最終話(前編)
美女が去った境内は、元の様相に戻っていた。
この場で異質なのは山神だけと言っても過言ではない。
山神はその場からふわりと浮かび、社殿へと移動した。
社殿の扉前には未だに動かない異母兄がいる。そんな彼の顔に山神が手を伸ばしたかと思うと、そっと撫でつけた。
「……死んじまったんですか」
「そうさね。ななつまでは人の子はすべからく我らの子ではあるが、我らをその身に宿すことはできないんだよ。そもそも、器たる身が弱すぎるから」
男の問いに淡々と答えた山神の言葉に、少年は目を見開いた。
死んだ。あの異母兄が、死んだ。
ああ、ということは。
「……爺やは、やっぱり」
声が震えていた。否定してほしかった。理解したくなかったから、少年は山神と男を交互に見つめる。
山神はただじっと少年を見つめていて、男は悲しそうに目を閉じた。
―― それだけで、老人がどうなったのか、少年は改めて理解してしまった。
(ああ ――)
老人は少年が生きてきた中で唯一、付き添ってくれた大人だった。
甘やかしてくれたわけじゃない。叱責も受けた。罵倒もされた。
でもそれらは、少年を守るためにわざとやっていたことだった。
最近、老人が付き人として一緒にいてくれたからか、老人も普段からの雰囲気が柔らかくなっていた。
もう少し仲良くなれると、思っていたのに。
俯く少年に、男は手を伸ばしてその背をそっと撫でる。
「さて。お前さんを “あちら” に連れていきたいところだが、鏡をどうにかしないとなぁ」
空気を切り替えるように、山神が声を上げた。
山神が右手の人差し指をスッと下から上へ切るように上げると、廊下で砕け散った鏡が破片とともにふわりと浮かぶ。
「私は花でも移動できるが、お前さんはそうはいかない。やはり鏡がないと行けないな」
「……じゃあ、僕は村に?」
「いや、お前さんは戻らなくて良い……が、寝泊まりはここになるな」
「何か布団と食い物を持ってきましょうか」
「そうしてくれるとありがたいな」
「分かりました」
ひとまず、この社殿で待っていればいいらしい。
男の申し出に頷いた山神は「さて」と呟いて明後日の方向を見つめた。
なんだろうと少年と男が首を傾げると、左の手のひらを突き出した。
―― 遠くの方から悲鳴が聞こえて、それに驚いた鳥たちが一斉に山から飛び立っていく。
その方角について心当たりがあったのか、男が「あっ」と声を上げた。
「そうだ、あいつら」
「お前さんらのような頑丈な奴らが選ばれていて良かったよ。お前さんの仲間は怪我こそしてるが、全員無事だ」
「良かっ……え? 俺の仲間《《は》》……?」
男は一瞬喜んだ表情を浮かべたが、山神の言葉の意図に気づいたようで次の瞬間には顔を引きつらせた。
被布の下に見える山神の口元が弧を描く。
「私の世話を務める者の行く手を邪魔した者らだからなぁ。まあ、この子はちゃんと私の下まで来たから、そいつらは《《どうなっても》》私は気にしないよ」
「……ありがとうございます」
「この鏡を村の長に渡しておくれ。新しいのを用意してくれるはずだ」
割れた鏡の破片は、少年が押し花を包んでいた布に包まれて、鏡の本体とともに男の手に渡った。
男は「必ずお伝えします」と山神に向かって一礼すると、山道を下っていった。
それを見送った少年は、山神を見上げる。
「山神様」
「うん?」
「……あの、僕、この前夢で山神様の顔を見てしまいました。隠していたのに、ごめんなさい」
ぺこり、と少年は頭を下げた。夢を見たときからずっと伝えたかったことだ。
山神は一度も少年の前で頭から被った被布の小袖を外したことはない。
背が低い少年から見ても山神の口元以外は暗くて見えず、彼女の全貌を見たことがなかった。
けれど、夢で。
弥兵衛のときに少年は見てしまった。彼女が隠していたことを。
頭を下げたまま、少年は山神の言葉を待つ。
ややしてから「顔を上げて。言葉も気にせんでよい」と声がかかったので、そろそろと少年は頭を上げた。
そして目を丸くする。
「怖かろう。このような見目の女など」
被布は頭から被ったままだった。
けれど、口元以外は不自然に暗くてよく見えなかった顔がいま、はっきりと見える。
夢と同じだった。
細く、腫れぼったい目元。かぎ鼻。下ぶくれの頬にそばかす。
少年は何度か目を瞬かせてから、ない右腕を振るかのように、右袖を揺らして笑う。
