3. 神の器と沈黙の森
北の森へと続く山道を、ミカヅキたちは足早に進んでいた。
村を出た頃には低かった太陽も、今では頭上近くまで昇っている。それでも森の中は昼前とは思えないほど薄暗く、幾重にも重なった枝葉が陽光を遮り、地面へ落ちる光を細く頼りないものへ変えていた。湿り気を帯びた土の匂いが鼻を掠め、足を進めるたびに落ち葉が乾いた音を立てる。
この道は、普段であれば村の者たちが薪を拾い、山菜や木の実を採るために使っているものだ。森の浅い場所には獣が通った跡や、木こりたちが伐採した切り株も多く、ミカヅキ自身も幼い頃から何度となく足を運んでいる。
決して慣れない場所ではない。それにもかかわらず、今日はまるで別の森へ迷い込んだような感覚があった。
鳥の鳴き声が聞こえない。木々の隙間を飛び交うはずの虫の羽音もなければ、藪の中を小さな獣が駆け抜ける気配すらない。聞こえてくるのは三人分の足音と、風に揺らされた枝葉が擦れ合う音だけだった。
静かというよりも、何かに怯えた生き物たちが、息を潜めて隠れているような不自然さがある。
「……嫌な感じだな」
知らず、ミカヅキの口から言葉が漏れた。
先頭を歩いていたアカリも、その違和感を感じ取っていたのだろう。前方から目を離さないまま、小さく頷く。
「私も同じことを考えていました。森が静かすぎる」
「木こりが襲われて、重傷者まで出たって話だもんね」
アカリの後ろを歩くカナメも、いつもの明るさを抑えた声で続けた。背負った弓をすぐに取れるよう手を掛けながら、周囲の藪へ注意深く視線を巡らせている。
「北の森で、人がそこまで深い傷を負わされるなんて珍しいよね」
「ああ。この辺りに現れるのは、ほとんどが下級の妖です。群れから離れた餓鬼や、薄い瘴気に長く晒された獣の成れの果て程度なら、森へ入る木こりたちも対処法を知っています」
アカリは歩みを緩めることなく答えた。
北の森にも妖は生息しているが、その多くは力の弱いものだった。村人たちも、妖を見つけた時には刺激せずに離れることや、音や火を使って追い払うことを教えられている。仮に通常より強い個体と遭遇したとしても、全員が逃げることさえできない状況になるとは考えにくい。
「少なくとも、普段この森にいる妖の仕業ではないでしょう」
アカリの言葉に、ミカヅキは腰に差した太刀へ視線を落とした。
今朝まで手にしていた鍛錬用の木剣とは違う。古びた鞘に収められた、名も分からぬ一本の太刀。幼い頃からミカヅキの傍らにあり、どれほど粗末な武具へ見えても、刃こぼれ一つ起こしたことのない不思議な刀だった。
本格的な討伐任務に参加するのは、これが初めてとなる。
訓練とは違い、失敗すれば怪我では済まない。自分だけでなく、アカリやカナメ、そして森に取り残されているかもしれない村人の命まで失われる可能性がある。
それを理解しているはずなのに、不思議と恐怖はなかった。胸の奥にあるのは、早く妖を見つけなければならないという焦りと、自分の剣がどこまで通じるのかを確かめたいという高揚だった。
「そういえばさ」
張り詰めた空気を気にしたのか、カナメが不意に振り返った。その顔には、先ほどまでとは打って変わって、いたずらを思い付いた子供のような笑みが浮かんでいる。
「ミカ兄って、いつ目覚めるの?」
「何がだよ」
「神様」
あまりにも当然のように答えられ、ミカヅキは思わず顔をしかめた。
「そんなこと、俺が知るわけないだろ」
「でも、ミカ兄は神の器なんでしょ?」
「器なら何でも分かると思うな。分かるなら、俺だってとっくに苦労してない」
神の器――それは、この国に暮らす者であれば誰もが一度は耳にする存在だった。
神々の魂や力を受け継ぐ者が、長い時を経て人の世に生まれ落ちる。その数は極めて少なく、器と認められた者の傍らには、神代から伝わる聖遺物が現れるとされている。
神が振るった剣であったり、身に着けていた装飾品であったり、あるいは力を宿した鏡や勾玉であったりと、その形はさまざまだ。聖遺物は器と神を結ぶ証であり、やがて宿した力が目覚める時を待ち続ける。
だが、神の器として生まれた者が、最初から己の内に宿る神の名を知っているとは限らない。
生まれた時に神託を受け、その名と役目を告げられる者もいる一方、覚醒の時を迎えるまで何一つ分からない者もいる。ミカヅキは、まさしく後者だった。
ミカヅキの聖遺物は、一振りの古い太刀だった。
鞘にも柄にも目を引くような装飾はなく、神代の品と知らなければ、長い間物置へ放置されていた無銘の刀にしか見えない。刀身にも銘は刻まれておらず、どの神が振るったものなのかを示す手掛かりは何一つ残されていなかった。
