9. 目覚めの朝、父の沈黙
暗闇の底に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
深い水の中から誰かに手を引かれ、遥か遠くに揺らめく水面へ近付いていくような感覚だった。初めは何も聞こえなかったが、やがて風が窓を揺らす微かな音や、庭先から届く鳥の鳴き声が、厚い膜を一枚ずつ破るように耳へ入り込んでくる。
重く閉じていた瞼を持ち上げると、ぼやけた視界の中に、見慣れた木組みの天井が浮かび上がった。
長い年月を経て黒ずんだ太い梁と、板壁に刻まれた細かな傷。半ば開けられた窓からは柔らかな朝の光が差し込み、室内を淡い色に染めている。幼い頃、熱を出した時にも、剣の鍛錬で身体を痛めた時にも、寝台の上から何度となく眺めてきた自室の景色だった。
その光景をしばらく見つめてから、ミカヅキはようやく、自分が生きて村へ戻ってきたことを理解した。
「……あれ」
声を出そうとすると、乾き切った喉から掠れた音しか出てこない。身体を起こそうと寝台へ手をついた瞬間、胸から腕、腰、脚に至るまで、全身を鈍い痛みが駆け抜けた。
「っつ……!」
思わず息を詰め、起こしかけた身体を再び寝台へ沈める。
どこか一か所を負傷しているという程度ではなかった。身体中の骨と筋肉が軋み、少し指先を動かしただけでも、忘れていた痛みが目を覚ます。まるで何十人もの人間に棒で殴られた後のような有様だった。
なぜ、これほど傷だらけになったのか。
霞んでいた記憶が、痛みに刺激されるように少しずつ蘇ってくる。
村人が襲われたという知らせを受け、アカリとカナメとともに向かった北の森。不自然なほど静まり返った木々の奥で見つけた、血に濡れた荷車と巨大な爪痕。
そして、闇の中から姿を現した無数の瞳を持つ異形――禍根蛇。
人の刃を寄せ付けない黒い鱗。どれほど傷付けても瞬く間に再生する肉体。アカリとカナメが倒され、自分の剣すら何一つ通じなかった絶望。
最後に思い出したのは、手にしていた古びた太刀から溢れ出した蒼白い光だった。
「そうだ……あの刀……」
意識を失う直前、自分は確かに禍根蛇へ刃を振るった。
だが、そこから先の記憶は、深い霧に覆われているように曖昧だった。禍根蛇を斬った手応えも、森を白く染めた光も、現実に起きた出来事というより、長い夢の中で見た光景のように思える。
記憶を辿ろうとした、その時だった。
部屋の戸が勢いよく開かれ、廊下から慌ただしい足音が飛び込んでくる。
「ミカ兄!」
大きな瞳いっぱいに涙を溜めたカナメが、ミカヅキの姿を確認するなり寝台へ駆け寄ってきた。
「お、おい――」
止める暇もない。
次の瞬間、カナメは勢いのままミカヅキの身体へ抱きついていた。
「よかったぁ……! 本当に、よかった……!」
「いたっ、痛い! カナメ、今の俺にそれはかなり痛い!」
「あっ、ご、ごめん!」
悲鳴を上げるミカヅキに気付き、カナメは慌てて身体を離した。けれど、目尻には今にも零れ落ちそうな涙が残り、笑おうとしている口元も小さく震えている。
そんな彼女の顔を見ていると、痛みへの文句を続ける気にはなれなかった。
「そんなに心配したのか?」
「当たり前でしょ! ミカ兄、全然目を覚まさないし、呼んでも返事しないし……このまま起きなかったらどうしようって……」
声を詰まらせたカナメは、涙を見られまいとするように乱暴に目元を拭った。
その姿を目にして、ミカヅキの胸へ、ようやく生きて帰ってきたという実感が広がっていく。痛みも、乾いた喉も、今はその事実を確かめるものに思えた。
「心配掛けたな」
「本当だよ。帰ってきてからずっと寝てたんだから」
「ずっとって、どれくらいだ?」
「三日」
入口から聞こえた落ち着いた声に、ミカヅキは目を丸くした。
そこにはアカリが立っていた。
いつものように背筋を伸ばし、隙のない足取りで室内へ入ってくる。腕や額には白い包帯が巻かれていたが、歩く様子を見る限り、命に関わるような傷ではないらしい。
表情も普段と変わらず冷静に見える。
しかし、寝台の上で目を覚ましているミカヅキを見つめる瞳には、隠し切れない安堵が滲んでいた。
「三日って……俺、そんなに寝てたのか?」
