第6話
わあ、と少年は思わず声をあげた。
こんな視界いっぱいに広がる花々は夢以外で見たことはなく、この体で生まれて初めて見た美しい光景であった。
ちょうど少年と山神、老人がいる場所は花咲く丘に変わる前からある細い参道の上。
赤、桃、黄、紫、白、青、橙……と丘の上は色の洪水だ。そんな花々は我こそが美しく可憐であると花びらをめいっぱい開かせて、緑の葉とともに風に揺れている。
夢と違うのは、自分たちの存在と、社殿と、頭上にある鳥居の存在だけ。
「きれい、ねえ、きれいだね、爺や」
「そうじゃな……まさか、寝物語の光景をこの目で見れるとは思わなんだ」
やや興奮気味な少年と、やや唖然とした様子の老人を見て山神は口元に笑みを浮かべた。
「寝物語、寝物語ねぇ。何を聞いていたんだい。教えておくれ」
「……元よりこの場は、このように季節などないように咲く花々に満ちた丘であったこと。そして山神様がいらっしゃることです」
「そう、そうさな。お前さんたちの親、またその親、そしてそのまた親……と、いくつ前だったかは忘れたが、とにかくお前さんたちの先祖がこの社を建てる前まではこうだったよ。こうしていた」
「山神様の心の安寧を祈って建てたと聞いとります」
「はは、安寧、安寧ねぇ。あのときは他のことなどどうでも良くなっていたから、花を生み出すこともしなくなっていたな。それを憐れんだか、畏れたか、償いか。あれらが社を建て鏡を祀り、人の子を勝手に寄越してきたわけだが」
ふと、山神がわずかに顔を反らした。
背の低い少年の位置からでも被衣の下に隠れた山神の目元は暗く、なぜか見えない。
それでもなんとなく、少年は山神が遠いどこかを見ているように思えた。
「寄越された人の子らとの会話は僅かでしかないが、慰めにはなったね」
「そのお言葉、儂らの村長に伝えれば両手を挙げて喜ぶでしょう」
「どうだかねぇ。人とは、相容れぬものを怖れるものだから」
そう答えた山神の声色は淡々としたもので、何の感情も含まれていなかった。口元にさえそれは表れていない。
やがて山神は顔を少年へと向け、口元に笑みを浮かべる。
「花の中に入っていいよ。お前さんなら許そう」
「いいの?」
「いくつか持ち帰ってもいい。押し花にするのも良いだろう。この花の丘はお前さんたち以外には見せるつもりがないから。どうせ枯らすしな」
「こんなにきれいなのに?」
「綺麗だからさ。綺麗なものを欲する。綺麗なものは我が物としようとする。争いの元になるようなものは、あってはならん」
少年は何度か目を瞬かせるが、山神は「さあ」と少年の背を軽く押した。
押されるまま、少年は咲き乱れる花々の中に思わず足を踏み入れる。草履の下でくしゃりと潰れた音がした。
そろそろと少年が足を上げると、草履の下からは少年の足跡通り、花弁が散った花々が地に伏している。それを見て少年は眉尻を下げ、一歩下がって参道に戻った。
「どうした」
「ふんじゃった」
「どうせこのあと枯れる。それに、見たければもう一度咲かせれば良い話だ。いくら踏んでも良い」
「でも、山神さまがせっかく咲かせてくれたお花だから、大事にしたい」
かといってせっかく山神が許可してくれたのだから、と少年は考える。
視線を巡らせれば、参道沿いの花々も綺麗で、たくさんの色や形をした花に触れることができそうだった。少年はひとつ頷くと、参道を歩き始めた。
山神もそれ以上は何も言わず、ただじっと、少年が花を探す後ろ姿を見つめる。それは老人も同じだった。
「……なあ、爺やとやら」
「へえ」
「その寝物語とやらは、あの子は知ってるのかい」
「……いいえ。おそらく知らんでしょう。あの子は生まれながら必要最低限なものしか与えられませんでしたから」
「そうかい。ところで、爺や」
「へえ」
「弥兵衛という男を知っているかい」
柔らかな風が吹いて、山神や老人の着物の裾、少し離れた場所で花を吟味している少年の腕がない方の右袖が揺れる。
山神と老人の間にしばらく静かな時間が流れた。鳥の鳴き声がどこかから響いている。
やがて老人はゆっくりと口を開くと、震えた声で答えた。
「……知っとります。戦に出て、かたわになって ―― 」
「村の連中に殺されたな。不敬だと」
「……へえ」
「爺やは弥兵衛の縁者の子孫か。だから、お前さんたちは名を与えられていないし、連中を呼ぶことも許されていないのだな」
「ご存知で」
「みていたもの。ずっと。ずぅっと。今代の長が愚かで良かったというべきか、おかげで私はあの子に出会えたけれども」
山神の声色は低く、感情は平坦だった。
怒りも悲しみもないその声色を聞いた老人はぞわりと背筋を震わせる。
この場の空気ですら、こんな暖かで美しい光景が周りにあるにも関わらずキンと冷えたように感じるのは気の所為ではないだろう。
「山神さま!」
しかしその空気は少年の一声で、霧散した。
「どうした」
「このお花もらってもいいですか?」
こちらの声が聞こえないだろう、やや離れた場所で少年が花を指さしている。
山神は「どれでも良いと言っているのに」と口元に笑みを浮かべながら、ゆっくりと少年のもとへふわりと移動していく。
その背を見送りながら、老人は小さく、細く息を吸って、吐いた。
そして改めて、花の前でやり取りをしているふたりを眺める。
山神の被布の着物と同じ色合いの橙色の花を選び、左手で摘み取って無邪気に「押し花にする」と笑う少年。
「やり方を知っているのか」と山神に聞かれ「知らない」ときょとんと答えた少年に、山神は優しく押し花の作り方を教えている。
その光景を、老人はじっと目に焼き付けていた。




