5.人の刃の届かぬもの
『器……目覚める前に、壊さねば』
擦り切れた金属を重ねたような声が森を震わせた直後、禍根蛇の巨体が視界から消えた。
「来るぞ!」
アカリの鋭い声が響く。
あれほど巨大な身体が、何の予備動作もなく一瞬で間合いを詰めてきた。ミカヅキが目で追えたのは、黒い鱗が木漏れ日を反射した一瞬だけだった。次の瞬間には禍根蛇の異形の腕が眼前まで迫り、長く伸びた爪が頭上から振り下ろされている。
避けなければならない。
頭では分かっている。それでも、全身へ向けられた無数の瞳に魂ごと縫い止められたように、ミカヅキの足は動かなかった。
「ミカヅキ!」
横から強い衝撃を受け、身体が地面へ投げ出される。アカリがミカヅキを突き飛ばし、そのまま禍津蛇との間へ割って入ったのだ。
鞘から白刃が走り、振り下ろされた爪を迎え撃つ。
ギィンッ――!
金属同士を激しく打ち合わせたような衝突音が森中へ轟いた。
禍根蛇の爪とアカリの刀がぶつかり合い、そこを中心として凄まじい衝撃が広がっていく。地面を覆っていた落ち葉が一斉に舞い上がり、二人の足元から土が弾け飛んだ。
「くっ……!」
アカリの両腕が押し込まれ、足が地面へ深く沈む。それでも膝を折ることなく刀を支え、禍根蛇の爪を受け止めていた。
「アカリ!」
地面へ転がったミカヅキが声を上げる。
「下がっていろ!」
アカリは振り返らなかった。
刃の向こうにある異形を睨みつけながら、刀を僅かに傾けて爪の力を横へ受け流す。禍根蛇の腕が地面へ逸れ、鋭い爪が土を深々と抉った。
その隙にアカリは後方へ飛び退き、ミカヅキを守るように前へ立つ。
「あの姿……まさか、禍根蛇か」
低く呟いたアカリの横顔から、明らかに血の気が引いていた。
「知ってるのか?」
「古い記録で見たことがあります。神代の穢れから生まれ、数多の命を呑み込んだと伝わる災厄の妖です。本来なら、このような森に現れるはずのものではありません」
禍根蛇。
その名は、妖伐士であれば誰もが一度は耳にする。神々が地上を歩いていた時代に生まれ、村や町を一夜で滅ぼしたとされる大妖。その多くは神代の終わりとともに討ち滅ぼされたというが、稀に残された穢れから力の一端を受け継ぐ個体が生まれるとも伝えられていた。
目の前の異形が伝承に語られるものと同じ存在なのか、それともその力を受け継いだ別の妖なのかは分からない。ただ一つ確かなのは、銀札級のアカリが顔色を変えるほど危険な相手だということだった。
「だったら、なおさら三人で――」
「今のお前では、あれの攻撃を受けきれない」
ミカヅキの言葉を遮り、アカリは静かに言い切った。
声音は落ち着いている。しかし、握り締めた刀の柄から血が滲みそうなほど、その手には力が入っていた。
「私が前へ出ます。お前は無理に近付かず、動きを見ろ」
「でも……」
「これは訓練ではありません。判断を誤れば死にます」
有無を言わせぬ強さを宿した声だった。
ミカヅキが何も言い返せずにいると、アカリは禍津蛇から目を離さないまま、後方に立つ妹の名を呼ぶ。
「カナメ」
「うん」
「私が注意を引き付けます。無理に急所を狙わなくていい。動きを止めることを優先してください」
「了解」
カナメはすでに矢を弦へ番え、禍根蛇へ狙いを定めていた。
その指先は僅かに震えている。額には薄く汗が滲み、普段の明るい面影も消えていた。それでも弓を下ろすことはなく、逃げようともしない。
銀札級のアカリと銅札級のカナメ。これまで幾度も妖を相手にし、互いの動きを理解している二人の間には、言葉を重ねずとも通じるものがある。
最下位の木札級であり、本格的な討伐任務すら初めての自分とは違う。
その事実を突き付けられ、ミカヅキは奥歯を噛み締めた。
「ミカ兄」
カナメが前方を見据えたまま、小さく声を掛けてくる。
「絶対に無茶しないでね」
「……分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
そう答えた声が、自分でも分かるほど硬かった。
緊張しているのではない。恐ろしいのだ。
禍津蛇がそこにいるだけで、全身の血が凍り付くような恐怖が押し寄せてくる。本能が今すぐ逃げろと叫び、太刀の柄を握る手は汗で滑りそうになっていた。
認めたくはない。それでも、これまで相対したどの妖よりも、目の前の異形が危険であることだけは理解できた。
『人の子が……我が前に立つか』
禍根蛇の全身に埋め込まれた瞳が蠢き、一斉にアカリへ向けられる。
その巨体が、再び大きくうねった。
「来ます!」
アカリが叫ぶと同時に、禍根蛇が地面を蹴る。
黒い影が木々の間を駆け抜け、凄まじい速さでアカリへ肉薄した。長い腕から繰り出された爪が横薙ぎに迫り、彼女の首を狙う。
アカリは上体を低く沈め、頭上を通過する爪を紙一重でかわした。続けて下から抉るように迫ったもう一方の腕を刀の腹で受け流し、禍根蛇の脇を抜けながら胴へ斬撃を放つ。
鋭い剣閃が、薄暗い森に銀色の軌跡を描いた。
ガギィンッ――!