「ああ。森から運び出されて以来、一度も目を覚まさなかった」
「そうなの! お医者さんも、傷は塞がり始めてるのに目を覚まさない理由が分からないって言うし、アカリ姉はずっと怖い顔で部屋の前をうろうろしてるし――」
「おい」
背後から飛んできた低い声に、カナメの肩が跳ねた。
アカリは笑っていなかった。
「誰が怖い顔でうろうろしていた?」
「アカリ姉」
「していない」
「してたよ。何度も部屋を覗いてた」
「容体を確認していただけです」
「夜もずっと起きてたよね?」
「警戒していただけだ」
「何を?」
「……何かをだ」
珍しく歯切れの悪い姉の返答に、カナメがにやりと笑う。
「やっぱり心配してたんじゃん」
「していない」
「してた」
「していない」
同じ言葉を繰り返す姉妹を見ているうちに、ミカヅキの口から自然と笑いが漏れた。
「ははっ……相変わらずだな、二人とも」
その笑い声を聞いたアカリは、僅かに眉を寄せたものの、張り詰めていた肩からはゆっくりと力が抜けていった。
「笑う余裕があるなら、ひとまず問題はなさそうですね」
「やっぱり心配してくれてたんだろ?」
「していません」
「今の顔で言っても説得力ないぞ」
「普段通りの顔です」
「アカリ姉、昨日なんて――」
「カナメ」
「はい」
静かながら逃げ道を許さない声に、カナメは背筋を伸ばして一瞬で黙り込んだ。
その様子がおかしくて、ミカヅキは再び笑いかけたが、身体へ痛みが走り、すぐに顔をしかめる。
「無理に動くな」
アカリは寝台の脇に置かれていた椅子へ腰を下ろし、ミカヅキの包帯へ視線を落とした。
「村の医者も驚いていました。負っていた傷だけを見れば、普通なら半月は寝台から動けない状態だったそうです」
「半月……」
「骨にもひびが入っていた。内臓にも多少の損傷があったはずですが、不思議なことに、村へ戻った時にはすでに回復が始まっていた」
そう言われ、ミカヅキは改めて自分の身体を見下ろした。
胸から腹にかけて何重にも包帯が巻かれ、両腕や脚にも白い布が見える。今は鈍い痛みで済んでいるものの、禍津蛇に吹き飛ばされた直後は、息をすることさえできなかった。
あの戦いが、訓練やこれまでの討伐とは比べ物にならないほど危険なものだったのだと、今になって実感する。
「そういえば……」
胸の奥に生まれた疑問を確かめるため、ミカヅキは二人へ視線を向けた。
「禍根蛇は、どうなった?」
その一言で、部屋の空気が僅かに変わった。
カナメはアカリを見上げ、アカリも一度だけ妹へ目を向ける。やがて彼女は、どこか誇らしげな微笑を浮かべながら答えた。
「倒した」
「アカリさんが?」
「違う。お前が倒したんだ、ミカヅキ」
そう言われても、すぐには言葉が出なかった。
確かに太刀を振るった記憶はある。禍根蛇の硬い鱗を斬り裂いた感触も、どこか遠い場所に残っている。
だが、自分があの怪物を倒したという実感はなかった。剣を振るっていたのは自分でありながら、同時に、別の何かに身体を導かれていたようにも感じられた。
「本当に、俺が……」
「そうだよ!」
カナメが興奮を抑え切れない様子で、寝台へ身を乗り出す。
「すごかったんだから! あれだけ硬かった鱗を一撃で斬って、最後なんて森全部が真っ白になるくらい光って……村へ帰ってからも、みんなミカ兄の話ばっかりしてるよ!」
「村中に知られてるのか?」
「もちろん。木こりのおじさんたちを襲った大妖を、神の器が倒したんだから」
カナメは自分のことのように胸を張り、満面の笑みを浮かべた。
「武神様が目覚めたって、大騒ぎなんだから!」
その言葉を耳にした瞬間、ミカヅキの胸に小さな引っ掛かりが生まれた。
「……武神?」
「タケミカヅチ様だよ!」
予想通りの名が返ってきた。
森で本来の姿を現した神剣は、布都御魂と呼ばれるものだった。武神タケミカヅチが振るったと伝えられる神代の剣。その聖遺物を携え、神威まで目覚めさせたのだから、ミカヅキがタケミカヅチの器だと考えるのは当然なのだろう。
それでも、何かがおかしい。
禍津蛇が布都御魂を見た時の恐怖は、単に強大な神剣を目にしたためだけのものには思えなかった。
