一巻の勅
鉄冠城グランフォートの大広間に、これほどの数の臣が集うのは、幾年ぶりのことか。
三十年前、先の大戦が終わった日。あの日も、この広間は、人で埋まったという。父の代の話である。リヒトは、まだ、生まれてもいなかった。
帝国全土の諸侯。各軍門の長。宰相府の高官。諸騎士団の幹部。正装の列が高い円柱のあいだを埋め、石床のはるか奥まで連なっていた。普段は反目し合う家門の当主たちも、今日ばかりは、同じ広間に、肩を並べている。
帝国の鷲の旗。磨かれた鎧。張り詰めた、朝の冷気。
武官貴族の列には、皇帝の戦争方針に乗り気な者と慎重な者の、二色の表情が混じっていた。文官の列は宰相を頭に、表情を消したまま、ただ整然と並ぶ。諸騎士団の幹部は団ごとに小さな塊を作り、互いを横目で測っていた。
リヒト・アドラーは、騎士団幹部の列の中ほどに立っていた。第一突撃騎士団 副団長——その任を授かったのは、数日前の朝の御前会議でのことだった。
列の前方には、何代も続く武官貴族の当主が居並ぶ。後方には、辺境から早馬を乗り継いできた名もなき軍門の長たちがいた。リヒト自身、辺境の寒村の生まれである。闘装の才ひとつで、ここまで上り詰めた。血筋ではなく、力で立つ——それが、帝国という国の苛烈な美徳だ。
二列ほど前に、北方辺境の老諸侯がいた。一度だけ、共に戦場を踏んだ相手である。先方はリヒトの姿に気づくと、目で頷いた。リヒトも頭を下げぬまま、目だけで返した。
天井は、闇の中にある。朝の光は高窓のはるか上から細く差し込むばかりで、広間の床までは届かない。
段の上、さらにその上の高座に、皇帝ジークハルト三世の姿があった。
逆光。輪郭だけが、見えた。
臣下がその素顔を直視することは、許されない。玉座の両脇には近衛が侍立し、無音のまま儀仗を交差させて、場を整えていた。
広間には、しばし、何の声も、なかった。誰もが、息さえ、潜めていた。
やがて、玉座の段の脇から、侍従長が進み出た。手にした巻物を、ゆっくりと開く。
次の一言が大陸の行く末を変えると、誰もが知っていた。
「——陛下の勅である」
その一言で、広間のすべての臣が一斉に片膝を突いた。鎧と衣擦れの音が石床をさざ波のように走り、すぐに、静まった。
侍従長の声が円柱に反響し、広間の隅々にまで通った。皇帝の声ではない。だが、皇帝の言葉であった。
「三国に分かたれて、三百年。我らはこの間、三度の大戦を経た。
次の戦が起これば、大陸は、二度と立ち上がれぬ。
ならば——その戦を、余の手で起こす。余の代で、終わらせる。
三国は、一つに帰すべきである」
巻物が、巻き戻された。
広間に、どよめきが走った。
熱狂と、困惑と。その二つが、同じ石床の上で入り混じっていた。
最前列の若い諸侯が、伏せたまま拳を握り、声にならない声を漏らす。「——ついに」。それは、長く待った者の熱であった。
二列前では、あの北方辺境の老諸侯が石床の一点を見つめたまま、動かない。顔から、血の気が引いていた。三十年前の大戦を、若き日にくぐり抜けた男である。三百年の均衡が、たった今、一巻の勅で覆された——その意味を、誰よりも、その身が知っていた。
文官の列の中で、ひとりの参事官がわずかに唇を噛んだ。算盤を弾く者には、戦の代償が誰よりも見えるのだ。
広間の最も奥、円柱の影に、老元帥ブラントがいた。
ただ一人、声を上げず、表情も動かさず、ただ高座を見上げていた。その沈黙だけが、熱狂の広間の中で、異質だった。リヒトは伏せた視界の端に、その姿を一度だけ捉えた。
勅が読み終えられると、入れ替わるように、ヒルダ・シュテルンが進み出た。
帝国軍 作戦参謀。手元の書を繰りながら、戦後の青写真を淡々と読み上げていく。
占領地の行政区分。三国を解体し、十二の州に再編する案。糧秣の再分配。北方の穀倉地帯から南方の都市部への、新たな流通路。降伏した兵の処遇。技能ある者は帝国軍に編入し、それ以外は故郷へ帰す。新たな街道の敷設。中央回廊を、三国を貫く一本の幹道に整備する計画。
その一つ一つが、まるで戦が終わったあとの大陸を、すでにその目で見てきたかのように整っていた。
王国の聖林に、行政の手を入れるための条項さえ、あった。共和国の議会を、帝国法の下に置き直す手順さえ、あった。
戦没者の遺族への、措置の項さえ、あった。
まだ、誰も、死んでいないというのに。
整いすぎている、とリヒトは思った。
戦は、まだ始まってすらいない。にもかかわらず、終わったあとの世界が、これほど精緻に描かれている。戦の始まる前から、その終わりが、すでに、決められていた。
ヒルダの声は、一度も、揺れなかった。それは責められるべきことなのか、それとも、責められるべきは戦そのものなのか。リヒトには、判じきれなかった。
リヒトは、皇帝を信じている。辺境の名もなき少年を、血筋ではなく力で引き上げた、この国を。その頂に立つ御方が、余の代で終わらせると言うのなら——それは、きっと、最後なのだ。そう、信じたかった。
だが、ヒルダの読み上げる青写真の、その精緻さが、リヒトの信をわずかにざらつかせた。
リヒトは、高座のシルエットをもう一度見上げた。
声は、降ってこない。
あの届かぬ高みから下された一巻の勅が、これから幾万の朝を変える。リヒト自身の朝も。ティルの朝も。まだ顔も知らぬ、敵国の若者の朝も。
胸の奥で、何かが、わずかに軋んだ。
リヒトはそれを、誰にも気取られぬよう、胸の奥へ飲み下した。




