7.神剣、目覚める
禍根蛇の全身に埋め込まれた無数の瞳が、限界まで大きく見開かれていた。
赤黒く濁った眼球のすべてが、一斉にミカヅキへ向けられている。しかし、その視線が捉えているのは、目の前に立つ少年そのものではないように思えた。
皮膚の下に流れる血も、そのさらに奥にある骨も越え、ミカヅキ自身さえ触れたことのない魂の深淵を覗き込み、そこに眠る何かを見つけたかのように、禍根蛇の瞳は恐怖に揺れていた。
『なぜだ……』
顔に走る亀裂のような口が震え、掠れた声が漏れる。
先ほどまでミカヅキたちを圧倒し、人の力など取るに足らないと嘲っていた余裕は、すでにどこにも残っていない。神代の災厄と呼ばれる異形が、まるで決して目覚めさせてはならない存在と出会ってしまったかのように、その巨体を僅かに後退させていた。
『その光は――』
続きを告げようとした声が、そこで途切れる。
禍根蛇が何を見ているのか、何を恐れているのか、ミカヅキにも分からなかった。
自分の身に何が起きているのかさえ、理解できていない。
「ミカヅキ……?」
背後からアカリの声が聞こえた。
木の幹へ背を預け、満足に立ち上がることもできない状態でありながら、その目はミカヅキの手元へ釘付けになっている。常に冷静さを失わない彼女の声にも、今ばかりは隠し切れない動揺が滲んでいた。
「な、何……その光……」
少し離れた場所では、カナメが地面へ片膝をつきながら、呆然とこちらを見つめていた。傷付いた身体を弓で支えているものの、姉と同じく、その瞳は驚愕に見開かれている。
問い掛けられても、ミカヅキは答えることができなかった。
答えられるはずがない。
胸の奥が燃えるように熱かった。けれど、それは傷の痛みでも、禍根蛇へ向けた怒りによるものでもない。
身体のさらに深い場所で、心臓とは異なる何かが脈打っている。
血や肉よりも奥深く、魂と呼ぶほかない場所で長い間眠り続けていた存在が、閉ざされていた瞼をゆっくりと持ち上げようとしていた。
ドクン――。
大きな鼓動が身体の内側へ響き渡った瞬間、ミカヅキの握る太刀がひときわ強い蒼白の光を放った。
「っ……!」
眩しさに目を細めながら、ミカヅキは手元へ視線を落とす。
見間違いではない。
生まれた時から傍らにあり、幼い頃から何度となく抜き、数え切れないほど振るってきた古びた太刀が、確かに光を放っていた。
これまでどれほど力を込めても、どれほど呼び掛けても、一度として応えたことのない刀だった。神代から伝わる聖遺物だと教えられながら、その身に宿す力を示すこともなく、ただ無銘の古刀として沈黙を守り続けてきた。
その刀身を包む蒼白い輝きが、まるで呼吸をするように明滅している。
弱く、そして強く。
ミカヅキの内側で鳴り響く鼓動とまったく同じ間隔で光を増し、刀そのものが一つの命を宿しているかのように脈打っていた。
「なんだよ……これ……」
混乱したまま、柄を握る手へ力を込める。
すると太刀が応えるように、小さく震えた。
その震えは禍根蛇へ怯えているものではない。待ち続けていた時がようやく訪れたことを告げるような、力強い脈動だった。
刀から溢れ出す光は時を追うごとに強くなり、周囲を覆っていた黒い瘴気を押し退けていく。淀み切っていた空気が蒼白い輝きに触れた端から浄化され、息を吸うことさえ苦しかった森へ、清らかな風が吹き抜けた。
風に煽られた木々がざわめき、枝葉の隙間から光が差し込む。
つい先ほどまで禍根蛇の存在に怯え、息を潜めていた森そのものが、太刀の目覚めを迎え入れているようだった。
『あり得ぬ……』
禍根蛇の声が震える。
