第12話
少年のすぐ近くから、聞き慣れた声が聞こえた。
それから次の瞬間には異母兄らしき者の周囲から突然何かのツタが勢いよく伸びて、彼の腕と足、それから口元に巻き付く。
巻き付いたツタは、空に向かって上げられていた彼の右腕を強制的に地面に向けさせ、扉前の床に膝をつかせるほどに力強い。
隣で起きた異常に、さすがに異母弟も我に返ったのだろう。怯えた表情を見せて数歩、彼から後ずさった。
「鏡を穢したのになんで “こちら” に来れたのかって顔だな」
どこからか、近い場所から声がすることに困惑する少年と男の目の前で、少年の懐から勝手に包みがこぼれ落ちる。
すると包みの布の隙間からズルリと手が伸びた。その事態に仰天した男が少年を自分の背中に隠す。
だが少年は理解していた。あの手は一度見ている。
だから少年は男の着物の裾を引っ張り「大丈夫です」と告げた。
布が捲れて、橙色の押し花が現れる。そこから手は伸びていて、やがては少年が見慣れた被布の橙色が現れた。
そうしてその場にふわりと浮いて現れたのは、山神である。
山神を恨みがましく睨みつける異母兄だった者は、まるで獣のような唸り声を上げている。
足元から押し花を拾い上げ、山神はあからさまに異母兄だった者を鼻で嗤った。
「あの子からだいぶ力を封印されているというのに、ここら一帯を潰すだなんてまあ、ずいぶんな大見得を切ったものだな」
異母兄だった者は唸る。
何かを言いたそうにしているが、口元を塞ぐツタは外れる様子はない。
「お前さんは私が “こちら” に来れないように鏡を穢して道を潰したが、それだけじゃあ足りなかったなぁ。潰すなら、”こちら” にある私の花もすべて潰さなければ。ずいぶんと侮られたものだ」
は、と少年は気づいた。
そうだ。少年が懐に入れていた、大事に包んでいた押し花は山神が見せてくれた花の丘から作ったものだ。
つまり、この押し花は山神のものであったがゆえに、彼女と繋がっていた。
良かったと少年は心の底から安堵した。
山神に渡すために丁寧に作ったこの押し花が、この状況をひっくり返してくれたのだ。山神がこちらに来る方法が「鏡」という媒体に固定されていたのであれば、こうはいかなかっただろう。
おそるおそる、男の背から少年は歩み出る。異母兄だった者は暴れているが、抜け出すことはできないようだ。
はあ、と盛大に山神がため息を吐いて、男へと振り返る。
被布の下から見える口元は笑みを浮かべていた。
「この子を守ってくれただろう。ありがとう」
「い、いえ! 当然のことです」
「当然か、そうか」
「山神様」
不安げな少年の声色に山神は手を伸ばし、ポンと少年の頭を撫でる。
「大丈夫だよ。もうすぐ《《あれ》》を引き取ってくれるのが来るから」
「あれって」
異母兄を乗っ取っている奴のことだろうか。
しかし、少年のその言葉は続かなかった。呆気に取られたからだ。それは男も同様だった。
遠くの方から山々から、まるでこちらに向かうように花の絨毯が広がってきた。一定の距離が花になると、元の山に戻っていく。
そうしてその花の絨毯は少年たちがいる境内を覆っていく。以前、山神が少年と老人に見せてくれたような花の丘のようだが、それよりも色の種類が多い気がした。
すると、この光景を見た異母兄の体が震えた。苦しそうな唸り声とともに、身を捩り何かから逃れようとしている。
しかしツタはギシギシと鳴るものの外れる気配はない。
ふと、山神が空を仰ぎ見た。
「管理くらいしておいてくれよ」
少年と男も空を見上げる。
山神が見上げていた方向には、春らしい桜の意匠が施された桜色の小袖に、萌黄色で雲取りに裾に草花があしらわれた打ち掛けを羽織った女性が、浮いていた。
目鼻立ちは整っており、薄っすらと施された化粧が彼女の美を際立たせている。誰も彼もが美人と彼女を称賛するだろう。事実、男はぽっと頬を赤らめていた。
「ごめんなさぁい、あね様」
