精霊と煤煙
聖都セフィラの郊外には、霊脈の森が広がっている。夜明け前の薄闇がまだ森の底に淀み、霧が幹のあいだをゆっくりと流れていた。樫と楢のような太い幹が幾重にも連なる。その梢の上に、月光銀の装甲をまとった一騎の霊装騎。低く、旋回していた。
機名はシルヴァーン。アルセス・ヴァン・セフィーラ——王国軍 中央回廊方面軍 第三聖騎士隊 隊長——の搭乗機である。朝陽が東の地平から差し込み、装甲の銀が橙色に縁どられる。
「……南方が、乱れている……」
シルヴァーンのコクピットの中で、風精霊が囁いた。アルセスは精霊の声を、自分の耳ではなく胸の奥で聞いていた。声は不安げで、いつもより細く震えていた。
「乱れている、とは——」
返事はない。風精霊は、人間の言語で正確に答えることをしない。彼らは「気配」だけを伝え、解釈は操手に委ねる。
アルセスは息を整え、配下の編隊に短く通信した。
「——シルヴァーンより、編隊各騎。本日の哨戒、予定通り続行。異常があれば直ちに報告せよ」
二十騎の霊装騎が、一定の間隔で森の上空を回り続ける。
アルセスは配下の操手ひとりひとりの名と故郷を、すべて諳んじていた。
北西の村から従軍した若年兵がいた。東部の山岳地帯から志願してきた獣人がいた。ガレス老の弟子筋にあたる、由緒ある家系の三代目もいた。
アルセスは、彼らひとりひとりが入隊した日の朝の顔を、今もそらで思い出すことができる。獣人の志願兵が、初めての鎧の重みに膝をついた朝。若年兵が、緊張で握り飯を落とした朝。三代目が父の形見の小刀を腰に差した、その日の朝。
帰投の合図にしている朝の鐘が、城下町から響いた。
シルヴァーンが地面に降り、燭台の油の匂いを残す厩舎に格納される。アルセスがコクピットの蓋を上げて外気を吸った時、整備兵の老婆が、機の脚の脇で布を絞っていた。
「お疲れ様で、隊長」
「ええ、母さん。ご苦労様」
整備兵たちは皆、この老婆を母さんと呼ぶ。アルセスは鎧を半分まで脱ぎ、その手を借りて朝食の支度を整える。
老婆がふと、空を見上げて首を傾げた。
「……今朝は、鳥の声が、変だね」
アルセスが視線を上げる。だが聖都の空は晴れていて、鳥は普段どおり、数羽が枝先を渡っていた。何が変なのか、アルセスには分からなかった。
アルセスは、格納を終えたばかりの編隊の列に目をやった。報告を上げれば、哨戒をもう一度出すことになる。夜明け前から飛び続けた二十騎を、また空へ上げることになる。
「気のせいでは」
「そうかねえ」
老婆は布を絞り終え、装甲を磨きに戻る。
詰所の前では、師であるガレス・アイアンルートがすでに立ち、その大柄なシルエットを際立たせていた。
「アルセス。今日も、いい風だな」
ガレスは王国軍 中央回廊方面軍 騎士長。三十年前の戦をくぐり抜けた老兵で、アルセスにとっては剣の師であり、命を預けた相手でもあった。
「ええ、騎士長。いい風です」
二人は視線を交わし、軽く頷く。それ以上の言葉は、いらない。ガレスがゆっくりと詰所に消える。
アルセスは振り返り、もう一度、空を見上げた。
鳥の声は、確かに、いつもより少なく感じた。
◇
工都アルカナム——機鋼共和国の心臓——の煤煙は、夜が明けても消えない。煙突から立ち昇る蒸気が朝陽を斜めに切り裂きながら、町の屋根のあいだを漂っていく。
第七機甲師団の主任工房では、徹夜の作業がようやく終わろうとしていた。
「——出力、安定。圧力、規定値内。脈動、誤差〇・三パーセント……成功です、副師団長」
技術士官の声が、油まみれの作業帽の下から響く。フィオナ・ベルクシュタイン——共和国軍 第七機甲師団 副師団長——は、計測器の前で頷いた。新型駆動装置の試運転が、二十時間連続で安定を維持した。第三世代に向けて、確実に一歩進んだのだ。
「はい、みなさん、ご苦労様。それでは、休憩にしましょう」
技術者たちが歓声を上げる。「副師団長の号令が、いつもより甘いぞ」と、誰かが冗談を飛ばした。フィオナは作業椅子の背もたれに身体を預け、目を閉じた。
工房の隅の机に、武骨な大き目のカップから湯気を立てる黒鉄茶。共和国の技術者が徹夜の友とする飲料だ。色は墨のように黒く、味は苦く、しかし鼻に抜けるのは香ばしい焦げ香である。
フィオナはその武骨なカップを手に取り、一口含んだ。苦味が、舌の奥を引き締める。
「——これで、第三世代に、一歩近づいた」
声に出して、自分に言い聞かせる。
その時、工房の重い扉が開き、議会棟の急使が入ってきた。封蝋付きの命令書を、フィオナの机に置く。
「副師団長殿。産業ギルド盟主名による技術協力要請でございます」
フィオナは封を切らず、しばらくその封蝋付きの命令書を見ていた。
封蝋の意匠は、産業ギルド盟主——ヴィクトル・ゴルド——の家紋。技術協力要請という名目だが、産業ギルド盟主が直接動かす案件は、軍事最高機密に近い。
封を切る。要請書の中身を見る。
文面は短かった。装置の名と、その規模を示す数字が並んでいるだけだった。
フィオナの表情が、わずかに翳った。
技術者として——「面白い」。共和国の魔導工学の最先端で、誰も組み立てたことがない規模の装置。その理論的可能性は、技術者ならば誰もが一度は夢想したものだ。
人として——「不安」。これは、大地の脈を人間の手で握る装置である。それを「面白い」と思うことそのものが、危ういのではないか——という、声にならない疑念。
フィオナは黒鉄茶をもう一口含み、文書を引き出しに収めた。
その引き出しの底に、もう一通の手紙がすでに入っていた。封筒に特別な紋章はない。差出人の名は『カイル・オルブライト』とだけ記されていた。
カイルは共和国議会の中堅議員。フィオナの古い友人であり、十年前に同じ工房で技術者として働いていた男である。今は議員として、しばしばフィオナに私的な手紙を寄こす。
手紙の本文は、ごく短い。
『フィオナへ。
君は、技術屋として、正しいことだけ、しろ。
カイル』
フィオナは手紙を見つめ、しばし、引き出しの上で動かなかった。
工房の窓の向こう、煤煙の隙間から、朝の太陽がゆっくりと昇っていく。




