10. 王都より来たる者
廊下を進んでくる足音は、急ぐでも迷うでもなく、一定の間隔を保っていた。
初めて訪れた家でありながら、どこに何があるのかを把握しているかのような歩調だった。やがて寝室の前で足音が止まり、軽く戸を叩く音が二度響く。
「失礼いたします」
静かな声とともに戸が開かれ、一人の男が室内へ入ってきた。
年齢は三十代半ばほどだろう。全身を覆う黒い外套の隙間から、無駄なく鍛えられた身体が窺える。腰には一般的な妖伐士が用いるものより僅かに長い刀を帯び、胸元には銀糸で刺繍された見慣れない紋章が刻まれていた。
鋭く切れ長の瞳には、人を容易に近付けさせない冷たさがある。しかし、その所作は洗練され、知性と落ち着きを感じさせるものだった。
男はサキヒトとアカリへ一度ずつ視線を向けた後、寝台の前で静かに片膝をつく。
「妖伐士本部直属監察官、ユウマと申します」
丁寧に頭を下げる姿には礼を欠くところがない。
それでもミカヅキは、歓迎されているとは感じなかった。
ユウマの視線だけが、最初から自分へ真っ直ぐ向けられていたからだ。病人の様子を案じているのではなく、噂に聞いた未知の存在が本物かどうか、細部まで見極めようとしているような目だった。
「……カシマ・ミカヅキです」
「お初にお目にかかります」
ユウマは僅かに口元を緩めた。
「もっとも、私は以前から貴方の名を存じておりましたが」
「俺の名前を?」
「ええ」
監察官は穏やかな調子のまま頷いた。
「符力を持たぬ妖伐士」
その言葉が発せられた瞬間、部屋へ静かな緊張が走った。
カナメは露骨に不快そうな顔をし、アカリの眼差しも僅かに鋭くなる。サキヒトだけは表情を変えなかったが、ユウマの一挙手一投足を警戒するように見つめていた。
しかし当のユウマは、周囲の反応を意に介した様子もない。
「符を一枚も扱えないにもかかわらず、剣技のみを評価され木札級へ昇格した異例の存在。本部にも、以前から幾度か報告が上がっていました」
「……そんなに有名だったんですか、俺」
「本部のごく一部では、という程度ですが」
「悪い意味で?」
ミカヅキが尋ねると、ユウマはすぐには答えなかった。
顎へ軽く指を当て、本当に判断に迷っているような顔をした後、わずかに肩を竦める。
「半々、と申し上げておきましょう」
「半々?」
「符力を使えない者など妖伐士として無能だ、と切り捨てる者もいます」
カナメがむっと頬を膨らませる。
「その人、ミカ兄の剣を見たことないでしょ」
「おそらくは」
「だったら、勝手なことを言わないでほしい」
「本人の前で言うことではありませんよ、カナメ」
アカリは妹を窘めたものの、その声にはユウマへの牽制も含まれていた。
ユウマはそんな二人を交互に見てから、再びミカヅキへ視線を戻す。
「一方で、符力を持たずしてそこまで剣を極めた者を、稀有な天才だと評する声もありました」
「それは買い被りです」
「そうでしょうか」
ユウマの目が僅かに細められる。
「少なくとも、神代の災厄に連なる禍津蛇を討ち滅ぼした者へ向けて、無能という評価は不適切でしょう」
否定も肯定もできず、ミカヅキは口を閉ざした。
自分が禍津蛇を倒したと言われても、今なお実感は薄い。あの時に振るった力を、もう一度同じように使えるのかさえ分からないのだ。
ユウマは返答を求めることなく、部屋の中へ視線を巡らせた。
やがて、その目が枕元に立て掛けられた布都御魂を捉える。
ほんの一瞬、監察官の表情から穏やかな笑みが消えた。
驚愕というほど大きな変化ではない。けれど、わずかに瞳が見開かれ、その奥を警戒にも似た色がよぎった。
「……なるほど」
小さく呟かれた言葉を、ミカヅキは聞き逃さなかった。
「何か分かったんですか?」
「いえ、何も」
ユウマは何事もなかったように微笑む。
「今、明らかに驚いてましたよね」
すかさずカナメが指摘した。
「気のせいです」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
「絶対に何か隠してる」
「よく言われます」
まったく動じずに返され、カナメは言葉に詰まった。
「むぅ……この人、やりにくい」
「正直な感想をありがとうございます」
ユウマは柔らかく笑ったが、その顔から真意を読み取ることはできない。
「監察官殿」
アカリが短く咳払いし、二人のやり取りを遮った。
「遠路を訪れた理由は、ミカヅキの評判を確かめるためだけではないはずです。本題をお聞かせ願いたい」
「失礼しました」
ユウマは居住まいを正すと、外套の内側へ手を入れた。
取り出したのは、金色の紐で厳重に封じられた一巻の巻物だった。上質な紙には妖伐士本部の紋が記され、紐の結び目には封印のための符が貼られている。
それを目にした途端、アカリの表情がさらに険しくなった。
口頭の伝達ではなく、正式な命令書が用意されている。それだけで、本部が今回の一件をどれほど重要視しているのかが分かった。
ユウマは符へ指を触れ、決められた印を結んで封を解く。巻物を静かに広げると、淡々とした声で読み上げた。
