8.災厄を断つ蒼白の刃
驚愕と歓喜が入り混じった声だった。
長い間、宿す神の名さえ分からなかった神の器が、ついにその正体を現した。神剣布都御魂を携え、あらゆる穢れを斬り裂く蒼白い神威を目覚めさせたのだ。
その場にいる誰もが、それ以外の答えなど存在しないと信じた。
しかし、禍根蛇だけは違った。
『神代の傷……』
異形は斬り裂かれた胸を押さえながら、布都御魂を包む光を見つめていた。
その声には、痛み以上に深い絶望が滲んでいる。
『なぜだ……なぜ貴様が、その力を……』
無数の瞳が激しく揺れた。
禍根蛇が恐れているものは、神剣の名でも、武神の器が目覚めたことでもないように見えた。蒼白い光のさらに奥に、アカリたちには見えない別の何かを見ている。
ミカヅキは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと禍根蛇へ向き直った。
神剣が目覚めたからといって、負った傷が消えたわけではない。身体はすでに限界を迎え、立っているだけでも意識が遠のきそうになる。
それでも太刀を握る手だけは、不思議なほど力に満ちていた。
『来るな……』
禍根蛇が後退する。
『それ以上、我へ近付くな……』
先ほどまでの威圧的な声は見る影もなく、命乞いにも似た弱々しさがあった。
ミカヅキが一歩踏み出すと、禍根蛇は怯えたように巨体を震わせる。
『来るな!』
「今さら何を怖がってる」
ミカヅキの口から、低い声が漏れた。
『ッ――』
「お前は散々好き勝手に暴れて、何の罪もない人を傷付けた。アカリとカナメの命まで奪おうとした。それなのに、自分が斬られそうになった途端、来るなだと?」
禍根蛇が威嚇するように喉を鳴らしたが、そこには先ほどまでの力強さはない。
全身から溢れていたのは、追い詰められた獣の焦りだけだった。
「ここで終わらせる」
ミカヅキは布都御魂をゆっくりと構える。
蒼白い光が刀身を包み、切っ先から溢れ出した神威が周囲の空気を震わせた。
『やめろ……』
禍根蛇の無数の瞳が一斉に赤く輝く。
『やめろォォォッ!』
悲鳴とともに、異形の全身から黒い瘴気が噴き出した。
濃密な闇が濁流のように広がり、ミカヅキを呑み込むだけでなく、森全体を覆い尽くそうと膨れ上がっていく。瘴気に触れた草木は瞬く間に枯れ、黒く変色して地面へ崩れ落ちた。
「ミカヅキ!」
背後からアカリの声が飛ぶ。
ミカヅキは振り返らなかった。
「今です! あれが力を放ち切る前に!」
「ああ」
短く答え、地面を蹴る。
踏み込んだ場所が轟音とともに陥没し、ミカヅキの身体が蒼白い光となって駆け抜けた。
『速い――!?』
禍津蛇が黒い瘴気をまとわせた爪を突き出す。
『来るなァァァァァッ!』
恐怖に駆られた絶叫とともに放たれた一撃は、これまでのどの攻撃よりも速く、重い。禍根蛇もまた、生き残るために残された力のすべてを爪へ込めていた。
それでもミカヅキは止まらない。
迫り来る爪が、はっきりと見えていた。
爪を覆う瘴気の流れも、その奥で禍根蛇の力が集中している場所も、これまで見えなかったものが手に取るように分かる。
刃をどの角度で振るえば攻撃を断てるのか。
どこへ踏み込み、どの場所を斬れば、目の前の災厄を滅ぼせるのか。
すべてを剣が知っている。
いや、剣だけではない。
ミカヅキの身体もまた、遠い昔からその一太刀を知っていたかのように、迷うことなく動いていた。
蒼白い光が刀身から両腕へ流れ込み、肩を通って全身へ広がっていく。
肉体の境界が曖昧になり、自分自身が一振りの剣へ変わったような感覚に包まれた。
やがて世界から、すべての音が消えた。
風の音も、木々のざわめきも聞こえない。
アカリとカナメの声も、禍根蛇の絶叫さえ遠ざかっていく。
ただ、目の前に立つ異形だけが見えていた。
そして、そのさらに奥にある、斬るべき穢れだけが。
『やめろォォォォッ!』
禍根蛇の叫びを最後に、完全な静寂が訪れた。
「終わりだ」
ミカヅキは布都御魂を振り下ろした。
蒼白い斬撃が地上から天へ駆け上がり、森を白く染め上げる。
眩い光は禍根蛇が放った黒い瘴気を正面から切り裂き、抵抗を許さぬまま、その巨体を一直線に通り抜けた。