『その力は、まだ目覚めぬはずだ……器は何も知らぬ。己の内に誰を宿すのかさえ、知らぬはず……』
無数の瞳が激しく蠢いていた。
そこに宿っているのは怒りではない。自らを脅かす天敵を目の前にした獣が抱くような、本能から湧き上がる恐怖だった。
ドクン――。
再び魂の奥で鼓動が鳴り響く。
それと同時に、太刀の黒ずんだ刀身へ一本の亀裂が走った。
「え……?」
カナメが呆然と声を漏らす。
亀裂は刃元から切っ先へ向かって伸び、一本では終わらず、次々と枝分かれしていった。古びた刀身の表面を、蒼白い光の線が蜘蛛の巣のように覆い尽くしていく。
刀が壊れようとしているのではない。
長い間、本来の姿を隠していた古い殻が、内側から溢れ出す力に耐え切れなくなっているのだ。
やがて、パキン、と澄んだ音が森へ響いた。
黒ずんだ刀身の一部が小さく剥がれ落ち、その下から曇り一つない白銀の刃が姿を現す。
その一片を始まりとして、刀身を覆っていた古い外殻が次々と砕け散った。柄と鍔にも光の亀裂が走り、長い年月を経た拵えが光の粒となって宙へ舞い上がっていく。
次の瞬間、解き放たれた蒼白い光が爆発するように広がった。
薄暗かった森が、一瞬にして白く染め上げられる。
激しい風が吹き荒れ、木々が大きく枝を揺らした。地面を覆っていた落ち葉が渦を巻いて舞い上がり、周囲に残っていた瘴気が一つ残らず消し飛ばされていく。
あまりの眩しさに、アカリもカナメも目を細めた。
やがて光が収まった時、ミカヅキの手には、それまでとはまるで異なる一振りの太刀が握られていた。
現れた刀身は、月光を固めたような白銀に輝いていた。
刃を覆う蒼白い光は静かでありながら、触れるものすべてを断ち切るような鋭さを宿している。新たに現れた鍔には、現代の人間には読むことのできない神代の文字が刻まれ、柄を握る手からは大地さえ震わせるほどの力が伝わってきた。
ただそこに存在しているだけで、周囲の空気が張り詰める。
人が作り上げた武器ではない。
人の身で振るうことさえ畏れ多い、神代から受け継がれてきた神の剣。
神威――その言葉が、誰に教えられたわけでもないのに、自然とミカヅキの脳裏へ浮かんだ。
「そんな……」
アカリが息を呑む。
「刀が、本来の姿を……?」
「変わった……ミカ兄の刀が……」
カナメも痛みを忘れたように、目の前の光景へ見入っていた。
何が起きたのか、二人にもすべてを理解することはできない。ただ一つだけ、疑いようのない事実があった。
長い間、ミカヅキと太刀の奥で眠り続けていた何かが、今この場所で目覚めようとしている。
『なぜだ……』
禍根蛇が地面を引きずりながら、さらに後ろへ下がった。
アカリとカナメを容易く打ち倒し、人の刃を嘲っていた異形が、戦うことさえ忘れたように距離を取っている。その全身にある瞳はミカヅキではなく、彼の手に握られた神剣だけを凝視していた。
『なぜ、その力が今の世に存在する……』
その言葉を聞いた瞬間、鋭い痛みがミカヅキの頭を貫いた。
「ぐっ……!」
視界が大きく揺れ、膝から力が抜けそうになる。
片手で頭を押さえた、その瞬間だった。
自分のものではない光景が、濁流のように脳裏へ流れ込んできた。
天を焦がすほどの炎が燃え盛っている。
空は光を失い、どこまでも黒く染まっていた。
巨大な山々は音を立てて崩れ、裂けた大地から黒い瘴気が噴き上がっている。その地上を、人とも獣ともつかない無数の異形が埋め尽くし、世界に存在するすべての命を呑み込もうとしていた。
そして、その中心に一つの巨大な影が立っている。
顔は見えない。
名も分からない。
それでも、その存在が剣を握っていることだけは分かった。