ただ、それが人の手によって作られたものではなく、確かに神代から伝わる聖遺物であるということだけが分かっている。
「でも、刀が聖遺物だから、やっぱり剣とか戦いの神様なんじゃない?」
カナメは後ろ向きに歩きながら、ミカヅキの腰の太刀を興味深そうに見つめた。
「武神だろうっていうのは、昔からよく言われてるな」
「武神様なら、目覚めたら雷を落としたりするのかな」
「知らないけど、たぶん落とさない」
「じゃあ、刀から炎を出したり」
「出ない」
「空を飛んだり」
「飛ばない」
「一振りで妖を百体くらい斬ったり」
「お前の中の武神、どれだけ何でもありなんだよ」
呆れたミカヅキの返答に、カナメは楽しそうに声を上げて笑った。
「だって神様だよ。何でもできそうじゃん」
「まだ武神だと決まったわけでもないんだけどな」
「あ、そっか」
「今さら気付いたのかよ」
「でも刀なんだよねぇ」
カナメは歩く向きを元へ戻すと、納得できないとばかりに首を傾げた。
剣に縁のある神は一柱だけではない。戦を司る神もいれば、刀そのものから生まれたと伝えられる神もいる。古い神話まで遡れば、候補などいくらでも挙げられた。
だからこそ、誰にも答えは分からない。
自分の中に眠る神が何者なのか。覚醒すれば、どのような力を得るのか。そもそも、自分にも本当に覚醒する日が訪れるのか。
神の器と呼ばれながら、何一つ分からないまま、ミカヅキは今日まで剣を振り続けてきた。
「まあ、神様が誰でもいいけどね」
カナメが、先ほどよりも穏やかな声で言った。
「ミカ兄は、神様が目覚めてもミカ兄でしょ?」
「……まあ、それはそうだな」
ミカヅキも僅かに口元を緩めた。
宿す神が誰であろうと、自分が自分であることに変わりはない。カナメの言葉は何気ないものだったが、長年答えの出ない疑問を抱えてきたミカヅキにとっては、妙に心へ馴染むものだった。
「それで符力まで使えるようになったら、ミカ兄も完璧だよね」
しかし、続けて放たれた言葉によって、ミカヅキの笑みが僅かに固まった。
「あっ……」
自分が何を言ったのかに気付いたカナメは、慌てて両手で口元を覆う。
「ご、ごめん。私、そんなつもりじゃ……」
「別にいいよ。気にするな」
しゅんと肩を落とした妹分を見て、ミカヅキは苦笑を浮かべた。
気を遣われることには、とうの昔に慣れている。
符力は、妖伐士の戦いを支える基礎にして根幹だ。妖の気配を探る探知、肉体の力を引き上げる強化、攻撃から身を守る結界、そして妖を滅する退魔。扱える術には個人差があるものの、妖伐士と呼ばれる者であれば、誰もが何らかの形で符力を用いる。
ただ一人、ミカヅキを除いて。
どれほど鍛錬を重ねても、どれほど書物を読み込んでも、符は沈黙したままだった。正しい形で印を結び、教えられた通りに意識を集中させても、紙切れ一枚すら淡く光ることはない。
符力を扱えない者は、妖伐士としては落第同然である。
ミカヅキが最下位とはいえ木札級の資格を得られたのは、符力を補って余りある剣の腕を認められたからに過ぎない。それでも周囲からは半人前と呼ばれ、任務へ出れば本当に役に立つのかと疑われることも多かった。
「私は気にしていません」
それまで黙って前を歩いていたアカリが、不意に口を開いた。
振り返ることなく、一定の歩調を保ったまま言葉を続ける。
「ミカヅキ。お前の剣が本物であることは、私も師匠も知っています。符力を使えないというだけで、その技量まで否定するつもりはありません」
「アカリさん……」
予想していなかった言葉に、ミカヅキの胸が僅かに熱くなる。
「ただし」
アカリの声が一段低くなった。
「符力を使う訓練は、これまで以上に続けるように」
「……結局そこに戻るのかよ」
「剣だけでは補えない状況もありますから」
「さっき親父にも同じことを言われたばかりなんだけど」
「なら、師匠の言葉をよく聞きなさい」
「本当にそっくりだな、あの師弟……」
ミカヅキが肩を落とすと、カナメが堪え切れずに吹き出した。
森に入ってから漂っていた重苦しい空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
だが、その穏やかな時間は、アカリが突如として足を止めたことで終わりを告げた。
先ほどまで僅かに緩んでいた彼女の表情が消え、鋭い視線が山道の先へ向けられる。
「……アカリさん?」
ミカヅキが呼び掛けても、返事はない。
後ろを歩いていたカナメも異変を察し、音を立てずに足を止めた。
森を満たしていた静けさが、今まで以上に重く三人へ圧し掛かる。
やがてアカリは刀の柄へ手を添え、低い声で告げた。
「二人とも、警戒してください」
その視線の先にあるものを見て、ミカヅキの表情からも笑みが消えた。




