19.故郷を離れる朝
旅立ち前の稽古を終え、ミカヅキが村へ戻る頃には、東の山から昇った朝日がヒタチ村の屋根を明るく照らし始めていた。
家々の煙突からは朝餉の支度を知らせる白い煙が細く立ち上り、通りでは桶を抱えた村人や、眠そうな顔で家畜の世話へ向かう子供たちの姿が見える。鳥の鳴き声に混じって、井戸端からは賑やかな話し声が聞こえ、昨日までと何一つ変わらない穏やかな朝が、ゆっくりと動き始めていた。
村の入口に設けられた木造の門前には、その景色には少し不釣り合いな一台の馬車が停められている。
妖伐士本部が用意したものらしく、頑丈な車体の側面には本部を示す紋が小さく刻まれ、屋根には長旅に備えた荷物が固定されていた。二頭の馬は手入れの行き届いた毛並みを朝日に輝かせながら、時折落ち着かなそうに蹄で地面を掻いている。
家へ戻って身支度を整えたミカヅキは、荷袋を背負い、布都御魂を腰へ差した姿で門前に立っていた。
あとはアカリたちと合流し、馬車へ乗り込むだけだ。
それだけのことなのに、なかなか最後の一歩を踏み出すことができなかった。
振り返れば、見慣れた村の景色がある。
幼い頃から歩き続けてきた道も、菓子を分けてもらった商店も、何度も傷の手当てを受けた診療所も、すべてがいつも通りの場所にあった。少し視線を上げれば、毎朝サキヒトと剣を交えてきた訓練場へ続く小道が見え、そのさらに遠くには、禍津蛇と戦った北の森の山々が朝靄の向こうへ連なっている。
生まれてからずっと、この村で暮らしてきた。
正確には、生まれた場所さえ分からない自分をサキヒトが拾い、育ててくれた場所だ。それでもミカヅキにとっては、ここが間違いなく故郷であり、今の自分を形作ったすべてが、この小さな村の中にあった。
しばらく帰れなくなる。
その事実を意識すると、胸の奥へ言葉にできない寂しさが広がっていく。
村の外へ出ること自体が初めてというわけではない。妖の討伐や依頼のため、周辺の集落や森へ向かった経験はある。しかし、その日のうちに帰ることのできないほど遠くへ行き、いつ戻れるかも分からないまま故郷を離れるのは、これが初めてだった。
それでも、ここに残るという選択肢はすでにない。
禍津蛇との戦い。
布都御魂の顕現。
そして、神の器として目覚めたとされる自分の力。
あの日を境に、止まっていた何かが確かに動き始めている。
王都へ向かえば、自分の知らなかった世界へ足を踏み入れることになるだろう。サキヒトが隠していることも、禍津蛇が最後に残した言葉の意味も、胸の奥に眠っている神の正体も、そこでなら手掛かりを得られるかもしれない。
さらには、自分と同じように神を宿す者たちが待っている。
期待がないわけではなかった。
だが同じくらい、不安もある。
王都に集まった神の器たちが、自分を歓迎しているとは限らないとユウマは言った。火や武を司る神の力を生まれた時から使い続けてきた者たちが、符力すら持たない木札級の自分を、同じ器として認めるかどうかも分からない。
「随分と難しい顔をしていますね」
不意に横から声を掛けられ、ミカヅキは我に返った。
馬車のそばには、黒い外套を纏ったユウマが立っている。いつからそこにいたのか、全く気付かなかった。
「そんな顔してました?」
「ええ。これから妖の巣へ一人で入ると告げられたような顔でした」
「そこまでじゃないですよ」
「王都も、場所によっては似たようなものかもしれませんが」
「今、聞きたくなかったな、それ」
ミカヅキが顔をしかめると、ユウマは冗談なのか本気なのか分からない笑みを浮かべた。
「緊張するのは当然です。王都へ行けば、これまでと同じ暮らしを続けることは難しくなるでしょうから」
「やっぱり、そうなりますよね」
「ただし、変わることが悪いとは限りません。貴方が何を知り、どの道を選ぶのかは、王都へ着いてから決めればよいのです」
珍しく真っ当な励ましを受け、ミカヅキは驚いたようにユウマを見た。
「監察官らしいことも言えるんですね」
「私は常に監察官らしく振る舞っているつもりですが」
「昨日、王都が荒れるとか言ってた人が?」
「あれも立派な忠告です」
悪びれずに返したユウマの向こうから、聞き慣れた声が響いた。
「ミカ兄ー!」
振り返ると、カナメが道の向こうから大きく手を振りながら駆けてきていた。
背中には使い慣れた弓と矢筒を負い、肩から提げた旅袋が走るたびに大きく揺れている。北の森で受けた傷はまだ完全に癒えていないはずだが、そんなことを感じさせないほど、朝から満面の笑みを浮かべていた。
その少し後ろには、同じく旅装へ身を包んだアカリが歩いている。腰には刀を差し、長い髪を普段より高い位置でまとめた姿は、遠出をする妖伐士らしい凜々しさがあった。
