4.無数の瞳
森を縫うように続いていた山道の中央で、一台の荷車が横倒しになっていた。
荷台に積まれていた木材は周囲へ散乱し、片方の車輪は激しく砕けている。人の力で倒したにしては壊れ方がひどく、車体の側面には何か巨大なものが叩き付けられたような深い窪みが残っていた。
近くで木を伐っていた木こりたちのものだろう。
しかし、三人の目を引いたのは荷車ではない。
黒く湿った地面に、赤黒い染みが広がっていた。
「血……」
カナメの声から、先ほどまでの明るさが消える。
決して少ない量ではない。倒れた荷車から少し離れた場所まで血の跡が続き、その周囲には何人もの人間が激しく争った形跡が残されていた。踏み荒らされた地面には深い足跡が重なり、道の脇に生える低木は根元から薙ぎ倒されている。
さらに異様なのは、周囲の木々へ刻まれた傷だった。
大人二人が腕を回しても届かないほど太い幹が、深々と抉られている。一本だけではない。地面から人の背丈ほどの高さを中心として、何本もの木に同じような傷が走っていた。
まるで、巨大な刃で森ごと薙ぎ払ったかのような痕跡だった。
「なんだ、これ……」
ミカヅキは最も近くにあった木へ歩み寄り、抉れた幹へ手を触れた。
傷の幅は、人間の掌よりも広い。表面には複数の筋が平行に走っているため、獣の爪痕のようにも見える。しかし、ただ引っ掻いただけでは、これほど深く木を裂くことはできないだろう。
何より、傷へ触れた指先から伝わる感触に、説明できない気味の悪さがあった。
木の中に残っていた生命まで、根こそぎ奪われている。そんな錯覚を覚えるほど、裂けた部分だけが冷たく乾き切っているのだ。
「普通の妖ではありませんね」
アカリは刀の鍔へ親指を添え、僅かに刃を鞘から浮かせた。周囲の木々や藪へ鋭い視線を走らせながら、静かに呼吸を整えている。
「カナメ、上を警戒してください。木々の陰にも注意を」
「分かった」
カナメは背負っていた弓を外し、音を立てないよう矢筒から一本の矢を抜いた。矢を弦へ番え、いつでも引き絞れる体勢を取る。
ミカヅキも木の幹から手を離し、腰の太刀へ右手を伸ばした。
空気が変わっている。
森へ入った時から感じていた静けさとは違う。肌へまとわりつくような重苦しい気配が、三人を中心に少しずつ狭まっている。
その時、ぞくりと冷たいものが背筋を駆け上がった。
見られている。
根拠などなかった。ただ、森のどこかから何者かの視線を向けられていることだけは、はっきりと感じられた。
ミカヅキは反射的に振り返る。
そこには、同じような木々が並んでいるだけだった。深い藪の奥にも、枝の上にも、動くものの姿はない。
それでも胸騒ぎは消えない。むしろ周囲を確認したことで、視線の存在はより鮮明になった。
こちらが見つけられないだけで、向こうからはすべて見えている。
そんな嫌な確信が胸の奥へ生まれた、その時だった。
「……熱い?」
腰に差した太刀が、微かに熱を帯びた。
ミカヅキは驚き、柄へ手を添える。
気のせいではない。鞘に収まったままの刀が、脈打つように小さく震えている。これまで毎日のように触れ、何度も戦いで振るってきたが、こんな反応を示したことは一度もなかった。
「ミカヅキ?」
異変に気付いたアカリが名を呼ぶ。
「刀が……」
答えようとした瞬間、森の奥から低く重い音が響いた。
ずしん、と地面が微かに揺れる。
三人は一斉に音のした方角へ視線を向けた。
ガサリ、と太い枝が大きくしなり、絡み合った葉が激しく揺れた。獣が駆け抜けた程度の動きではない。何か巨大で、重いものが木々を押し退けながら、こちらへ近付いている。
一歩進むたびに地面が震え、その振動が足元から身体へ伝わってくる。
