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1.届かぬ背中

 朝の空気には、夜の冷たさがまだ色濃く残っていた。

 村の外れを吹き抜ける風が、草葉の先に結ばれた夜露を静かに揺らしている。東の空は薄墨を溶かしたような色から、少しずつ白み始めていたが、太陽が山の向こうから顔を出すにはまだ早い。家々の戸は固く閉ざされ、炊事の煙も上がっていない。村人のほとんどが、今なお深い眠りの中にいる時刻だった。

 そんな静まり返った村を、ミカヅキは一本の木剣を肩に担ぎながら歩いていた。

 目指すのは村外れに設けられた訓練場。幼い頃から一日も欠かすことなく続けてきた、朝の鍛錬へ向かうためだ。

 眠気はとっくに消えている。冷たい風を吸い込むたびに意識は研ぎ澄まされ、身体の奥へ少しずつ熱が灯っていく。幾度となく往復した道を抜け、粗末な木柵に囲まれた訓練場へ足を踏み入れると、土と汗の混じった懐かしい匂いが鼻を掠めた。

 地面は長年の鍛錬によって固く踏み締められ、あちこちに木剣を打ち込んだ痕や、投げ飛ばされた人間が身体を擦った跡が残っている。その大半が自分の残したものだと考えると、少しばかり複雑な気分になった。


「遅いぞ」


 訓練場の中央から、低く不機嫌そうな声が飛んでくる。

 そこには、すでに一本の木剣を手にした男が立っていた。

 夜明け前の薄暗さの中でも、その佇まいに一切の隙はない。肩幅は広く、鍛え上げられた身体は厚い衣服の上からでもはっきりと分かる。四十を過ぎているはずだが、衰えという言葉とは無縁に見えた。

 ミカヅキは空を見上げ、太陽の位置を確かめるような仕草をしてから眉をひそめた。


「まだ約束の時間前だろ、親父」

「時間の話ではない。心構えの話だ」

「毎回それ言うよな」

「毎回お前が言わせている」

「時間を守ってるのに怒られるのは、さすがに理不尽すぎるだろ」


 呆れたように訴えるミカヅキを前に、男――サキヒトは腕を組み、いかにももっともらしい顔で頷いた。


「ふむ。理不尽を理不尽と思っているうちは、まだ未熟ということだな」

「親父、絶対に今考えただろ」

「何のことだ」

「目を逸らすなよ」


 問い詰めても、サキヒトは素知らぬ顔を崩さない。

 この男は村の警護役であり、ミカヅキの父親でもある。普段は寡黙で人付き合いも決して器用な方ではないが、村人からの信頼は厚く、妖や盗賊が現れれば誰よりも先に剣を手に取る。幼い頃から何度も見てきた、頼もしく大きな背中だった。

 同時に、ミカヅキが今なお一度も越えることのできない、最も身近で最も遠い剣士でもある。


「無駄口はそこまでだ。来い」


 サキヒトが短く告げ、右手に持った木剣を下段へ構える。

 大きく振りかぶるわけでもなく、剣先をこちらへ突き付けるわけでもない。ただ自然に立っているように見えるにもかかわらず、どこから打ち込んでも返される光景しか浮かんでこない。

 それでもミカヅキは怯むことなく木剣を肩から下ろし、両手で強く握り締めた。


「今日こそ一本取る」

「昨日も同じ言葉を聞いたぞ」

「昨日は昨日だ。今日は本当に取る」

「明日も同じことを言っていそうだな」

「その減らず口、すぐに黙らせてやる」


 深く息を吸い込み、腰を落とす。

 冷たい朝の空気が肺を満たし、周囲の音が遠ざかっていく。視線の先にいるのはサキヒトただ一人。足の位置、肩の向き、剣を握る指先の力まで見逃すまいと意識を集中させるが、構えから次の動きを読み取ることはできない。

 ならば、迷っていても仕方がない。

 ミカヅキは地面を強く蹴った。

 一歩で間合いを詰め、勢いを乗せた木剣をサキヒトの肩口へ振り下ろす。踏み込みの速さも、刃筋も悪くない。村の妖伐士を相手にすれば、初撃だけで体勢を崩せるほどの一太刀だった。

 だが、サキヒトは慌てなかった。

 木剣が肩へ届く寸前、上体をわずかに傾ける。避けるために動かしたのは、ほんの半歩にも満たない。それだけでミカヅキの木剣は虚しく空を切り、勢いを受け流された身体がわずかに前へ流れた。


「くっ……!」


 踏み止まりながら手首を返し、下から顎を狙って木剣を斬り上げる。しかし、それもサキヒトが首を傾けただけで躱された。


「まだだ!」


 ミカヅキは足を止めない。

 斬り上げた木剣をそのまま頭上で返し、今度は右肩から左脇へと振り下ろす。かわされれば逆袈裟に斬り返し、さらに胴を薙ぎ、手首を狙った小さな斬撃へつなげていく。

 大きな攻撃だけではない。相手の守りを崩すための細かな牽制を混ぜ、足運びを変えながら角度をずらす。一太刀ごとに鋭さと重さを備えながらも、次の攻撃へ滞りなくつながる滑らかな剣筋だった。

 その技量だけを見れば、十六歳の少年が振るう剣とは到底思えない。日が昇る前から木剣を振り、日が沈んだ後も一人で型を繰り返してきた年月が、その一連の動きに刻み込まれている。

 しかし、届かない。

 サキヒトは迫る木剣を紙一重でかわし、ときには自らの木剣を軽く触れさせるだけで軌道を逸らす。速さで圧倒しているわけでも、力任せに弾いているわけでもない。ミカヅキがどこを狙い、次にどう動くのか、そのすべてを初めから知っているかのようだった。

