実戦データ
その日の昼、フィオナ・ベルクシュタインは第七機甲師団の作戦本部に呼ばれた。
新型駆動装置の仕上げに、また夜を明かしたところだった。徹夜明けの目に、本部の白い灯りが、痛い。机に広げられた地図には、すでに中央回廊への配置線が赤く引かれていた。
第七機甲師団。共和国軍の機甲戦力の中核をなす師団である。霊装騎を駆る王国とも、闘装甲冑を纏う帝国とも、共和国は違う。この国の騎士は、魔導機関を積んだ鉄の巨人——フェラム・ナイトに、人を乗せて戦う。鉄と、火と、緻密な整備の上に立つ戦力。だからこそ、機体を最も知る者が、最も強い。共和国は優れた技術者を、机の前にだけは置いておかなかった。
師団長から、命令が下る。
「フィオナ・ベルクシュタイン。第七機甲師団を率いて、中央回廊方面へ展開せよ。副師団長として最前線の指揮を執れ。あわせて、騎体整備の総括も、お前が担う」
「——拝命します」
フィオナは、短く、応じた。
中央回廊。三国の境が交わる、あの平野。そこが、最初の決戦場になる。フィオナの率いる三十機が、初めて実戦の火の中へ投じられる。整備の数字なら、いくらでも諳んじられた。許容応力も、稼働時間も、損耗率も。だが、その数字の向こうには生身の操手が、一人ずつ、座っている。数字が一つ狂えば、誰かが、還らない。それを忘れた時、技術者はただの死神の道具になる。フィオナはそう己を戒めて、ここまで来た。
予期していた命令ではあった。技術屋でありながら、最前線の指揮も執る。それが、共和国軍の合理である。最も機体を知る者が、最も機体を使う。無駄がない。だが、その無駄のなさは、技術者を戦の最前へ、容赦なく押し出す合理でもあった。
フィオナ・ベルクシュタイン、二十代の半ば。共和国でも稀な、女の副師団長である。だが、議場のゴルドと同じく、この国は出自も性別も、問わなかった。問うのは、ただ一つ——役に立つか、否か。フィオナは、役に立った。だから、ここにいた。
本部を出ると、若手の技術者が待ち構えていた。フィオナの下で新型駆動装置を組んだ、青年である。
「副師団長! 中央回廊への展開、聞きました。ということは——ヴァイスリッター改の、実戦データが、取れますね!」
その目は、輝いていた。
ヴァイスリッター改。フィオナが半年をかけて、駆動系を一から組み直した試製機である。第三世代フェラム・ナイトの骨格に、新型のプネウマリア伝導機関を移植した機体。出力は、既存機の、一・五倍。だが、その分だけ機関への負荷も、跳ね上がる。図面の上では、完璧だった。あとは——戦場がそれを、証明するだけである。
悪気は、ない。技術者にとって、新型機の実戦投入は長く夢見た瞬間である。設計どおりに動くのか。理論は、戦場で、証明されるのか。
フィオナは、わずかに、微笑んだ。
だが、その微笑みの裏で、胸の奥が小さく軋んだ。実戦データとは、つまり——機体が、人を、葬った記録である。若い技術者の輝く目に、その重さはまだ、映っていなかった。フィオナも、かつては、そうだった。
初めて自分の組んだ機が敵機を貫いた日、フィオナは、誇らしかった。理論が、現実を、捻じ伏せた瞬間だった。その誇らしさを、恥じるようになるまでに——幾年も、かからなかった。
それを口には出さなかった。
「ええ。期待に、応えないとね」
そう、返すに、留めた。
作戦本部の廊下を、二人が歩く。硝子張りの窓の外に、軍用工房の広い敷地が見えた。
組み立て途中の機体が、整備架に吊られている。剥き出しの骨格。垂れ下がった伝導の管。職工たちがその巨体に取りついて、火花を散らしていた。煤と、油と、焼けた鉄の匂いが、硝子越しにも伝わってくるようだった。共和国の戦力は、この絶え間ない槌の音の上に立っている。
その敷地の、外の街路に——一台の馬車が、止まっていた。
商隊のものらしい。だが、荷を積み下ろす様子もなく、ただ、ゆっくりと進んでは止まり、工房の建物を眺めていた。御者と、もう一人。何をするでもなく、ただ、軍の工房を眺めている。
フィオナは、足を止めた。
少し気にはなったが——
「副師団長。技術仕様の、確認を」
若手技術者が、手元の書類を差し出した。展開する機体の、整備仕様である。
「ああ——そうね」
フィオナは、窓の外から、目を、戻した。
仕様書の数字が、意識を満たしていく。許容応力。プネウマリア伝導率。装甲の冗長性。目の前の、確かな数字。それらが、窓の外の小さな違和を、すぐに押し流した。