「僕も腕がひとつないよ。こわい?」
山神も何度か目を瞬かせて、それからゆっくりと首を横に振った。
「……怖くないよ。怖いものか」
「じゃあ僕もこわくないよ」
「どんな理屈よ」
ふふ、と山神は笑う。
少年も笑みを浮かべた。
新しい鏡が届くのは2日後になる、という情報を持ってきてくれたのは、少年を山神の下まで送り届けようと輿を担いだ男たちだった。
山道の途中で暴徒を食い止めていた男たちは、多少なりとも怪我をしてしまっていたが動くのに支障はないらしい。
寝泊まり用の布団や食事を社殿に運んできた男たちは、少年の隣にいた山神に頭を下げるとすぐに下山していく。
もう少し喋っていたかったが「お前さんはお役目があるだろう」「また明日」と手を振って去っていった。
夜の帳が降りて、ほぅ、ほぅ、と梟が鳴く声が響く。
「弥兵衛の夢を、ずっと見ていたの」
社殿の床に敷かれた布団に入り、寝転がりながら少年はそう言った。
山神は少年の傍に座っている。被布は頭から取り外され、彼女の膝の上に畳まれていた。
窓がないため、明かり採りのために社殿正面の引き戸が開けられている。
今日は満月だからか、柔らかな月の光が少しだけ社殿の中に差し込んでいた。
山神はその月の光を背にしている。
「僕が弥兵衛の目を借りて、見ていたの」
「そりゃあ、お前さんは弥兵衛の生まれ変わりだからな。あれの記憶も見ることもあるだろう」
「そうなの?」
「そうだよ。だから待ちきれずに呼んでしまった」
そう、苦笑いを浮かべる山神に「なるほど」と少年は思った。
いつだったか「お前さんが来ないから、呼んでしまった」と山神が言ったことがある。
ちょうど、座敷牢に謹慎していた頃だったから少年は “社殿に行けなかったから” と思っていたが、山神は夢であれ現実であれ、こうやって少年と話したかったのだろう。
「また会いに行くって、約束してたもんね」
「そうだよ。だから待ってた。……でもお前さんはお前さんだよ。弥兵衛じゃない」
弥兵衛の生まれ変わりだからといって、山神は少年に “弥兵衛” を押し付けるつもりはないようだった。
寝転び、山神を見上げる少年の左手を山神は優しく握る。
「私がなんの神なのか、お前さんは気にしないのかい?」
「? 山神様は山神様じゃないの?」
「父が山の神であるがゆえに、私にも山の権能はあるがな。本来は寿命だよ。人であれ草花であれ動物であれ、私はいま生きているものたちの寿命を長らえさせることができる」
例えば、地上にいる蝉は7日ほどで命が尽きる。
山神が加護を与えれば蝉は7日を越えて生きることができるらしい。
飢えや寒さ、暑さにすら強く、滅多なことでは死なぬ存在になると。
「すごく長生きになるってこと?」
「そうだよ。それに、よほどのことがなければ死ななくなる」
「すごいね」
「……どうだろうね」
ふ、と苦笑いを浮かべた山神は視線を外へと向けた。
さあ、と柔らかな風が木々を揺らし、葉が擦れる音が社殿の中に響く。
それをじっと見つめていた少年は、山神の手を握り返した。山神がゆっくりと少年へと振り返る。
「ねえ、山神様」
「うん?」
「僕は、山神様の “つま” になれるの?」
山神は目を瞬かせた。
少年はじっと山神を見つめている。
「なれる、が……弥兵衛のことや妹の言ったことを気にしているなら、気にせんでもいいよ」
「ううん。できるなら、僕がなりたいなって思って」
「お前さんが?」
「たしかに僕はあの弥兵衛じゃないけど、ちょっと弥兵衛がうらやましかったんだよ。だって、山神様と楽しそうにお話してるんだもの。僕だってたくさん、お話したい」
「これからはたくさん話せるよ」
「でも、年明けまででしょう? ……やだなぁ。僕、もっとたくさん山神様の傍にいたい」
夜も遅い。眠気が襲ってきた少年の瞼が、とろとろと閉じていく。
まだ。もう少し。
そう、重たい瞼を何度も開ける少年の目元にそっと温かい手が添えられた。
「明日も話せるよ。今日はもうおやすみ」
「……起きても、いる?」
「いるよ」
「やったぁ……じゃあ、山神様と、お散歩もしたいなぁ」
「いいよ。明日は散歩もしよう」
「うん……おやすみなさい」
「おやすみ」
山神の優しい声を聞いて、少年は目を閉じた。
手は繋がれたまま。温かいその手に縋るように顔を寄せながら、少年は眠りにつく。