影が一歩踏み出すたびに大地が震え、異形たちが恐怖に身を竦ませる。
やがて影は、手にした剣を静かに振り下ろした。
たった一振りだった。
轟音すらなかった。
にもかかわらず、天を覆っていた暗雲が一直線に裂け、崩壊しかけていた大地が深く割れた。世界を呑み込もうとしていた黒い奔流は、目に見えない刃によって真っ二つに断ち切られ、その向こう側にいた無数の異形たちが声を上げる間もなく消滅していく。
神話などという言葉で語るには、あまりにも壮大な光景だった。
まるで、世界が生まれ変わる瞬間を目の当たりにしているかのようだった。
「なんだ……」
ミカヅキの呼吸が乱れる。
「なんなんだよ、これ……!」
知らない。
こんな場所を訪れたことなどない。目の前で剣を振るう影にも、燃え尽きようとしている世界にも覚えはない。
それなのに、胸の奥に眠る何かが、その光景を懐かしいと告げていた。
自分の記憶ではない。
ならば、これは――自分の内に眠る神の記憶なのだ。
『まだ目覚めてはならぬ!』
禍津蛇が悲鳴のような声を上げた。
先ほどまで森を震わせていた威圧感は消え去り、その叫びには隠しようのない焦燥が宿っている。
『器よ、その力を振るうな! 今ここで目覚めれば、すべてが再び動き始める!』
禍津蛇の言葉が頭へ届いた瞬間、ミカヅキの中で何かが切れた。
長い間、胸の奥へ押し込めてきた感情だった。
符力を使えないことへの悔しさ。
半人前と呼ばれ続けた屈辱。
努力を重ねても結果を出せず、認められないまま歩いてきた苦しさ。
そして何より、目の前でアカリとカナメが傷付けられたにもかかわらず、何も守ることができなかった自分への怒り。
「黙れ」
自分でも驚くほど静かな声が、ミカヅキの口から漏れた。
声を荒らげたわけではない。だが、その一言には禍津蛇の叫びを押し返すほどの怒気が宿っていた。
「さっきから、好き勝手なことばかり言いやがって」
ミカヅキは太刀を支えに、ゆっくりと立ち上がる。
爪の一撃を受けた腕は痺れたままで、地面へ叩き付けられた背中も、息をするたびに激しく痛む。身体中に負った傷が消えたわけでも、疲労がなくなったわけでもない。
それにもかかわらず、不思議なほど身体が軽かった。
長い間、自分を縛り付けていた見えない鎖が外れ、本来持っていた力が一気に全身へ巡り始めたようだった。
「符力を使えない落ちこぼれだと、何度も言われた」
一歩、禍根蛇へ近付く。
「最下位の木札級で、妖伐士としては半人前だと笑われた」
さらに一歩を踏み出す。
禍根蛇は、それに合わせるように後退した。もはや襲い掛かろうともせず、ミカヅキが距離を縮めるたびに全身を震わせている。
「それでも、剣だけは誰にも負けないようにやってきた。俺には剣しかなかったから、何度倒されても、何度馬鹿にされても、それだけは捨てなかった」
白銀の刀身を握る手へ力を込める。
視界の端に、傷だらけのアカリが映った。
立ち上がることも難しいはずなのに、彼女はなお刀を手放さず、何かあればすぐにミカヅキを庇おうとしている。
カナメも同じだった。
弓は大きく傷付き、自身もまともに動ける状態ではない。それでも矢を一本手に取り、姉とミカヅキのために戦おうとしていた。
二人は最後まで諦めなかった。
それなのに、自分は力になれず、守るどころか二人へ守られてばかりだった。
その事実を思い返すたびに、胸の奥から静かな怒りが込み上げてくる。
「お前はアカリを傷付けた」
一歩。
「カナメも傷付けた」
また一歩。
禍根蛇の長い身体が落ち葉を押し退け、さらに後ろへ下がる。
「二人だけじゃない。森へ来た村の人たちまで、何の理由もなく襲った」
