2.いつもの朝の終わり
ミカヅキが振り返ると、訓練場の入口に一人の女性が立っていた。
年齢は二十歳を少し過ぎた頃だろうか。艶やかな黒髪を高い位置で一つに束ね、腰には長年使い込まれた刀を差している。細身ながら鍛えられた身体には無駄がなく、静かに歩いているだけでも隙のなさが伝わってくる。
彼女の名はアカリ。
サキヒトへ師事する弟子であり、この村を拠点として活動する銀札級の妖伐士だ。ミカヅキにとっては幼い頃から剣を教わり、ときには任務についての知識を叩き込まれてきた姉弟子でもある。
アカリは地面へ座り込むミカヅキと、その傍らに立つサキヒトを交互に見ると、状況を察したように小さく息を吐いた。
「また朝から説教ですか」
「まただよ」
ミカヅキがうんざりした顔で答えると、アカリは口元へ僅かな笑みを浮かべた。
「毎朝大変ですね」
「完全に他人事だと思ってるだろ」
「事実、私ではなくミカヅキが説教されていますから」
「そこは少しくらい否定してくれてもいいんじゃないか?」
ミカヅキが不満そうに言うと、アカリは涼しい顔のまま首を傾げた。
「ですが、師匠もミカヅキのことを心配しているんですよ」
「毎朝心配される側の身にもなってくれ」
「心配されるようなことをするからでしょう。ミカヅキは昔から、考えるより先に身体が動きますから」
「そんなに無茶してないだろ」
「しています」
「してない」
「しています」
「してな――」
「あら。先月、巡回中に見つけた妖を一人で森の奥まで追いかけたのは、どこの誰だったかしら」
遮るように告げられ、ミカヅキの口が止まった。
アカリは笑顔を浮かべているものの、その目は少しも笑っていない。あの時、勝手に隊を離れたことについて、任務後に一刻近く説教された記憶が蘇る。
「……あれは逃がしたら村へ戻ってくるかもしれなかったからだ」
「ミカヅキだな」
それまで黙っていたサキヒトが、重々しく頷いた。
「親父まで乗っからないでくれよ」
「事実を確認しただけだ」
「二人して同じような顔をするな」
さすがは師弟と言うべきか、腕を組んだサキヒトとアカリは、まったく同じ呆れ顔をミカヅキへ向けている。
どうにか話題を変えようとした時、訓練場の外から、朝の静けさには似つかわしくない明るい声が響いた。
「ミカ兄ー!」
大きく手を振りながら駆けてきたのは、肩口で切り揃えた短い髪を弾ませる一人の少女だった。
アカリの妹であるカナメ。姉よりも幾分幼さの残る顔立ちには、朝早いというのに眠気の欠片も見られない。
彼女もまた妖伐士の一人であり、階級は銅札級。刀を得意とする姉とは対照的に弓を扱い、遠距離から敵を射抜くことを得意としている。
訓練場へ飛び込んできたカナメは、土で汚れたミカヅキの服と乱れた髪を見るなり、挨拶よりも先に声を弾ませた。
「また負けたの、ミカ兄?」
「第一声がそれかよ。普通はおはようとかあるだろ」
「おはよう。今日も負けたんだね」
「言い直しても内容が変わってないぞ」
「だって、顔を見れば分かるもん」
カナメは悪びれもせず、ミカヅキの顔を覗き込む。
「俺、そんなに負けた顔してるか?」
「してるよ」
「していますね」
「しているな」
カナメ、アカリ、サキヒトの声が見事に重なった。
あまりにも迷いのない即答に、ミカヅキはしばらく三人の顔を見回した後、力なく肩を落とす。
「この場に俺の味方はいないのか……」
「大丈夫だよ!」
カナメが満面の笑みを浮かべ、勢いよく親指を立てた。
「私はいつだってミカ兄の味方だから!」
「おお……ありがとう、カナメ。お前だけは信じてたぞ」
「師匠に勝てる日は一生来ないと思うけど!」
「一瞬で裏切ったな」
「でも、ミカ兄の剣は本当にすごいと思うよ」
「前半さえなければ素直に喜べたんだけどな」
ミカヅキが疲れ切った声で返すと、アカリが堪え切れずに吹き出した。サキヒトもすぐに無表情へ戻したものの、その口元が僅かに緩んだのをミカヅキは見逃さなかった。
「親父、今笑っただろ」
「気のせいだ」
「いや、絶対笑ってた」
「鍛錬が足りず、幻まで見えるようになったか」
「何でも鍛錬不足に結び付けるなよ」
いつもの調子を取り戻したやり取りに、早朝の訓練場を満たしていた張り詰めた空気も、いつの間にか柔らかなものへと変わっていた。
ミカヅキは立ち上がり、背中の土を払いながらアカリへ目を向ける。
「そういえばアカリさん、今日は任務が入ってないんだろ?」
「ええ。少なくとも午前中はありません。巡回当番もほかの班が担当していますから、久しぶりにゆっくりできそうです」
「珍しいな。最近、毎日のように森へ出てただろ」
「妖の目撃が増えていましたからね。ですが、今日は休める時に休ませてもらいます」
そう答えるアカリの表情は、普段よりも幾分柔らかい。
妖伐士として任務に就いている時の彼女は、常に気を張り詰めている。村人の命を預かる立場である以上当然なのだろうが、妹であるカナメの前でも弱音を吐くことはほとんどない。
久しぶりに休みを取れることが、よほど嬉しいのだろう。
「アカリ姉、今日も団子を食べに行くんだよね」
カナメが含みのある笑みを浮かべた。
その瞬間、アカリの眉がぴくりと動く。