アカリもカナメも、あまりの輝きに目を開けていられなかった。
やがて光が収まり、森へ静寂が戻る。
最初に見えたのは、動きを止めた禍根蛇の巨体だった。
伸ばされた爪はミカヅキへ届くことなく宙で止まり、全身にある無数の瞳だけが、何が起きたのか理解できないように揺れている。
『あ……』
異形の口から、か細い声が漏れた。
胸元から腹部にかけて、一本の蒼白い線が走っていた。
その線がゆっくりと開き、禍根蛇の身体を左右へ分かつ。傷口から噴き出した黒い血も瘴気も、蒼白い光へ触れた瞬間に焼き尽くされ、地面へ届く前に消滅していった。
『あり得ぬ……』
禍津蛇の巨体が大きく傾く。
『なぜ、その力が……』
地面へ崩れ落ちながらも、無数の瞳は最後までミカヅキを見ていた。
正確には、その内側に眠る別の誰かを。
『あのお方は……封じられたはず……』
掠れた声が森へ溶ける。
『ならば、貴様は……いったい――』
言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
禍根蛇の身体へ無数の亀裂が走り、その隙間から蒼白い光が溢れ出す。黒い鱗も、長い腕も、全身に埋め込まれた瞳も、内側から崩壊して灰へ変わっていった。
灰は細かな塵となり、森を吹き抜ける風にさらわれていく。
やがて、禍根蛇が存在していた痕跡は何一つ残らなくなった。
森へ静けさが戻る。
つい先ほどまで命を懸けた戦いが繰り広げられていたことが嘘のように、木々の間を穏やかな風が通り抜け、枝葉を静かに揺らしていた。
「終わった……のか」
ミカヅキは、禍根蛇が消えた場所を見つめながら呟いた。
張り詰めていた緊張が途切れる。
それに合わせるように、布都御魂を包んでいた蒼白い光も少しずつ弱まり始めた。
刀身に宿っていた輝きが消えていくたびに、身体を支えていた力まで抜け落ちていく。忘れていた傷の痛みと疲労が一斉に押し寄せ、目の前の景色が大きく揺れた。
「あ……」
膝から力が抜ける。
地面へ倒れそうになったミカヅキの身体を、駆け寄ってきたアカリが咄嗟に受け止めた。
「ミカヅキ!」
「ミカ兄!」
カナメも傷付いた足を引きずりながら、必死にこちらへ駆けてくる。
二人とも全身を傷だらけにし、立っていることすら辛いはずだった。それでも生きている。
その姿を確認した瞬間、ミカヅキの胸を満たしたのは、何よりも大きな安堵だった。
(よかった……)
守れた。
今度こそ、自分の剣で二人を守ることができた。
そう思った瞬間、視界の端から闇が広がっていく。
アカリの腕へ身体を預けたまま、意識が深い水底へ引きずり込まれるように沈んでいった。
「ミカ兄、しっかりして! 目を開けてよ!」
カナメの泣きそうな声が聞こえる。
「落ち着け。息はある。力を使い果たして意識を失っただけです」
アカリがそう答える声も、次第に遠ざかっていった。
暗闇へ沈んでいく意識の中で、二人の会話だけが途切れ途切れに届く。
「アカリ姉……今の、見たよね」
「ああ」
「ミカ兄の刀……あれ、本当に……」
「間違いない。あれほどの神威を宿し、禍根蛇の穢れを斬り祓える刀は、神話に語られる神剣以外には考えられません」
アカリは意識を失ったミカヅキと、その手から離れずに残る白銀の太刀を見つめた。
「布都御魂……武神タケミカヅチ様の神剣です」
「じゃあ、やっぱりミカ兄は……」
カナメの声が驚きと喜びに震える。
そして確信するように、力強くその名を口にした。
「タケミカヅチ様の器だったんだ……!」
その場にいた二人は、そう信じて疑わなかった。
神剣布都御魂を目覚めさせ、その力によって神代の妖を討ち滅ぼした少年。これまで正体の分からなかったミカヅキの内側に眠っていたのは、国中で武神として崇められるタケミカヅチであると。
だが、禍根蛇が最期に見せた恐怖も、口にしかけた言葉の意味も、二人はまだ知らない。
なぜ禍根蛇は、タケミカヅチの名ではなく「あのお方」と呼んだのか。
なぜ目覚めた神威を見て、封じられているはずだと叫んだのか。
その答えが明かされるのは、まだ遠い先のことだった。
カナメの声を最後に、ミカヅキの意識は完全な闇へと沈んでいった。




