6. 届かぬ剣、目覚める光
「おおおおっ!」
ミカヅキは恐怖を振り払うように叫び、地面を強く蹴った。
散乱した木片を飛び越え、禍根蛇の死角へ一気に回り込む。腰に差した太刀を鞘から抜き放つと同時に、全身の力を刃へ乗せた。
幼い頃から繰り返してきた動きだった。
余計な力を抜き、足から腰へ、腰から肩へと生まれた力を途切れさせることなく腕へ伝える。刃筋を乱さず、最短の軌道で振り抜く。
符力は使えない。
妖の気配を探ることも、身体を強化することも、刀へ退魔の力を纏わせることもできない。
それでも、剣だけなら誰にも負けないと信じてきた。
毎朝サキヒトに倒されても立ち上がり、掌の皮が裂けても太刀を振り続けた。符力が使えない自分にも、剣だけは残されている。その一つだけを頼りに、今日まで妖伐士として歩んできたのだ。
積み重ねてきた年月も、悔しさも、意地も、そのすべてを一太刀へ込める。
「はあああっ!」
渾身の斬撃が禍根蛇の胴へ叩き込まれた。
ガキンッ――!
手応えは硬く、両腕へ痺れが走る。
それでもアカリの刀とは違い、刃は黒い鱗の表面へ僅かに食い込んだ。削られた鱗の欠片が宙を舞い、浅い一本の傷が残る。
だが、それだけだった。
血の一滴すら流れていない。
これまで自分が放ってきた中でも、間違いなく最も鋭い一撃だった。それなのに禍津蛇にとっては、掠り傷にさえ届かない。
「そんな……」
口から力の抜けた声が漏れた。
剣が通じない。
これまでも倒すのに苦労した妖はいた。何度斬っても立ち上がり、あと一歩のところまで追い詰められたこともある。
それでも、自分の剣がまったく届かない相手などいなかった。
どれだけ正しく振ろうと、どれほど力を込めようと、自分の太刀では傷一つ満足に与えられない。
『弱い』
禍根蛇の全身にある瞳がミカヅキへ向き、嘲るように細められた。
『神の欠片を宿しながら、その程度か』
その言葉が胸の奥へ鋭く突き刺さる。
「まだだ!」
ミカヅキは太刀を引き、続けて二撃目を放とうとする。
しかし、それよりも禍根蛇の爪が動く方が早かった。
横薙ぎに振るわれた腕を、ミカヅキは咄嗟に太刀で受け止める。
衝突した瞬間、巨大な岩にでも打ち付けられたような衝撃が全身を貫いた。太刀を握る指が弾けそうになり、両腕から感覚が消える。
「ぐっ……!」
受け流すことも、押し返すこともできない。
禍根蛇が腕を振り切ると、ミカヅキの身体は軽々と宙へ投げ出された。視界の中で木々と空が激しく回転し、背中から地面へ叩き付けられる。
「がはっ……!」
肺の中の空気が一気に押し出され、呼吸が止まった。
全身に激痛が走り、指先一つ動かすことさえ難しい。それでもミカヅキは土を掴み、無理やり顔を上げた。
霞む視界の先では、アカリが禍根蛇の猛攻を受け止めている。
正面から受ければ押し潰されるため、一撃ごとに身体を捻り、刀を滑らせて力を逃がしていた。それでも完全には受け流しきれず、腕や頬には細かな傷が増えている。
カナメも位置を変えながら矢を放ち続けていた。退魔の矢で瞳や関節を狙い、少しでも禍津蛇の動きを止めようと必死に援護している。
二人とも戦っている。
妖伐士として、自分の役目を果たしている。
それなのに、自分はどうだ。
全力で放った一撃は通じず、敵の攻撃を一度受けただけで地面へ転がされている。二人を守るどころか、アカリに庇われ、足を引っ張っただけだった。
悔しさが胸の奥を焼いた。
符力が使えなくとも、剣があれば戦えると思っていた。誰よりも剣を磨けば、妖伐士として認めてもらえる。いつか父の背中にも追い付き、大切な者を守れるのだと信じていた。
だが、その剣さえ届かなかった。
どれだけ努力しても、どれだけ鍛えても、力が足りなければ何も守れない。
木札級。
半人前。
これまで聞かないふりをしてきた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「ミカヅキ、立て!」
アカリの叫びが、沈みかけていた意識を引き戻した。
ミカヅキが顔を上げた直後、禍根蛇の尾が地面すれすれを薙ぎ払う。
アカリは刀を盾にして受け止めようとしたが、巨大な尾の勢いを殺すことはできなかった。
「っ――!」
身体が弾き飛ばされ、背中から太い木の幹へ激突する。