 何度挑んでも、何年追い続けても、目の前に立つ男との距離は一向に縮まらない。

 焦りが胸の内に生まれる。

 あと少し。あと一歩踏み込めば届く。そう自分へ言い聞かせ、ミカヅキはさらに強く地面を蹴った。


「焦るな」

「焦ってない!」

「そうやって即座に否定することを、焦っていると言うのだ」

「うるさい!」


 苛立ちに任せ、渾身の力で木剣を振り下ろした。

 その瞬間、サキヒトの姿が視界から消えた。


「なっ――」


 正確には、消えたのではない。

 木剣を振り下ろした腕へ何かが絡み、踏み込んだ足を払われた。そう理解した時には、すでに身体が宙へ浮いている。視界がぐるりと回転し、白み始めた空が目の前いっぱいに広がった。

 次の瞬間、背中が地面へ叩き付けられる。


「ぐっ……!」


 肺の中にあった空気が一気に押し出され、声にならない呻きが漏れた。受け身を取る余裕すらなく、鈍い痛みが背中から全身へと走る。

 何をされたのか理解しようと顔を上げるよりも早く、サキヒトの木剣の先端が喉元へ突き付けられていた。


「終わりだ」

「……参りました」


 勝負は一瞬だった。

 ミカヅキは抵抗を諦め、地面へ大の字に寝転がった。夜露を含んだ土の冷たさが背中へ染み込んでくるが、今は起き上がる気力もない。


「今の、どうやったんだよ」

「投げた」

「それは俺も分かってる。そうじゃなくて、どうやって投げたのか聞いてるんだよ」

「足を払い、腕を引いた」

「説明を細かくすればいいってもんじゃないだろ」

「聞かれたことには答えたぞ」

「親父、親子の会話って知ってるか?」


 ため息を吐きながら見上げた空は、先ほどよりも明るさを増していた。薄青い空の端が淡い茜色へ変わり始め、もう間もなく山の向こうから朝日が昇るのだろう。

 サキヒトは喉元へ向けていた木剣を引くと、地面に転がる息子を見下ろした。


「剣は悪くない」

「だったら、たまには素直に褒めてくれてもいいだろ」

「問題はそこではない」


 その言葉を聞いた瞬間、ミカヅキは僅かに表情を曇らせた。

 何を言われるのかは分かっている。これまで何度も、数え切れないほど繰り返されてきた言葉だからだ。


「符力を使え」


 予想していたにもかかわらず、その一言は胸の奥へ重く落ちた。

 妖を討ち、人々を守る妖伐士にとって、符力は必要不可欠な力である。

 符を介して妖の気配を探る探知術、身体能力を高める強化術、妖へ傷を負わせる退魔術。ほかにも結界や治癒、炎や風を生み出す術など、符力を用いて行使される技は多岐にわたる。

 剣や弓の腕がいくら優れていても、符力がなければ妖伐士として戦い続けることは難しい。それほどまでに、すべての妖伐士の基礎となる力だった。

 だが、ミカヅキにはその符力がなかった。

 少ないのではない。扱いが不得意というわけでもない。幼い頃から何年も修練を続けてきたというのに、今なお符一枚まともに発動させることができないのだ。

 符へ力を流そうとしても、何も起こらない。強く念じれば念じるほど、流れ込むはずの力が身体の奥で途切れてしまう。まるで、ミカヅキの身体そのものが符術を拒絶しているかのように。


「分かってるよ」


 地面に寝転がったまま答えると、サキヒトは眉一つ動かさずに言った。


「分かっていない」

「毎日やってる。朝は剣の鍛錬をして、夜は符術の本を読んで、符に力を込める練習もしてるよ」

「結果は」

「……出てない」


 口にした途端、悔しさが込み上げた。

 努力が足りないと言われるのなら、まだ耐えられる。足りない分だけ剣を振り、誰よりも長く鍛錬を重ねればいい。

 しかし、どれだけ時間を費やしても、符は沈黙したままだった。昨日できなかったことが今日もできず、今日できなかったことが明日にはできるという確信も持てない。


「剣だけでは守れないものもある」


 サキヒトは静かに告げた。

 責めるような口調ではなかった。だからこそ、ミカヅキは反論できなかった。

 そんなことは誰よりも自分が分かっている。

 妖伐士の階級は、木札、銅札、銀札、金札、白金札、そして最高位である神札の六段階に分けられている。

 現在のミカヅキは最下位の木札級。妖伐士を名乗ることは許されているものの、基本的には上位の妖伐士を補佐し、比較的危険の少ない任務を任される立場に過ぎない。

 剣の技量だけを見れば、木札級に収まる腕ではない。少なくとも銅札級、あるいは銀札級にも届くのではないかと口にする者もいた。

 だが、符力を一切使えないという一点によって、その評価は大きく下がる。

 妖を察知できなければ奇襲を許し、退魔の力を持たない剣では強い妖へ致命傷を与えられない。負傷しても自ら治療できず、結界を張って仲間を守ることもできない。

 剣だけを振るう半人前。

 陰でそう呼ばれていることも、ミカヅキは知っていた。


「……分かってるって言ってるだろ」


 先ほどよりも低い声で答え、ミカヅキは上体を起こした。土の付いた服を手で払いながら視線を逸らすと、サキヒトはそれ以上何も言わなかった。

 互いに言葉を失い、気まずい沈黙が流れかけた、その時だった。


「おはようございます」


 張り詰めかけた空気を払うように、凛とした女性の声が訓練場へ響いた。

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