部屋の空気が、重くなった。
「私が間違った時に、私を止めることだ」
リヒトの心臓が、一度、大きく打った。
「余」では、なかった。「私」だった。玉座という装置から発せられる律ではなく、一人の人間の、声だった。
壁際のエリックの気配は、動かなかった。
皇帝に最も忠実なその男に、この役目が下されることは決して、なかったろう。
ならば、なぜ、自分なのか。皇帝は自分のどこを、見ていたのか。リヒトには、思い当たる節がなかった。
リヒトは、頭を垂れたまま、動けなかった。
統一を宣言したその同じ口が、同じ夜に、自分を止めよと言う。その矛盾を、リヒトはどう受け取ればいいのか分からなかった。
問うてはならぬ、と頭のどこかが囁いていた。問えば、自分はこの御方を軽んじることになる。それでも、何かを問わねばならぬ気がした。
「陛下は……」
声が、掠れた。
「ご自身が……、何を、お考えなのですか」
長い、沈黙があった。
地図の前の影は、答えなかった。代わりに、こう言った。
「答えぬ。答えれば、それは、命令になる。命令されて止めるのでは、遅いのだ。そして、人は過ちを犯す」
それきり、皇帝は口を閉じた。
部屋には、燭台の芯が、じわりと、燃える音だけが、残った。
退出の合図も、なかった。リヒトはしばらく頭を垂れたまま、やがて静かに後退りで、執務室を出た。三歩、五歩、十歩。振り返ることは、許されない。背中で、扉が、音もなく、閉じる気配がした。
扉の向こうに残された御方は、これから、ひとり、地図の前に立ち続けるのだろう。
最後まで、皇帝の顔は見なかった。だが、その声だけは——一人の人間の、声だけは、耳の奥に残った。
廊下に出ると、エリック・ヴォルフが後から続いてきた。
団長は長身を屈め、無表情のまま、リヒトの横に並んだ。
エリックとは、武官学校の同期だった。幾度も背中を預け合った仲である。
二人は、しばらく、無言で、長い廊下を、歩いた。靴音だけが、石壁に低く跳ね返った。
「面倒な役目を貰ったな、お前」
それだけ、言った。
リヒトは、答えなかった。
エリックもそれ以上は何も言わず、長い廊下を先に歩いていった。その背中は、何も迷っていない者の、まっすぐな背中だった。
廊下の窓の外は、深い夜だった。
リヒトは歩きながら、皇帝のあの一言を、耳の奥でもう一度聞いた。
私を止めろ。
その一言の重さだけが、胸の底に残っていた。