ふわりと地面に降り立った美女の足元からさらに一気に花が咲き誇る。足元は砂や土だけしかなかったはずだが、まるでそこだけ春になったかのようだった。
彼女が動けば、何かしらの花の香りがふわりと鼻をくすぐる。
そんな彼女は、困ったように頬に右手を添えた。
「いつのまにか抜け出しちゃっててぇ。手助けした者にはちゃんと仕置きしたわ」
「それのせいで私が庇護する子らが怪我するところだったんだ。ちゃんとしておくれよ。私はこいつの顔なんか二度と見たくなかったんだから」
「そうよねぇ、分かってるわ。だから抜け出せないようにしてたのに」
異母兄だった者はもはや震えるばかりで俯き、動かなくなっていた。
そんな彼の様子に悩ましげにため息を吐いた美女ではあったが、やがて少年に気づくと花咲くようににこりと微笑んだ。
「君が、あね様の “つま” になる子?」
「えっ」
「ちょっと」
「違わないでしょう? あね様とこの子の縁がしっかりと繋がっているもの。強い子ねぇ。普通、塗り潰されるのに君は君のままだわ」
美女は手を伸ばし、少年の左手をとる。その手は美しかった。まるでキラキラと白く輝いている。
「あね様のこと、よろしくね。さぁて、そろそろ連れて行かなくちゃ」
それだけ告げてするりと離れた美女は、すぅっと異母兄だった者の傍へと浮いて近づいた。
異母兄から数歩離れた場所で、穢れた鏡を抱えて怯える異母弟を見て、美女は困ったように笑いながら山神へと振り返った。
「この子、壊れちゃうんじゃない?」
「自業自得だろう」
「あね様ってば容赦がないわね〜」
淡々と返した山神に肩を竦めながらも、美女はそう答えると何かを手繰るように手を動かした。
すると異母兄の体からずるりと、半透明のひとりの男が現れる。
凛々しい男であった。
筋骨あり、凛々しい眉もある。目元は涼しく、口元には整えられた髭があった。美女が武家の奥方のような格好に対して、この凛々しい男はまるでどこかの神社にいる神主かのように狩衣を着ていた。
神主と異なるのは頭に衣冠がないだけだ。前髪を後ろに撫でつけ、頭の後ろで引き結んでいる。髪はあまり切っていないのか、その結んでいる状態でも肩に届くほどの長さであった。
凛々しい男が完全に異母兄の体から抜けると、ごとりと音を立てて異母兄はその場に倒れ込んだ。
それはもう、ピクリとも動かない。
少年たちからは異母兄の表情は見えなかったが、異母弟には見えたのだろう。
悲鳴をあげて、鏡を放り投げてその場から逃げ出した。ガシャンと鏡が割れる音が響く。
この境内の出入り口に相当する鳥居の下には山神と少年たちがいたからだろう。道なき道へと突っ込み、やがて少年たちの前から消えていった。
その挙動で異母兄がいまどんな状態なのか、少年と男は察してしまった。
だが美女や山神は気にもとめず、何事もなかったかのように会話を続けていく。
「じゃあ行くわ」
「達者でな」
「たまには出雲にいらっしゃいな。このひとをふん縛って行かせないようにするから。本当、やぁね。わたくしの貞操を疑ったり、いまさらあね様を追いかけたり」
「誰がこんな醜女のことなッ、ぅガッ!」
ドゴッと無事ならぬ音が響いた。
凛々しい男の脳天に拳を叩き落としたのは美女である。
彼は目を白黒させ、目を閉じてその激痛に耐えるかのように顔を顰めた。
そんな彼の様子に、山神はため息を吐くとともに美女へと顔を向けた。
「どうにかしておくれよ。お前さんの夫だろう」
「そうね。こんなのでもわたくしの夫だわ」
「……出雲は考えておく」
「ふふ、楽しみにしているわ」
美女がふわりと浮き上がる。同時に、まるで見えない何かに縛られたままの凛々しい男も浮いた。
彼女がひらひらと下にいるみんなに手を振ってくれたので、少年もおずおずと手を振り返した。男は彼女に向かってゆっくりと頭を下げている。
山神は、彼女らふたりが空の彼方まで去っていくまでじっとその姿を見つめていた。




