第7話
―― 夢だ、と少年は気づいた。
先日見せてもらった花の丘が目の前に広がっている。
ただただ花の色の洪水が広がっているだけで、社殿はなかった。
ただ、今日の夢はいつもと違う。
今日は山神と別れるところから始まった。
現実では社殿があるところで、被衣の山神が小さく手を振っている。
それに少年と同じ側の腕を失くした男が、大きく左手で振り返して花の丘から下った。
下った先は現実と同じだった。
やや整備はされているものの山道には変わりなく、でこぼことした道が続いていた。階段状になったところをゆっくりと降りていた男は、ふと視線を上げる。
ひ、と少年は悲鳴を上げたが、少年の声が男に届くはずもない。
男の前に立ちふさがるようにして、年上の男たちが草刈り鎌や鋤、鍬を構えてそこにいた。
男たちの形相はまるで男を仇と思っているかのようで、農具を持つその拳は震えている。
『―― なんだ、おらはお前さんたちの助けをした覚えはあるが、恨みを買った覚えはねぇぞ』
はじめて聞いた男の声だった。
自分から発せられているからかややくぐもった声ではあったものの、その声に乗せられた感情は呆れたようなものだ。
男の発言に、先頭にいた草刈り鎌を持った男が叫ぶ。
その顔つきは少年の血筋上の父である村長に似ていた。おそらく村の者たちなのだろう。
『弥兵衛! お前、お前が山神様を穢したな!! 死に損なったかたわ野郎のくせして!!』
『はぁ? おらはただ ――』
『問答無用じゃ!! 皆の者、山神様への償いじゃ!! 山の恵みが失われる前に殺せェ!!』
少年は傍観者だった。
だからどうして、少年が目を借りている弥兵衛と呼ばれる男が襲われる理由が分からなかった。
身の危険を感じたであろう弥兵衛は身を翻して、下ってきた山道を駆け上がる。
幸いにも花の丘はそこまで遠くなかった。全速力で走れば、弥兵衛よりも年上の男たちは追いつけないだろう。
けれど少年は嫌な予感が拭えなかった。
少年の胸の奥がどくどくと早く鳴っている。
ああ、どうか、どうか、弥兵衛が無事に山神さまのところへたどり着きますように。
―― そんな少年の願いは、呆気なく散る。
強い衝撃と共に、視界がぶれた。
横から強く突き飛ばされたのだ。そして、突き飛ばされた先は、山道の中でも崖になっているところで。
一瞬だけ少年には見えた。
弥兵衛と同じ年頃の男が、恐怖の表情を浮かべながら両手を突き出していたのを。
少年が見えたということは、弥兵衛にも見えたということで。
『伊介』
弥兵衛は呆然と呟いた。いや、それしか口にできなかった。
次の瞬間には視界がものすごい勢いであちらこちらへと転がり、ドンッという強い音とともに弥兵衛の視界は、森の木々の枝葉と、その隙間から見える青空となった。
ゆっくりと、弥兵衛は瞬く。
呼吸が荒いのが、少年にも聞こえた。ひゅうひゅうと音が鳴っている。
少年に痛みはない。痛みはないが、まるで自分のことのように少年は泣きそうになった。
弥兵衛の視界が暗くなりかけたとき、端のほうから鮮やかな色が現れた。
見慣れた、山神の被衣の橙色だった。
『弥兵衛』
山神が呟いて、弥兵衛の傍で膝をつく。
弥兵衛の視線が山神へと向けられた。
『いやだ、死ぬな、弥兵衛』
弥兵衛の左手を握って、山神が弥兵衛の顔を覗き込んできた。
自然と弥兵衛 ―― 少年に山神の相貌の全容が見える。
細く、腫れぼったい目元。かぎ鼻。下ぶくれの頬。
そしてその頬には雀斑があって、その上をぼろぼろと涙が流れていく。
ふ、と弥兵衛の鼻から息がこぼれた。笑ったようだった。
『なんだぁ、べっぴんさんが、ないてらぁ』
『誰が美人じゃ、こんな、こんな』
『 』
弥兵衛が何か言ったが、少年には聞こえなかった。けれど山神には聞こえたらしい。
その細い目を大きく見開いて、山神が歪な笑みを浮かべてみせる。泣くのを我慢して笑っている。
その笑顔を見た弥兵衛は、今度は少年に聞こえる声で呟いた。
『また、あいにいく』
視界は段々と暗くなっていく。
そんな中、震える声が少年には聞こえた。
『……ああ。待ってる。待ってるよ。弥兵衛、ずっと ―― 』
ハッと少年の目が見開かれた。
呼吸が荒い。少年の視界にはあの暗さはなく、最近ようやく見慣れた木目の天井が広がるばかりだった。
左腕でゆっくりと上体を起こす。まだバクバクと、胸の奥が暴れていた。
「……いすけ」
その名は、少年でも聞いたことがある。
あの丘の ―― 境内の片隅に建てられている石碑に掘られている名前だ。
少年は読み書きができないのだが、それをバカにした異母兄が言っていたのだ。
『あのせきひにある名前はな、社殿をたてたときに一等がんばった者の名前が大きくほられてるんだ。お前には読めないからおしえてやるよ、あれは【伊介】って読むんだよ』
あの社殿を建てたときに一等貢献した伊介。
あの、恐怖の表情を浮かべて、弥兵衛を突き飛ばした者。
どうして弥兵衛が村の者たちから襲われたのか、どうして伊介が弥兵衛を突き飛ばしたのかは、少年には分からない。
調べようにも少年は読み書きができないし、いつの時代のことかすら分からないのだから。
けれど、山神は待っていたのだ。
あそこでずっと。約束通り、弥兵衛が来るのをずっと。
着物の合わせ目をぎゅうと握り込んだ少年は、呟いた。
「聞かなくちゃ」
聞かなくては。
どうして自分が、弥兵衛と山神の逢瀬を見れたのか。
どうして自分が、弥兵衛の最期を見れたのか。
言わなくては。
山神が隠したがっていたことを、夢の中とはいえ見てしまったのだと。
少年は立ち上がると、手早く身支度を済ませて老人を探し始めた。
ひとりで社殿がある山頂に向かってはならないと言われている。逸る気持ちを抑えながら、少年は行ける範囲で老人を探す。
けれどこの日、老人は少年の前に姿を現すことはなかった。
今日は異母兄弟たちのどちらかが当番の日だ。人手として駆り出されたのだろうか。
不安に苛まれながら少年はその一日をいつも通り過ごし、眠りについた。
―― 翌日に村長から呼び出され「本日からお勤めを始めてもらう」と言われるとは、露ほども思わずに。




