18. 父の背、その先へ
「受けろ」
逃げるという選択肢を捨て、ミカヅキは両足を大きく開いて腰を落とした。
木剣を斜めに掲げ、上半身だけで受け止めるのではなく、腕から肩、背中、腰、そして地面を踏み締める両脚まで、全身を一つにつなげて衝撃へ備える。
禍津蛇の爪を受けた時にも、これほどの恐怖は感じなかった。
あの異形が振るうのは、ただ圧倒的な力だった。だが、サキヒトの剣には力だけではなく、相手が防ごうとする動きさえ呑み込み、その上から叩き潰すための技が込められている。
避けられない。
受け流すことも許されない。
真正面から受けて、自分がどこまで耐えられるのかを示すしかなかった。
「おおおおおっ!」
恐怖を押し退けるように叫び、ミカヅキは木剣を握る両手へ力を込めた。
サキヒトの一撃が振り下ろされる。
次の瞬間、轟音とともに世界が揺れた。
木剣と木剣がぶつかり合った一点から、目に見えない衝撃が円を描いて広がり、地面へ積もっていた砂や落ち葉を一斉に吹き飛ばす。足元の土が陥没し、踏ん張っていたミカヅキの膝が耐え切れずに沈み込んだ。
「ぐっ……うぅっ!」
全身を貫いた衝撃に、両腕の感覚が消える。
それでも木剣を離すまいと指へ力を込めたが、サキヒトの一撃は受け止めたところで終わりではなかった。刃を合わせたまま押し込まれる力がさらに増し、ミカヅキの身体を支えていた軸が内側から崩されていく。
耐えられない。
そう悟った時には、足が地面から離れていた。
「がっ――!」
ミカヅキの身体が大きく後方へ弾き飛ばされる。
空と地面が激しく入れ替わり、背中から土へ叩き付けられた後も勢いは止まらず、何度も転がりながら訓練場の端まで運ばれていった。
やがて背中が地面へ落ち、ようやく身体が止まる。
目に映ったのは、雲一つない青空だった。
山の端から昇り始めた朝日が、薄く残る朝靄を金色に染めている。つい先ほどまで剣を交えていたことなど嘘のように空は穏やかで、遠くからは目を覚ました鳥たちの鳴き声まで聞こえてきた。
ミカヅキはしばらく、その空を見上げたまま動けなかった。
両腕は痺れて力が入らず、指を曲げようとしても木剣を握っている感覚さえ曖昧だった。背中も腰も激しく痛み、息を吸うたびに胸の奥が軋んでいる。
完全な敗北だった。
先ほど取った一本など、本気を出した父の前では何の意味も持たないのではないかと思えるほど、圧倒的な力の差を見せ付けられた。
それでも、ミカヅキの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「はは……」
乾いた笑いが、朝の訓練場へ小さく響く。
悔しくないわけではない。
手も足も出なかった。見えるようになったと自信を持ち始めていた父の剣を最後まで捉えることはできず、全力で構えたにもかかわらず、たった一撃で吹き飛ばされた。
だが、それ以上に胸の奥から込み上げてきたのは、幼い頃から抱き続けてきた純粋な憧れだった。
父は強い。
自分が思っていたよりも遥かに、途方もないほど強かった。
これまで追い続けてきた背中の本当の大きさを、今日初めて見ることができた。その事実が嬉しくて、全身が痛んでいるというのに、笑いを止めることができなかった。
いつか。
胸の中で、幼い頃から何度も繰り返してきた言葉が浮かぶ。
いつか、この人を越える。
以前は、何も知らないまま口にしていた。どれほどの距離があるのかも、父がどれほど高い場所に立っているのかも分からず、ただ負けた悔しさだけで言い続けてきた。
今は違う。
真正面からその剣を受け、手の届かないほど大きな差を思い知らされた上で、それでも越えたいと心の底から思っている。
土を踏む足音が、ゆっくりと近付いてきた。
ミカヅキが顔を上げると、木剣を肩へ担いだサキヒトが傍らに立っていた。先ほどまで訓練場全体を押し潰していたような気迫は消え、そこにいるのは普段と変わらない無愛想な父親に見える。
「どうだった」
感想を尋ねるには、あまりにも淡々とした声だった。
ミカヅキは痛む身体を起こすことを諦め、地面へ寝転がったまま苦笑する。
「今は、勝てる気がしない」
「随分と素直だな」
「今は、だからな」
ミカヅキはその部分を強調し、父を見上げた。
本気を出したサキヒトには、まだ遠く及ばない。今すぐもう一度挑んだところで、結果は何も変わらず、同じように一撃で吹き飛ばされるだろう。