ミカヅキは足を止め、白銀の太刀を正眼に構えた。
刀身から溢れ出す蒼白い光が、風に流れる炎のように揺らめいている。ミカヅキの周囲で風が渦を巻き、それに呼応するように森の木々が一斉にざわめいた。
「だから――俺が守る」
その言葉と同時に、ミカヅキは地面を蹴った。
轟音が響き、踏み込んだ場所の土が大きく爆ぜる。
「速っ――!」
カナメが驚きの声を上げた時には、ミカヅキの姿はすでにその場から消えていた。
周囲の景色が帯のように後方へ流れていく。
身体が軽いのではない。これまで経験したことのない速さで、全身が前へ運ばれているのだ。
それでも恐怖はなかった。
足をどこへ置くべきか、どの角度から踏み込み、どこへ刃を振るえばいいのかが、考えるよりも先に分かる。
誰かに身体を操られているわけではない。
長い年月をともに過ごしてきた太刀が、ミカヅキの積み重ねてきた剣を受け入れ、さらにその先へ導いている。
『なっ――』
禍根蛇の無数の瞳が見開かれた。
異形が慌てて爪を持ち上げるが、遅い。
ミカヅキはすでに懐へ入り込んでいた。
特別な技を使ったわけではない。複雑な動きを加えたわけでもなかった。
ただ、長年繰り返してきた通りに腰を落とし、両手で握った太刀を横薙ぎに振るう。
それだけだった。
しかし、その一閃は人の剣が届く領域を、遥かに越えていた。
蒼白い光の軌跡が薄暗い森を一直線に切り裂く。
空気が割れ、周囲からすべての音が消えた。
一瞬の静寂。
ミカヅキは禍根蛇の背後で太刀を振り抜き、低く腰を落としたまま動きを止める。
『……ァ?』
禍根蛇もまた、爪を振り上げた姿勢で固まっていた。
何が起きたのか理解できないとばかりに、全身の瞳がばらばらに動き、自らの身体を見回している。
やがて、その胸元に一本の細い線が浮かび上がった。
線は肩から脇腹へと斜めに走り、黒い鱗を音もなく分断している。
次の瞬間、傷口が大きく開き、黒い血が勢いよく噴き出した。
『ギィィィィアアアアアッ――!』
禍根蛇の絶叫が森全体を震わせる。
木々が激しく揺れ、枝に止まっていた鳥たちが一斉に空へ飛び立った。遠くでは身を潜めていた獣たちが我先に逃げ出し、森の奥へ駆けていく気配が広がっていく。
「斬った……」
カナメが信じられないものを見るように呟いた。
「ミカ兄が、あの鱗を……」
アカリも言葉を失っていた。
自分の刀では白い痕を残すことしかできず、符力を込めたカナメの矢でさえ、与えた傷は瞬く間に再生された。
だが今、ミカヅキが放った一撃は、禍根蛇の分厚い鱗を紙のように斬り裂いている。
それだけではない。
傷口から湧き上がった黒い瘴気を、斬撃とともに残された蒼白い光が焼き続けていた。肉が蠢き、傷を塞ごうとしても、光へ触れた端から崩れていく。
禍根蛇が持つ異常な再生能力さえ、完全に封じ込めていた。
「まさか……」
アカリの瞳が、ミカヅキの握る太刀へ向けられる。
その形と、刀身に刻まれた神代の文字。そして何より、あらゆる穢れを斬り祓う蒼白い神威。
妖伐士として古い神話や聖遺物について学んできた彼女だからこそ、思い当たる名があった。
「布都御魂……?」
「ふつのみたま?」
カナメが聞き返す。
「神代から伝わる神剣です。数多の妖や荒ぶる神を退け、武神タケミカヅチ様が振るったとされる剣……」
アカリの声は、口にする本人さえ信じ切れていないように震えていた。
「じゃあ、ミカ兄は……」
カナメの目が大きく見開かれる。
アカリはしばらく言葉を失ったまま、蒼白い光を纏うミカヅキの背中を見つめていたが、やがて確信するように呟いた。
「タケミカヅチ様の器……」