廊下を、二人は進んでいった。
街路の馬車は、なおしばらく工房を眺めてから、やがて、煤煙の中へ消えた。
◇
夕刻、フィオナは軍令室に、展開計画の書類を取りに行った。
整備総括も兼ねる今は、機体の配備表に目を通しておく必要があった。
軍令室は、静かだった。書記官が二人、帳面に向かっているだけである。
壁には、中央回廊の大判の地図が貼られていた。色の違う駒が、敵と味方を隔てて並ぶ。参謀本部の、神経の中枢——普段、一介の副師団長が長居を許される場所では、なかった。フィオナは手早く、自分の師団の書類を卓上から探した。
その時、隣の卓に広げられた一枚の図面が、目に入った。
大判の、設計図だった。びっしりと描き込まれた魔導陣。幾重にも重なる、伝導路の線。中心には、巨大な炉の、断面図。
技術屋の目が、瞬時にその構造を読んだ。
図面の寸法が、桁を、違えていた。フィオナの知る、どの機関とも違う。一機のフェラム・ナイトを動かす伝導機関なら、人の背丈ほどである。だが、これは——工都の一区画を丸ごと呑み込む規模だった。中心の炉へ向かって、無数の伝導路が河の支流のように収束している。そのすべてが、地の底へ深く、根を下ろしていた。
レイラインを、汲み上げる。地脈そのものに穴を穿ち、大地の脈を炉へ引き込む。古典魔術の禁咆、地脈汲上式——その原理を工房の規模に引き伸ばしたもの。
地脈とは、大地を巡るプネウマリアの流れである。精霊が宿り、森が育ち、人が術を編む、その源。古来、それは汲んでも、掬う程度に留めるものだった。器で川の水を、一杯すくうように。だが、この図面が描いているのは——川そのものに堰を築く所業だった。
図面の隅に、表題が、あった。
『大規模プネウマリア収奪炉』
フィオナの、指先が、冷えた。
あの朝、ゴルド盟主の名で届いた、あの技術協力要請。あれの、正体が、これだった。要請書の文字ではなく、設計図そのものを見て初めて、その規模が分かった。
これは——大地の脈を、握る装置だ。
誰が、何のために。問いは、瞬時に、湧いた。だが、その問いを口にする前に——技術屋の本能が、別のことを告げていた。これは、動く。理屈の上で、破綻がない。図面は、完璧だった。完璧であることが、何より、恐ろしかった。
「副師団長」
声が、した。
上官の作戦参謀が、いつのまにか傍らに立っていた。フィオナの視線の先をたどる。そして、無言でその設計図を巻き取った。手早く、淀みなく。慣れた手つきだった。
「お探しの書類は、そちらの棚です」
それだけ、言った。
フィオナは棚から自分の師団の書類を取った。礼を述べ、軍令室を出た。図面のことは、互いに一言も触れなかった。触れてはならぬ、とその沈黙が告げていた。
共和国の軍にも、見える部分と見えない部分とがあった。配備表や兵站の数字は、副師団長にも開かれている。だが、あの図面は——その見えない側に属するものだった。盟主ゴルドの資本と軍の中枢とが、どこかで見えない管で繋がっている。地脈を汲み上げる装置に、軍が関わっている。技術者の勘が、そう告げていた。だが、それを確かめる術を、一介の副師団長は持たなかった。確かめてはならぬ、とも、思った。
廊下を歩きながら、フィオナは息を整えた。
見てはならぬものを、見た。その自覚だけが、胸に、残った。
本部を出て、夜の街路に足を踏み出した時。
腰の伝信呪符が、かすかに、熱を、帯びた。
呪符術で組まれた、議員の用いる通信符である。送り主の印は——カイル・オルブライト。
符に浮かんだ文字は、短かった。
『君は何も見ていない』
一拍置いて、文字が続いた。
『だが、忘れるな。いずれ、向き合う時が、来る』
フィオナは符を握ったまま、しばらく動かなかった。
なぜ、カイルが知っているのか。自分が今、何を見たのかを。
その問いには、符は答えなかった。
カイル・オルブライト。かつての、エース操手。十年前、同じ工房で図面を囲んだ男。今は、議席に座る男。その男がなぜ、今夜の自分を見ていたかのように書いてくるのか。符は、答えない。ただ、最後の一文だけが、夜の中で、妙に、重かった。いずれ、向き合う時が、来る。何に。誰と。それすら分からぬまま、その言葉は胸の底に、澱のように沈んだ。
夜の煤煙の向こうに、工都の灯りが滲んでいた。