それでも、永遠に届かないとは思わなかった。
禍津蛇との戦いを経て、以前なら見ることさえできなかった父の剣を、僅かとはいえ追うことができた。真正面から一撃を受け、こうして意識を保ったまま言葉を交わしている。
そして何より、本気を出していなかったとはいえ、父から一本を取ったという事実は消えない。
ほんの一歩。
数え切れないほど叩き伏せられながら追い続けてきた背中へ、ようやく指先が触れたのだ。
「いつか勝つ」
ミカヅキが静かに告げると、サキヒトは僅かに眉を上げた。
「俺が王都で強くなって帰ってきたら、今度は最初から本気でやってもらう」
「気が早いな」
「嫌なのか?」
「まさか」
サキヒトの口元が、ごく僅かに緩んだ。
「その時までに、今より少しはましな剣士になっておけ」
「少しかよ」
「今のお前では、それで十分だ」
「本当に素直に褒めないな、親父は」
「先ほど褒めたばかりだ。二度も必要ない」
「褒め言葉って回数制だったのか……」
呆れたように返しながらも、ミカヅキの胸は不思議なほど温かかった。
サキヒトは感情を言葉にすることが得意ではない。励ます時でさえ厳しい言い方をし、心配しているほど不機嫌そうな顔をする。
だからこそ、その短い言葉に込められたものが分かる。
王都へ行き、もっと多くのものを見てこい。
自分の力が何なのかを知り、今より強くなって帰ってこい。
そして、いつかもう一度ここへ立て。
口には出さずとも、そう背中を押されているように感じられた。
「なら、もっと強くなれ」
サキヒトが告げる。
励ますような口調でも、慰めるような優しさもなかった。ただ、息子ならばその道を進めると信じている者の声だった。
「俺を越えたいのなら、それしかない」
「ああ」
ミカヅキは土へ手をつき、痛む身体をゆっくりと起こした。
両脚が僅かにふらついたが、サキヒトは手を貸そうとはしない。ミカヅキも、それを求めることなく自分の力で立ち上がった。
地面へ転がっていた木剣を拾い、付着した土を軽く払って握り直す。
朝日はすでに山の向こうから姿を現し、訓練場だけでなく、長く暮らしてきた村の屋根や畑を明るく照らしていた。
間もなく出発の時間が来る。
王都では、自分と同じ神の器たちが待っている。歓迎している者ばかりではないとユウマは語り、その中にはミカヅキの力を認めず、敵意を向ける者もいるという。
妖伐士本部へ行けば、布都御魂についても、自分の内側で目覚め始めた神についても、これまで知らなかった事実を突き付けられるのだろう。
不安がないと言えば嘘になる。
自分が本当に武神タケミカヅチの器なのか、禍津蛇が恐れていた存在は何なのか、答えを知ることで、これまでの自分が大きく変わってしまうかもしれない。
それでも、足を止める理由にはならなかった。
知らなければ、あの力を自分のものにすることはできない。強くならなければ、次に同じような災厄が現れた時、アカリやカナメを守れるとは限らない。
そして、父の背中を越えることもできない。
ミカヅキは木剣を腰へ添え、東の空を見上げた。
「王都へ行ってくる」
改めて口にした言葉には、昨夜まで抱いていた迷いはなかった。
「そうか」
「帰ってきたら、また相手してくれよ」
「お前が逃げ出さずに戻ってきたらな」
「誰が逃げるか」
言い返したミカヅキに背を向け、サキヒトは訓練場の出口へ歩き始める。
「支度を済ませろ。遅れれば置いていかれるぞ」
「分かってるよ」
「それと」
サキヒトが足を止めた。
振り返ることはなかったが、その声は朝の風に乗り、はっきりとミカヅキの耳へ届いた。
「必ず帰ってこい」
ミカヅキは僅かに目を見開いた。
いつもの父ならば、無事に帰れ、死ぬな、と命令するように告げただろう。しかし今の言葉は、それよりもずっと率直で、サキヒトが口にするには珍しいものだった。
驚いたのも束の間、ミカヅキは笑みを浮かべる。
「ああ。必ず帰る」
サキヒトはそれ以上何も言わず、朝日に照らされた道を歩いていった。
遠ざかっていく大きな背中を、ミカヅキはしばらくその場で見つめていた。
今はまだ届かない。
それでも、いつか必ず追い付き、その先へ進んでみせる。
胸の奥に生まれた決意は、もう揺らがなかった。
旅立ちの朝日が、王都へ続く新たな道と、そこへ踏み出そうとする少年の背中を静かに照らしていた。