「北の森に出現した禍根蛇の討伐、ならびに新たなる神の器の覚醒について、妖伐士本部より正式な召集命令が下されました」
部屋の空気が一段と重くなる。
「召集……?」
ミカヅキの声に、ユウマは小さく頷いた。
「カシマ・ミカヅキ殿」
先ほどまでの柔らかな声音とは異なり、その言葉には公的な命令を告げる者としての重さがあった。
「傷が癒え次第、王都タカマガへお越しください」
「俺が、王都へ?」
「ほかに誰がいると?」
「いや……」
ミカヅキは思わずサキヒトへ視線を向けた。
父は壁際に立ったまま腕を組み、何も言わずユウマを見つめている。その表情からは、驚いているのか、こうなることを予想していたのかさえ読み取れなかった。
「俺は木札級ですよ」
ミカヅキは改めてユウマへ向き直る。
「王都どころか、村の外で正式な任務を受けたこともほとんどない。それなのに、いきなり本部へ呼ばれるなんて……」
「階級は問題ではありません」
ユウマは即座に言い切った。
「本部が召集しているのは木札級妖伐士としての貴方ではなく、新たに覚醒した神の器としての貴方です」
神の器。
その言葉が、これまでとは違う重さを持って胸へ落ちる。
ミカヅキは生まれた時からそう呼ばれてきた。それでも、内に宿る神の名も、力も分からないまま十六年を過ごしているうちに、いつしか器であることは自分の中で実感のない肩書きへ変わっていた。
だが、布都御魂が目覚め、禍根蛇を討ち滅ぼした今、これまでと同じままでいられるはずはなかった。
「それに、今回の召集は本部による事情聴取だけが目的ではありません」
ユウマが言葉を続ける。
「他の神の器たちが、貴方との面会を望んでおります」
その一言で、部屋にいた全員の動きが止まった。
「他の……神の器?」
ミカヅキが聞き返すと、ユウマは静かに頷いた。
「現在、王都にはすでに数名の器が集められています。今回の覚醒について報告が届いた直後から、貴方へ強い関心を示しておられました」
「数名も……」
これまでミカヅキにとって、神の器は神話や噂の向こう側にいる存在だった。
自分と同じように聖遺物を携え、神の力を宿す者が、この国のどこかで生きていることは知っている。だが、実際に会ったことは一度もなかった。
どのような力を持ち、どのような思いで神の器として生きてきたのか。
純粋に会ってみたいという気持ちが湧き上がる一方で、胸の奥には理由の分からない不安も生まれていた。
「皆、俺に会いたがっているんですか?」
「少なくとも、貴方の存在を無視できる方はいないでしょう」
ユウマは曖昧に答えた後、意味深に目を細めた。
「もっとも――」
「何ですか?」
「集まったすべての方が、貴方の覚醒を喜び、歓迎しているとは限りませんが」
室内が静まり返った。
「どういう意味です」
アカリが刀へ手を掛けこそしなかったものの、敵意を隠さない眼差しをユウマへ向ける。
「ミカヅキを敵視する者がいると?」
「そうは申しておりません」
「では、何を言いたい」
アカリの追及にも、ユウマは平然としていた。
むしろ、その問いを予想していたかのように、わずかな笑みを浮かべている。
「王都へ来れば、お分かりになります」
「答えになっていない」
「今ここで私から聞くよりも、ご自身の目で確かめた方がよろしいでしょう。神の器が背負うものは、神の名や与えられた力によって、それぞれ大きく異なりますから」
穏やかな口調だった。
だが、その言葉の奥には、本部からの正式な使者という立場だけでは説明できない何かが隠されている。
ユウマは布都御魂へもう一度だけ視線を向けた。
その一瞬に浮かんだのは好奇心でも、武神の器に対する敬意でもない。
何かを確かめようとするような、冷たく慎重な眼差しだった。
「出立の日取りは、傷の状態を確認した上で改めてお伝えします。とはいえ、あまり長くお待たせすることはできません」
「分かりました」
ミカヅキは答えながら、自分の声が僅かに硬くなっていることへ気付いた。
王都タカマガ。
妖伐士本部。
そして、自分と同じく神を宿す者たち。
これまで村の中だけで剣を振り、父の背中を追い続けてきたミカヅキにとって、それらはあまりにも遠い世界だった。
しかし今、その世界の方から戸を開き、こちらへ手を伸ばしてきている。
会ってみたい。
自分と同じ運命を背負う者たちへ、聞いてみたいことはいくつもあった。神が目覚めるとはどのようなことなのか。内に宿る存在と、どのように向き合えばいいのか。自分が本当にタケミカヅチの器なのかを知る手掛かりも、王都なら見つかるかもしれない。
それでも、胸の奥に生まれた違和感は消えなかった。
禍根蛇が最期に残した言葉。
布都御魂を目にした時の、サキヒトとユウマの反応。
そして、神の器たちのすべてが自分を歓迎しているわけではないという、不穏な忠告。
これから向かう王都で待っているものが、歓迎だけではないことを、その場にいる誰もが感じ取っていた。
窓から吹き込んだ風が、布都御魂の飾り紐を静かに揺らす。
白銀の神剣は何も語らず、ただ沈黙したまま、これから始まる新たな運命を見つめているようだった。