「……今日も、とはどういう意味ですか」
「だって、この間も休みの日に食べに行ってたでしょ。今日は村の団子屋を三軒回る予定なんだよね?」
「なぜ知っている」
「前に嬉しそうに話してたから」
カナメに指摘され、アカリは気まずそうに視線を逸らした。
いつも冷静で凛としている姉弟子の珍しい反応に、ミカヅキは思わず目を丸くする。
「意外とアカリさんって甘党なんだな」
「……剣士にとって糖分は重要です。消耗した身体を回復させるためにも、甘味を取ることは理にかなっています」
「急に理屈っぽくなったな」
「言い訳っぽいよね」
「言い訳ではありません」
アカリはきっぱりと言い切ったものの、僅かに頬を赤らめながら顔を背けたため、説得力はほとんどなかった。
「三軒とも回るのか?」
「二軒です」
「さっきカナメは三軒って言ってたけど」
「最後の一軒は持ち帰りです。店内で食べるわけではありません」
「そこに違いがあるのか……?」
「あります」
強い口調で断言され、ミカヅキはそれ以上追及することを諦めた。
カナメは楽しそうに笑い、サキヒトも呆れながら息を吐く。アカリだけは少し不満そうな顔をしていたが、その空気にはどこか温かいものがあった。
朝になれば剣を振り、負ければサキヒトに説教される。アカリがそれをからかい、カナメがさらに余計な一言を加える。
変わり映えのしない、いつもの朝。
同じような日が今日も始まり、明日もまた続いていくのだと、ミカヅキは疑いもしなかった。
少なくとも、この時までは。
「アカリ殿!」
突然、切羽詰まった声が訓練場へ飛び込んできた。
その場にいた全員の表情が変わり、一斉に入口へ振り返る。
一人の若者が、転びそうになりながら訓練場へ駆け込んでくるところだった。顔は血の気を失って青ざめ、額には大粒の汗が浮かんでいる。相当な距離を全力で走ってきたのか、肩を激しく上下させ、喉の奥から苦しそうな呼吸を繰り返していた。
先ほどまでの穏やかな空気は、一瞬にして消え去った。
アカリは腰に差した刀へ手を添え、素早く若者の前へ歩み出る。
「何があった」
「き、北の森で……妖が出ました!」
息を整えることさえ惜しむように、若者は掠れた声で叫んだ。
ミカヅキたちの顔から笑みが消える。
北の森に妖が現れること自体は、それほど珍しいことではない。深い森には獣だけでなく、穢れから生まれた下級の妖も棲み着いている。そのため村の妖伐士は定期的に巡回し、数が増える前に討伐を行っていた。
しかし、目の前の若者の怯え方は、下級の妖を一匹見かけた程度のものではなかった。
「妖の数と種類は」
アカリが無駄のない口調で問い掛ける。
「分かりません。木こりたちが森の中で襲われました。戻ってきた者によれば、木々の間から突然襲いかかってきたと……一人が重傷です!」
「負傷者はどこに」
「村の治療所へ運ばれています。ですが、まだ森に残っている者がいるかもしれません!」
若者の報告を聞き、アカリの目つきが一段と鋭くなった。
ミカヅキも木剣を握る手へ力を込める。
木こりが森で妖に遭遇することはある。だが、北の森は村人が日常的に出入りする場所であり、危険な妖が棲み着かないよう定期的に見回りが行われていた。重傷者が出るほどの妖が、何の前触れもなく現れたのだとすれば、明らかに異常だった。
その傍らで、サキヒトが僅かに目を細める。
険しくなったその表情はほんの一瞬で消えたが、北の森という言葉を聞いた時、何かを警戒するように拳を握り締めていた。
しかし、若者の報告へ意識を向けていたミカヅキは、その変化に気付かなかった。
「すぐに向かいます」
アカリは迷うことなく即答した。
腰の刀が確実に抜ける位置にあるかを確かめると、振り返って妹へ視線を向ける。
「カナメ、弓と矢を。準備ができ次第、北門へ向かってください」
「了解」
つい先ほどまで無邪気に笑っていたカナメの顔から幼さが消えた。背負っていた弓へ手を伸ばし、矢筒の中身を素早く確認していく。
そしてアカリの視線が、ミカヅキへ向けられた。
「ミカヅキ、お前も来い」
その言葉に、ミカヅキの胸が大きく高鳴った。
これまでにも巡回や下級の妖の討伐へ同行したことはある。だが、それらはすべて上位の妖伐士が安全を確保した上での補助任務に近いものだった。
村人がすでに襲われ、森にはまだ取り残されている者がいるかもしれない。
これは訓練ではない。誰かの命が懸かった、初めての本格的な討伐任務だった。
「はい!」
ミカヅキは迷わず答え、地面へ置いていた鞘袋を拾い上げる。その中には鍛錬用の木剣ではなく、普段から手入れを欠かしていない一本の古びた刀が収められている。
胸の内には、妖伐士として戦えることへの高揚があった。ようやく自分の剣を役立てられるかもしれないという思いもある。
だが、それと同時に、理由の分からない胸騒ぎが消えずに残っていた。
冷たい風が訓練場を吹き抜ける。
昇り始めた朝日が村を照らしているにもかかわらず、北の森がある方角だけが、未だ夜の闇を抱えているように見えた。
まるで森の奥に潜む何かが、こちらへ気付き、静かに手を伸ばしているかのように。
その正体を知る者は、まだ誰もいなかった。