しかし、響いたのは肉を裂く音ではなく、分厚い鉄を打ち付けたような甲高い音だった。
アカリの刀が黒い鱗の表面を滑り、激しい火花を散らす。斬撃を受けた場所には白い痕が僅かに残っただけで、刃は禍津蛇の身体へ届いていない。
「硬い……!」
アカリの表情が険しくなる。
『人の刃では、我が身には届かぬ』
禍根蛇の顔に走る亀裂が歪み、嗤っているのだと分かった。全身の瞳も愉悦を表すように細められ、そのあまりに異様な光景にミカヅキの背筋を冷たいものが走る。
禍根蛇は嘲笑を浮かべたまま、左右の爪を立て続けに振るった。一撃ごとに空気が裂け、木々が大きく揺れる。
アカリは正面から受け止めようとはせず、刀の角度を巧みに変えながら攻撃の軌道を逸らしていく。右から迫る爪を受け流し、返す刀で伸びた腕の内側を狙う。禍根蛇が身を引けば、休むことなく一歩踏み込み、今度は首筋へ刃を走らせた。
斬撃の速さも、動きの正確さも、朝の鍛錬でミカヅキが見せたものとは明らかに違う。
これが銀札級妖伐士の戦いだった。
「見えている!」
アカリが禍津蛇の懐へ潜り込み、下から身体を斬り上げる。
だが、その一撃も分厚い鱗に阻まれた。火花が散り、刀を握るアカリの腕が激しく弾かれる。
禍根蛇は空いた脇腹へ爪を突き出した。
「アカリさん!」
ミカヅキが叫ぶ。
爪が届く寸前、森の空気を切り裂いて一本の矢が飛来した。
矢は禍根蛇の手首へ命中し、込められていた符力が淡い光となって弾ける。一瞬だけ腕の軌道が逸れ、その隙を逃さずアカリが後方へ飛び退いた。
「なら、これはどう!」
カナメが鋭く叫び、弓弦を引き絞る。
弦の周囲へ淡い光が集まり、番えられた矢へ符力が流れ込んでいく。通常の矢ではなく、妖の穢れを祓うための退魔の力を込めた一撃だった。
弦が立て続けに三度鳴る。
一射、二射、三射――ほとんど間を置かず放たれた三本の矢が、わずかに異なる軌道を描きながら禍根蛇へ襲いかかった。
一本目は胸を、二本目は腕を狙う。禍津蛇がそれらを長い爪で払い落とした時には、陰へ隠すように放たれた三本目がすでに顔の目前まで到達していた。
退魔の光を纏った矢が、頬に埋め込まれた瞳の一つへ深々と突き刺さる。
『ギィィィッ――!』
禍根蛇の口から、初めて明確な苦痛の声が上がった。
巨体が大きく仰け反り、全身の瞳が苦しげに見開かれる。耳を塞ぎたくなるような絶叫によって周囲の木々が震え、枝に残っていた葉が雨のように落ちてきた。
「効いた!」
カナメの顔に喜びが浮かぶ。
「油断するな!」
アカリが警告した直後、禍根蛇の身体から濃い瘴気が噴き出した。
黒い霧が傷ついた瞳を包み込み、突き刺さっていた矢を瞬く間に蝕んでいく。符力を込めた矢が黒く変色し、先端から崩れ落ちると、その下で潰れていたはずの瞳が再び形を取り戻していった。
裂けた肉が蠢き、黒い血が傷口へ吸い込まれ、赤い瞳が元通りに開く。
すべてが僅かな時間のうちに起きていた。
「嘘……」
カナメの顔から血の気が引く。
矢が効かなかったわけではない。確かに禍津蛇へ傷を負わせ、苦痛を与えていた。
だが、その傷が意味を持たないほどの速さで再生してしまうのだ。
『小賢しい……』
禍根蛇が地の底から響くような唸り声を上げる。
再生した瞳がカナメを睨み、そこから先ほどまでとは比較にならないほど濃密な殺気が溢れ出した。肌に触れただけで切り裂かれそうな圧力に、カナメの身体が硬直する。
「カナメ、動け!」
アカリが叫び、禍根蛇の注意を引き戻そうと前へ踏み出す。
その時、禍根蛇の長大な尾が地面を抉りながら振り抜かれた。
轟ッ――!
空気そのものが悲鳴を上げた。
アカリは背筋を走った悪寒に従い、反射的に地面を蹴る。巨大な尾が足元を通過し、そのまま後方に生えていた大木へ直撃した。
衝撃を受けた幹が内側から破裂し、太い大木が根元からへし折れる。大量の土砂と木片が嵐のように舞い上がり、倒れた幹が地面を揺らした。
アカリは着地すると同時に刀を構え直したが、その額には冷たい汗が滲んでいた。あと僅かでも反応が遅れていれば、自分の身体もあの大木と同じように砕かれていたはずだ。
「化け物が……」
ミカヅキは震えようとする奥歯を噛み締めた。
アカリの刀は鱗に阻まれ、カナメの退魔の矢で与えた傷も瞬く間に再生された。このままでは二人がいずれ力尽きる。
自分も戦わなければならない。
木札級だから、符力が使えないからと、後ろで見ているだけでは何も守れない。
禍根蛇の意識はアカリとカナメへ向いている。自分は敵としてさえ見られていない。
ならば、その油断を利用するしかない。
ミカヅキは腰の太刀へ手を掛けると、恐怖に震える足へ力を込めた。