異形の無数の瞳は、刀ではなくミカヅキ自身の奥深くを見ていた。そこにいるはずの別の誰かを恐れ、あり得ないものが目覚めたかのように後退していた。
そして最期には――封じられたはずだと口にしていた。
「どうしたの、ミカ兄?」
「いや……何でもない」
違和感を言葉にできず、ミカヅキは曖昧に首を振った。
その時、廊下から静かな足音が近付いてきた。
戸が開く前から、誰が来たのかは分かっていた。重く一定の歩調は、幼い頃から何度も聞いてきたものだった。
「起きたか」
低く落ち着いた声とともに、サキヒトが部屋へ入ってくる。
無精髭の浮いた顔も、相手を見透かすような鋭い眼差しも、いつもと変わらない。だが、ミカヅキは父の姿を見た瞬間、普段とは僅かに異なるものを感じた。
目の下には薄い隈があり、顔にも隠し切れない疲労が浮かんでいる。
まるで、この三日間ほとんど眠っていなかったかのようだった。
「親父」
「死にかけたそうだな」
開口一番に投げ掛けられたのは、見舞いの言葉とは思えないものだった。
「いや、まあ……結果だけ見れば、そうかもしれないけど」
「馬鹿者」
サキヒトは短く言い捨てる。
厳しい声ではあったが、そこに宿っているのが怒りだけではないことを、ミカヅキは知っていた。普段より僅かに低く掠れた声には、無事に目を覚ましたことへの安堵が滲んでいる。
昔からこの男は、心配している時ほど不機嫌そうな顔をするのだ。
「悪かったよ」
「本当にそう思っているなら、次は無事に帰ってこい」
「善処します」
「善処ではない。必ずだ」
間髪を入れず返され、アカリとカナメが小さく笑った。
サキヒトは二人の反応を気にする様子もなく、寝台へ近付いてくる。だが、枕元まで来たところで、その足が僅かに止まった。
視線の先にあったのは、壁へ立て掛けられた一振りの太刀だった。
森で目覚めた後も元の古びた姿には戻らず、白銀の刀身を鞘へ収めた布都御魂が、朝の光を受けて静かに佇んでいる。
その刀を目にした瞬間、サキヒトの表情が曇った。
ほんの僅かな変化だった。
眉間へ薄く皺が寄り、鋭い瞳の奥を、驚きとも警戒ともつかない感情がよぎる。すぐに普段通りの無愛想な顔へ戻ったが、ミカヅキはその一瞬を見逃さなかった。
「親父?」
「……何だ」
「今、その刀を見て何か――」
「何でもない」
答えはあまりにも早かった。
サキヒトは布都御魂から視線を外し、窓際へ歩み寄る。
「村長たちも、お前の目覚めを喜んでいた。神の器が覚醒したとなれば、村にとっても大事だからな」
「武神の器、だろ?」
「ああ。皆はそう考えている」
どこか他人事のような、僅かに皮肉を含んだ言い方だった。
胸に抱えていた違和感を刺激され、ミカヅキは父の横顔を見つめる。
「親父は違うと思うのか?」
問い掛けても、サキヒトは答えなかった。
窓の外へ目を向けたまま、長い沈黙が流れる。朝の風が入り込み、壁へ立て掛けられた布都御魂の飾り紐を静かに揺らした。
やがてサキヒトは、何かを飲み込むように息を吐いた。
「今は考えるな」
「でも――」
「身体を治すことだけを考えろ。答えが必要なら、いずれ向こうから姿を現す」
何の答えが、どこから姿を現すというのか。
追及しようとした、その時だった。
家の外から馬のいななきが聞こえた。
続いて複数の人間が駆ける足音と、何事かと集まり始めた村人たちのざわめきが広がっていく。
やがて、玄関先からよく通る男の声が響いた。
「妖伐士本部より、使者が参った!」
その声は戸や壁を越え、寝室にいるミカヅキたちの耳にもはっきりと届いた。
先ほどまで僅かに和らいでいた部屋の空気が、一瞬にして張り詰める。
「本当に来た……」
カナメが息を呑み、アカリも鋭く目を細めた。
「随分と早いですね」
「神の器の覚醒だ」
サキヒトが短く答える。
「本部が動かない理由はない」
ミカヅキは何も言えないまま、家の外へ続く廊下を見つめた。
妖伐士本部。
王都に置かれ、国中の妖伐士を束ねる総本山。それは最下位の木札級でしかない自分にとって、これまで縁のない遠い存在だった。
だが、北の森で太刀が目覚めた瞬間から、その距離はすでに失われていた。
玄関の戸が開く音が響く。
続いて、聞き慣れない男の足音が、ゆっくりとこちらへ近付いてきた。