「待った?」
「いや、俺も今来たところだ」
「よかったぁ。忘れ物して、途中で一度戻っちゃってさ」
「何を忘れたんだ?」
「干し肉」
「真っ先に諦めてもよさそうな物だな」
「大事だよ! 道中でお腹が空いたら戦えないでしょ?」
「王都までの食料は馬車にも積んでありますよ」
ユウマが告げると、カナメは一瞬黙り込んだ後、旅袋を守るように抱えた。
「これは私の分だから」
「誰も取りません」
「ユウマさんは細いから分かってないんだよ。食べるのは大事なの」
「細さは関係ないと思いますが」
カナメはそれ以上取り合わず、馬車を見上げると、瞳をさらに輝かせた。
「ついに王都だよ!」
「朝から元気だな」
「だって王都だよ!?」
「昨日も聞いた」
「でも王都だよ!?」
「三回目だな」
ミカヅキが指を三本立てると、アカリが呆れたように息を吐いた。
「昨夜から、ずっとこの調子です。王都へ着く前に声が出なくなれば少し静かになると思ったのですが」
「酷い! アカリ姉だって楽しみでしょ?」
「遊びに行くわけではありません」
「でも、アカリ姉も王都は初めてなんだよね?」
「そうだ」
さらりと返された言葉に、カナメの動きが止まる。
「え?」
「何だ」
「アカリ姉も行ったことないの?」
「意外か?」
「何回か行ってそうな雰囲気だったから」
「どんな雰囲気だ、それは」
納得できないように首を傾げるカナメと、僅かに眉を寄せるアカリを見ているうちに、ミカヅキの口元へ自然と笑みが浮かんだ。
先ほどまで胸の中へ広がっていた寂しさも、不安も、完全に消えたわけではない。それでも、二人が一緒にいてくれるだけで、見知らぬ王都へ向かう旅が少しだけ心強いものに思えた。
「随分と賑やかだな」
後方から届いた低い声に、ミカヅキの笑みが止まる。
振り返ると、道の脇にサキヒトが立っていた。
つい先ほどまで訓練場で剣を交えていた時と変わらない無愛想な顔をしている。旅立ちを見送るために来たはずなのに、腕を組んだ姿からは、別れを惜しんでいるような様子は微塵も感じられなかった。
それでも、サキヒトの姿を見ただけで、ミカヅキの胸が僅かに引き締まる。
「親父」
「支度は済んだのか」
「ああ。荷物も全部持ってきた」
「忘れ物はないな」
「多分」
「多分では困る」
「じゃあ、大丈夫だ」
「本当か?」
「多分」
「やはり駄目だな」
間髪を入れず返され、カナメが吹き出した。アカリも口元を隠して僅かに肩を揺らし、ユウマだけは興味深そうに父子のやり取りを眺めている。
「もう一度、家を見てきた方がよいのでは?」
「ユウマさんまで乗らないでください」
「監察官としての助言です」
「絶対違うだろ……」
ミカヅキが呆れた声を漏らすと、僅かに和らいでいたサキヒトの表情が真剣なものへ戻った。
「ミカヅキ」
「分かってる」
「まだ何も言っていない」
「王都では浮かれるな、勝手な行動をするな、無茶をするな、だろ?」
「一つ抜けている」
「何だ?」
サキヒトはまっすぐに息子を見つめた。
「死ぬな」
短い一言だった。
感情を飾る言葉も、旅立ちを祝う言葉もない。ただ、必ず生きて帰れという命令だけが、いつもと変わらない低い声で告げられる。
けれどミカヅキには、それで十分だった。
サキヒトが不器用な男であることは、もう知っている。心配している時ほど厳しくなり、送り出す時でさえ素直に寂しいとは口にしない。
「分かってる」
今度は冗談を交えず、ミカヅキも真っ直ぐに答えた。
「必ず帰ってくる」
「ああ」
それ以上の言葉は必要なかった。
ミカヅキは荷袋を背負い直し、サキヒトへ深く頭を下げる。そのまま踵を返すと、カナメとアカリに続いて馬車へ乗り込んだ。
最後にユウマが御者台の隣へ腰を下ろし、出発を告げる。御者が手綱を鳴らすと、二頭の馬がゆっくりと歩き始め、車輪が土の道を軋ませながら回り出した。
村の門が少しずつ後方へ離れていく。
道の脇には、いつの間にか何人もの村人が集まっていた。畑仕事の途中なのか鍬を担いだ者もいれば、眠そうな子供を抱えた母親もいる。声を上げて手を振る者たちへ、カナメは馬車から身を乗り出しそうな勢いで手を振り返していた。
「行ってきまーす!」
「落ちるぞ、カナメ」
「大丈夫だって!」
「その言葉ほど信用できないものはありません」
アカリがカナメの帯を掴み、馬車の中へ引き戻す。
ミカヅキはそんな二人の隣から、次第に小さくなっていく故郷の景色を見つめていた。
門のそばには、サキヒトが今も立っている。
腕を組み、いつもの無愛想な表情のまま、遠ざかる馬車を見送っていた。
やがて曲がり道へ入り、その姿も、村の屋根も木々の向こうへ隠れていく。
