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アルケイア三国戦記  作者: 広瀬 舞
序章 三つの朝
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声は、降ってこない

鉄冠城グランフォート——覇装帝国ヴァナヘルムの首都にして、帝国軍最高司令部の所在地——の練兵場には、夜明け前から候補生たちの号令が響いていた。


「——構え! 一動! 二動!」


闘装兵候補生たちが、闘装甲冑(バトル・アーマー)の基礎訓練に身を入れている。リヒト・アドラー——帝国軍 第一突撃騎士団 大隊長——は、組手の指導役として候補生たちの動きを見守っていた。


リヒトの体格は中肉中背で、決して目立つ方ではない。だが所作の一つ一つが極めて静かであり、候補生たちは無意識のうちに、その静けさに合わせて呼吸を整える。


組手の合間、候補生のひとり——ティルという名の十五歳の少年——が、リヒトに駆け寄ってきた。


「教官は、強いっすね」


ティルの目には、率直な憧れがあった。リヒトは、わずかに笑った。


「強い、とは何だ」


「えっ——強い、って……強い、でしょう?」


「いいか、ティル。強さは、結果にすぎん。お前が知らねばならぬのは、強さの裏にある、何のために、この力を使うかだ」


ティルは口を半開きにしたまま、しばらく考えていた。


「……敵に、勝つためじゃ、ないんですか」


リヒトは答えず、ティルの肩を一度叩いて、組手の隊列に戻した。


ティルは列に戻ってからも、構えを取りながら、何度か首を傾げていた。


その時、城内の鐘が、長く一度、鳴った。


通常の時報の鐘ではない。朝の御前会議の招集の合図である。皇帝直々の臨席のもと、宰相府・軍部・諸侯の一部が玉座の間に集う、月に数度の議である。


リヒトは練兵場を退き、城内の長い回廊を、無言で進んだ。


鉄冠の間——玉座の間——の前まで来ると、近衛が、無音で扉を開いた。


リヒトは扉をくぐり、入口から十数歩の距離で石床に片膝を突き、頭を垂れた。それ以上、奥には進めない。


広間は高い円柱が幾重にも連なり、天井は闇の中にあった。玉座は段の上、さらにその上の高座に据えられている。逆光の中で、皇帝ジークハルト三世の姿は、輪郭しか見えなかった。臣下が皇帝の素顔を直視することは、許されない。


玉座の両脇に侍立する近衛が、無音のまま儀仗を交差させ、場を整える。


広間には、すでに宰相と、いくつかの軍門の長が片膝を突いて控えていた。列は玉座の一段下に始まり、入口へ向かって位が下がっていく。リヒトの膝を突いた場所が、その末席だった。そこで、自分の番を待った。


宰相が、辺境諸侯の動静と糧秣の備蓄状況について、長く言上を続けていた。声は乾いて簡潔で、無駄がない。中央回廊以南の不穏な兵動について、いくつかの示唆も挟まれた。


言上が終わると、広間に長い沈黙が落ちた。


やがて玉座の段の脇から、侍従長の声が広間に通された。


「——リヒト・アドラーの儀」


侍従長の声が、続いて、皇帝の御意を代読する形で告げた。


「——時、至れり。統一戦争を始むるにあたり、リヒト・アドラーを、第一突撃騎士団 副団長に任ずる。陛下の御意である」


侍従長の声には、いつもの儀礼の調子とわずかに違う何かが混じっていた。リヒトはそれを、片膝を突いたまま聞き取った。


リヒトは石床に額を寄せるように敬礼を深め、声を絞って、ただ一言返した。


「——御意」


玉座は、静かだった。


声は、降ってこない。


だが——


リヒトの心臓が、一拍だけ、早鐘を打った。


侍従長の口を借りた皇帝の言葉の裏に、わずかな「重さ」を感じ取ったのだ。それが何かは、まだ分からなかった。


侍従長の声が、退出を告げる。


「——リヒト・アドラー、退」


リヒトは顔を上げぬまま、後退りで広間を退出した。最後まで皇帝の素顔を見ることはなかった。皇帝の声を直接聞くことも、なかった。


退室後、長い回廊を進む。


すれ違いざま、すでに退役して久しいはずの老元帥ブラントが、無言でリヒトの肩を一度だけ叩いて、通り過ぎた。


ブラントは、城への出入りを今も許されている数少ない老兵のひとりだった。皇帝とは古くからの戦友であり、今は時折城を訪れて、旧知の臣下と挨拶を交わすだけの静かな日々を送っている。


リヒトは、振り返らなかった。


ブラントも、振り返らなかった。


回廊の窓から差し込む朝陽が、リヒトの肩に、薄く、落ちていた。


◇


中央回廊——王国・共和国・帝国の三国の領土が交わる、広大な草原と低い丘陵地——の中心に、自由都市クロスロードはある。


どの国の旗も、ここには立っていない。立てられない、と言うべきかもしれない。三国のいずれかが旗を立てれば、即座に他の二国が抗議し、戦争の口実にすらなる。だから、クロスロードは「三国共同管理の自由都市」として、長く、誰のものでもない街として在り続けてきた。


朝の市場が開く時刻だった。


ハーフリングの行商人が、薬草の籠を地面に並べる。ドワーフの鍛冶屋の煙突から、白い煙が立ち昇り始める。子どもたちが学校へ向かう列が、石畳の上で軽い足音を立てる。


街の片隅、市場の喧騒からわずかに外れた一角に、一軒の古いギルドが静かに佇んでいた。


看板の文字は長年の風雨で色あせ、もう、誰にも読めない。ただ、扉の上の、葉と杯を交差させた古い浮き彫りだけが、そこがギルドであることを静かに告げていた。


特に賑わっているギルドではない。朝の薄暗いギルドには、併設されたBARカウンターに常連が数人いるだけだった。


そのカウンターの中に、幼い少女の姿がある。


少女はカウンターの内側で、台に乗っているらしかった。台に乗らねばカウンターの天板まで届かない背丈らしい。天板の向こうに、小さな頭と肩だけが覗いていた。


カウンターの天板、少女の手元近くには、一匹の黒猫が寝そべっている。猫は行商人の朝の喧騒を、半ば閉じた目で聞き流していた。


少女は布巾でカウンターを拭き続けている。手は、止まらない。


多くは知れないが、少女はこのギルドのオーナーであり、長く、この場所に在る、ということだけが、知れる。


ギルドの隅の席に、外套で顔を隠した客が一人座っていた。


朝のこの時間に、酒杯を傾けるでもなく、ただ静かに座っている。


やがて客は立ち上がった。椅子を卓から少し引いたまま、扉へ向かう。


少女は布巾の手を止めず、目だけで一度、その客を見送った。


扉の閉じる音は、市場の喧騒にまぎれた。


それだけだった。


名もなき通行人が、街路をゆっくりと歩いていく。彼は風を一度頬に受けて、ふと、独り言のように呟いた。


「……今朝の風は、妙だな」


街の鐘が、朝の刻を、長く、告げた。


新しい一日が、始まった。


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