アカリが音もなく刀を抜いた。
鞘から現れた白刃が、木漏れ日を受けて鋭く光る。カナメも弓を持ち上げ、弦を半ばまで引き絞った。
ミカヅキもまた、熱を増していく太刀の柄を強く握る。
息をすることさえ憚られるような緊張が、辺りを包み込んだ。
やがて、木々の隙間に広がる薄暗い闇の中で、一つの赤い光が揺れた。
最初は、木漏れ日が何かへ反射したのだと思った。
だが、違う。
それは瞳だった。
一つではない。二つ、四つ、八つ――闇の奥で赤い光が次々と開き、こちらへ向けられていく。十を超えてなお増え続け、数えることすらできない無数の目が、木々の間から三人を覗き込んでいた。
「なんだよ……あれ……」
掠れた声が漏れる。
これまでミカヅキが目にしてきた妖とは、明らかに異なる。餓鬼にも、獣の成れの果てにも似ていない。そもそも、生き物として存在していい形をしているのかすら分からなかった。
闇の中から、長く巨大な影がゆっくりと這い出してくる。
地面を擦りながら現れた下半身は、大蛇のような姿をしていた。黒く濁った鱗が幾重にも重なり、その隙間からは瘴気が黒い煙となって漏れ出している。
蛇の胴から伸びる上半身は人の形に近かったが、腕は異様に長く、指先には鋭い爪が備わっていた。その爪こそが、木々へ残されていた傷を刻んだものなのだろう。
顔には、本来あるべき目が存在しない。
代わりに、額、頬、首、肩、胸、腕――全身の至るところへ赤く濁った瞳が埋め込まれ、それぞれが勝手な方向へ動きながら周囲を見回していた。
異形。
目の前に現れた存在を表すには、その言葉しか思い浮かばなかった。
「下がれ、ミカヅキ」
アカリが前へ出て、庇うように刀を構える。
しかし、怪物はアカリを見ていなかった。弓を向けるカナメにも、散らばった血痕にも興味を示さない。
全身に埋め込まれた無数の瞳が、ゆっくりと同じ方向へ動いていく。
そのすべてが、ミカヅキを捉えた。
「……俺を、見てる?」
視線を向けられた瞬間、身体の内側へ冷たい手を差し込まれたような感覚に襲われた。
外見を見られているのではない。皮膚も肉も骨も越え、その奥にある魂の深い場所まで覗き込まれている。
逃げなければならないと頭では理解しているのに、足が地面へ縫い付けられたように動かない。心臓は早鐘のように脈打ち、腰の太刀は怪物へ応えるかのように激しく震え始める。
無数の瞳が、一斉に細められた。
そして怪物の顔に縦長の亀裂が走り、そこから人間のものとは思えない口がゆっくりと開いていく。
『――みつけた』
擦り切れた金属を無理やり重ねたような声が、森の中へ響いた。
耳から聞こえたというよりも、言葉そのものを頭の中へ直接押し込まれたような声だった。
その瞬間、ミカヅキの心臓がひときわ大きく脈打つ。
太刀が熱を増し、柄を握った掌が焼けるように痛んだ。それでも手を離すことができない。まるで刀の方から、決して離すなと訴えかけているようだった。
怪物は長い身体をくねらせ、黒い鱗で地面を抉りながら、さらに一歩ミカヅキへ近付く。
『器……』
その一言が放たれた途端、辺りを満たす空気が急激に重さを増した。
木々が低く軋み、枝葉が風もないのに震え始める。地面を這う草花は一斉に頭を垂れ、森そのものが目の前の怪物へ怯えているかのようだった。
無数の瞳から、敵意とも憎悪とも異なる、どこか焦りに似た色が滲む。
『目覚める前に……壊さねば』
その言葉と同時に、異形の腕が大きく持ち上げられた。
陽光を受けた爪が、濡れた刃のように鈍く光る。
「来るぞ!」
アカリの鋭い声が森を切り裂く。
次の瞬間、怪物は巨体からは想像もできない速さで地面を蹴り、一直線にミカヅキへ襲い掛かった。




