第5話
翌日、少年の謹慎が解かれた。
今日からまたあのあばら小屋で寝起きするのかと少し落胆した少年だったが、山神への奉公に出るまでの間は、軟禁されていたこの離れを引き続き使って良いとの通達があり、少年は目を丸くした。
付き人は老人だけに戻った。
ふたりでこっそり、あばら小屋を見てみたが、あばら小屋は何があったのか取り壊されていた。
少年が長らく住んでいた住処は、あっさりと潰れてしまっていて、暮らしていた名残りなどどこにも見当たらない。
「……ちょっとさびしいね」
「あそこはかなり居心地が悪かったろうに」
「それでも、ずっと住んでたところだもの。無くなるのはさびしいよ」
名残惜しげに少年は少しの間、あばら小屋だったものを眺めていた。
やがて整理がついたのか「行こうか」と老人に声をかけて、踵を返す。
少年は振り返ることなく、老人を連れてその場から去っていった。
そして少年が座敷牢という名の離れに軟禁されている間、異母兄弟は真面目に当番をこなしていたかというと、そうではなかったらしい。
「何を考えとるんじゃ、あやつらは」
軟禁が明けて当番の日、老人は境内でブツブツと文句を言いながら箒を持ち、少年は社殿の中で黙々と汚れた床を掃除していた。
社殿や境内の中が掃除されていなかったのである。
当番は神饌を運ぶほかに、境内や社殿内を掃除することも作業のひとつとして含まれていた。
境内の掃除は付き人に任せて良いが、社殿内は当番の子どもがすることになっていたのだ。
上手にできなくても良いから、その日当番となった子どもが掃除をすることと少年らは村長にキツく言いつけられていたのだが、異母兄弟たちはそれをしなかったらしい。
いつから。
いや、最初からかもしれない、と少年はため息を吐いた。
おそらく土足で上がったのだろう。
土汚れがこびりついていた部分を、膝をついて濡れ布巾でこすり落としていると、ふと視界の端にきらりと輝くものが入り込んだ。
そちらへ視線を向ければ、御神体である鏡。
陽の光が入ったかと少年は屋内を見渡した。
この社殿には窓がない。それゆえに換気のため、正面の引き戸は開け放たれている。
だが、陽の光はどちらかというと真上から差し始めていて、屋内を直接照らすような位置ではなかった。
もう一度、少年は鏡に目をやって「うわっ」と思わず悲鳴を上げた。どてんと床に尻もちをつく。
少年の声と物音に気づいたのだろう「どうした」と老人が社殿の階段下から声をかけたが、中が見えたのか「は?」と小さな声を漏らした。
ふたりが驚くのも無理はない。鏡から女の手が出ていたのである。
たおやかなその手は汚れを知らないのか白く、手首から一尺ほど鏡から出ていた。
それがゆらり、ゆらりと揺れている。まるで、手招いているかのように。
「……爺や」
「……山神様が、お招きされておる。もしくは、こちらへと来られようとしているのか」
「こっちに?」
少年の問いに、老人はゆるゆると首を横に振った。
「儂ごときが、山神様のお心を察することはできんし、お声がけすることも許されん。お前さんが聞くんじゃ。今年のお役目であるお前さんなら、許される」
やや悲しげな老人の声色に内心首を傾げながらも、少年は頷いた。
尻もちをついていた状態から立ち上がって、鏡へと近づく。
近くでよく見れば、鏡から伸びているのは左手のようだった。
少年は小さく喉を鳴らして生唾を飲み込むと「山神さま」と声をかけた。
すると、手招くような動きをしていた手がひらりと横に揺れる。
聞こえている、ということなのだろうと理解した少年は続けた。
「はいであれば縦に、いいえであれば横に手をふってください」
ひらり、と縦に手が揺れた。
「僕を、呼んでいるのですか」
縦に揺れる。
「僕が、そちらにおうかがいすれば良いのですか」
横に揺れる。
「……ええと、僕と話したい?」
縦に揺れる。
それらの反応を見た少年は困ってしまった。
どうやら山神は少年と話をしたいようである。
だが、少年が山神がいるであろう鏡の向こうに入るという話ではないらしい。
しかし、このままでは山神は言葉を話すことすらできないだろう。
少年は困り果て、老人へと振り返った。
開け放たれた引き戸の向こう、相変わらず社殿の階段下にいた老人は少年の困惑が分かったらしい。
「山神様。発言を、お許し願えますか」
手が縦に揺れた。
少年がそれを見て老人に頷いて見せると、老人は少年に向かって告げる。
「言っただろう。お招きされておるか、もしくは、こちらへと来られようとしているのか」
「……あ、こっちに来たい?」
老人の助言に少年が思いつくままに呟けば、手は縦に揺れた。
なるほど、少年は思う。それなら手を引っ張れば良いのか。
「山神さま、ひっぱってもよいですか?」
手が縦に揺れる。
少年はおそるおそる、ゆっくりと山神の手に触れた。
夢では分からなかったが、温かく、柔らかく、強く握れば壊れてしまいそうという印象である。
少年は山神の手を握り、ゆっくりと体ごと後ろに下がっていく。
ずるりと、山神の腕が伸びた。
やがて着物が現れ、どこがどうなってかは少年の目では分からなかったが、夢で見ていた山神が鏡からずるんと出て、少しふわりと浮いた。素足の彼女の足は地面につかない。
重さは一切感じなかった。まるで、地面にあった鳥の羽根を持ったときのようだった。
被衣の山神が、唯一見える口元で笑みを浮かべる。
「お前さんだったからというのもあったが、まともな供物が久々でな。つい出てきてしまった」
「ひさびさ?」
「知らんのか。あの小僧どもは、外の大人を欺こうとここに置く振りをして食ろうていたよ」
「なんと……」
思わず呻くように声をあげた老人だったが、ハッと我に返って山神に頭を下げる。
山神はそれを咎めず「いまはよい」と答えるに留め、おもむろに少年の頭を撫でた。
温かく、柔らかな手つきで撫でられた少年はパチリと瞬きをして、それからほんのりと耳を赤く染めた。
こうやって、人に頭を撫でられたのは初めてだったから。
「もうじきお前さんもこちらに来るとは分かっていたんだがなぁ。少し、見せてやりたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
「ああ。そこの爺やはお前さんにとって許せる大人のようだし、同席を許そう」
床に足を着けないままふわりと浮かび、まるで雲のようにふわふわと移動し始めた山神が社殿を出る。
思わず少年は老人を見たが、老人は頷いて見せただけだ。つまり、ついて行けということなのだろう。
少年は社殿を出て引き戸をきっちり閉めた。
小さな階段を降りて草履を履き、鳥居の下で待っている山神のもとへ駆け寄る。老人もゆっくりとその後を追って山神のもとへ。
自分のもとに来たふたりを見て山神が、ふと笑う。
「なぁに、ここからは出ないさ。見せたいものはここにあるから」
そう告げるとともに、山神は被衣の下から両手を体の前に出すと、パンと大きく一拍した。
その瞬間、少年の顔に目も開けられないほどの強い風が吹き付ける。思わず目を閉じた少年だったが、風が弱まった頃、ふといろんな花の香りが鼻をくすぐった。
おそるおそる目を開けると ―― あの、夢で見た花咲く丘が目の前に広がっていたのである。