鈍い音が森へ響き、アカリは力を失ったようにその場へ崩れ落ちた。手から離れた刀が地面を滑り、乾いた音を立てて止まる。
「アカリ姉!」
カナメの悲鳴が上がる。
姉の身を案じたカナメは、思わず禍根蛇から視線を外してしまった。
ほんの僅かな隙だった。
だが、禍津蛇がそれを見逃すはずもない。
「カナメ、前だ!」
ミカヅキが叫んだ時には、黒い巨体がすでにカナメの目前まで迫っていた。
「しまっ――」
カナメが慌てて弓を構えるが、矢を番える時間など残されていない。
禍根蛇の尾が再び唸りを上げる。
カナメは弓を盾にして身を守ろうとしたものの、人の身体で受け止められるような攻撃ではなかった。弓が大きくしなり、そのまま少女の身体が宙へ投げ出される。
「カナメ!」
小さな身体が地面を何度も転がり、木の根元へ叩き付けられた。
動かない。
いつも明るく声を掛けてくる少女が、土に汚れたまま倒れている。少し離れた場所では、アカリも木の幹へ背を預け、俯いたまま身じろぎ一つしなかった。
先ほどまで響いていた刀と爪の衝突音も、矢が風を切る音も消えていた。
不自然なほどの静寂が森を包み込む。
立っているのは、禍根蛇だけだった。
ミカヅキは震える腕へ力を込め、太刀を杖代わりにしてどうにか立ち上がった。背中も腕も激しく痛み、呼吸をするたびに胸の奥が軋む。
それでも倒れている二人を残し、自分まで膝をつくわけにはいかなかった。
『器』
禍根蛇がゆっくりとこちらへ向き直る。
無数の瞳がミカヅキを捉え、その巨体が地面を這いながら近付いてきた。
一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、大地が低く震える。
『拍子抜けだ』
禍根蛇の口元にある亀裂が、嘲るように歪んだ。
『我らを滅ぼす力を宿す器と聞き、恐れていたが……まだ何も目覚めていない』
「黙れ……」
『神の欠片を抱きながら、その力も引き出せぬ未熟者』
「黙れ」
『剣も届かず、仲間一人守れぬ』
言葉を重ねられるたびに、胸の奥へ隠していた傷を抉られていく。
符力を使えない自分が悔しい。
剣しかないのに、その剣さえ通じなかったことが情けない。
アカリに守られ、カナメに心配されながら、二人が傷付くのを止められなかった自分が許せない。
「黙れ!」
ミカヅキは喉が裂けそうなほど叫び、太刀を構えた。
腕は震え、足にも力が入らない。それでも禍根蛇から目を逸らさなかった。
逃げる場所などない。
たとえ次の一撃で死ぬとしても、倒れている二人へ近付かせるわけにはいかなかった。
『哀れだな』
禍根蛇が長い腕を持ち上げる。
濡れた刃のような爪が頭上で広がり、僅かな木漏れ日を受けて鈍く光った。
『目覚める前に、ここで消えろ』
爪が振り下ろされる。
速い。
避けることはできない。太刀で受けたところで、今度こそ刃ごと身体を砕かれる。
死ぬ。
その事実だけが、不思議なほど鮮明に頭へ浮かんだ。
だが、その瞬間だった。
ドクン――。
身体の奥で、何かが脈打った。
心臓ではない。
血や肉よりもさらに深い場所。自分でも存在を知らなかった魂の底で、長い間眠り続けていた何かが目を開いたような感覚だった。
ドクン、ドクンと脈動が重なるたびに、全身を満たしていた痛みも恐怖も遠ざかっていく。
熱い。
胸の奥から生まれた熱が身体を駆け巡り、太刀を握る右手へ流れ込んでいく。
それに呼応するように、古びた太刀が激しく震え始めた。
「これは……」
鞘にも柄にも何の飾りもなかった無銘の太刀。その刀身を、これまで見たことのない蒼白い光が走る。
雷ではない。炎でもない。
清らかでありながら、触れるものすべてを断ち切るような鋭さを宿した光だった。
森を覆っていた濃い瘴気が、その輝きに触れただけで音もなく消えていく。地面を這っていた黒い霧が退き、禍根蛇の振り下ろした爪さえ、蒼白い光を恐れるように空中で止まった。
『なぜだ……』
禍根蛇の全身にある無数の瞳が、限界まで見開かれる。
先ほどまでミカヅキを弱者として嘲っていた異形が、初めて明確な恐怖を見せていた。
『まだ目覚める時ではない……その器は、まだ我らの名すら知らぬはず……』
禍根蛇が後ずさる。
神代の災厄と呼ばれた妖が、蒼白い光を纏う一本の太刀を前に、怯えるように巨体を震わせている。
『その光は――』