完全に見えなくなってから、ミカヅキは静かに息を吐いた。
寂しさはある。
それでも、不思議と後悔はなかった。
腰に差した布都御魂へ触れると、鞘の奥から微かな脈動が返ってきたような気がする。
王都へ向かう旅が、始まった。
◇
馬車は初夏の柔らかな日差しを受けながら、王都へ続く街道を進んでいた。
道の両側には青々とした草原が広がり、その向こうには深い森と緩やかな丘陵が連なっている。時折吹き抜ける風が馬車の覆いを揺らし、草木の匂いを運んでくる穏やかな旅路だった。
少なくとも今のところは、妖の気配もなければ、道を塞ぐ者の姿もない。
カナメは最初こそ窓から見える景色の一つ一つへ声を上げていたが、村を出てしばらくすると、今度は王都について気になることを尋ね始めていた。
「そういえば、王都には神の器が集まってるんだよね?」
向かいに座るアカリへ身を乗り出すと、馬車が小さな石を踏み、カナメの身体が大きく揺れた。慌てて座席へ手をついた妹を見て、アカリはため息をつきながら頷く。
「本部が所在を把握している器の多くは、すでに王都へ集められているそうです。今回の召集には、各地で増えている妖の動きについて話し合う目的もあるのでしょう」
「どんな人たちがいるんだ?」
ミカヅキも自然と身を乗り出した。
自分以外の神の器について、これまで詳しく知る機会はなかった。噂として名前を聞いたことさえほとんどなく、王都に何人いるのかも、それぞれがどのような力を使うのかも分からない。
アカリは少し考えた後、記憶を辿るように口を開いた。
「最も有名なのは、火神カグツチの器でしょう。ヒノカという少女です」
「少女?」
「ああ。年齢はミカヅキより下のはずですが、神の器の中でも最強候補と呼ばれている」
「最強……」
「生まれながらに強い神威を持ち、炎を自在に操るそうです。本気で力を解き放てば、一帯を火の海へ変えることもできるとか」
想像したのか、カナメの顔から笑みが消えた。
「……怖そう」
「会ってもいない相手を決めつけるものではありません」
「でも、火の海にできる人だよ?」
「それと性格は別だ」
「怒らせたら燃やされそう」
「だから、怒らせなければよいでしょう」
「会う前から怒らせる前提なんだな」
ミカヅキが苦笑すると、アカリは視線を逸らした。
「念のためです」
御者台の方から、ユウマの小さな笑い声が聞こえたような気がしたが、アカリは聞こえなかったことにしたらしい。
「ほかには?」
カナメが尋ねると、アカリは話を続ける。
「武神タケミナカタの器も王都にいると聞いています。名はソウジロウ。大弓を扱う妖伐士で、神の器としての実力だけでなく、人柄でも慕われているそうです」
「大弓か」
弓使いであるカナメが、先ほどまで以上に目を輝かせる。
「会ってみたい!」
「お前の場合は、まず弓を見せてもらいたいだけだろう」
「それもあるけど、どんなふうに射るのか気になるじゃん。神様の力を弓に乗せるのかな?」
「詳しいことは私も知りません。ただ、タケミナカタの器は珍しく、一つの一族で代々受け継がれているといわれています」
「器って、受け継げるものなのか?」
ミカヅキが尋ねると、アカリは僅かに首を横へ振った。
「すべての器がそうではありません。神が誰を選ぶのか、何をきっかけに宿るのかは、今でも分からないことの方が多い。ただ、タケミナカタの器だけは、同じ血筋から現れ続けていると記録されています」
話を聞けば聞くほど、自分が何も知らないことを思い知らされる。
神の器とは、ただ神の力を宿す者たちをまとめて呼ぶ言葉ではない。
生まれた時から神威を扱える者がいれば、ミカヅキのように長い間何の力も示さない者もいる。炎を操る者もいれば、弓を武器とする者もおり、その宿命が一人で終わることなく、一族へ受け継がれる場合さえある。
自分がタケミカヅチの器であるという話も、布都御魂が目覚めたことから周囲が導き出した答えに過ぎない。
同じ神の器と会えば、その答えに近付けるのだろうか。
ミカヅキが腰の布都御魂へ手を添えた、その時だった。
アカリの表情から、先ほどまでの穏やかさが消えた。
「御者殿、馬車を止めてください」
鋭い声が飛び、御者が反射的に手綱を引く。
二頭の馬が嘶き、速度を落とした馬車が街道の中央で止まった。
「アカリ姉?」
カナメが怪訝そうに顔を上げる。
アカリは答えなかった。
片手を刀の柄へ添えたまま、道の両側に広がる森へ鋭い視線を向けている。
馬車が止まったことで、ミカヅキも周囲の異変に気付いた。
先ほどまで聞こえていた鳥のさえずりが、いつの間にか途絶えている。
風は変わらず木々を揺らしているのに、枝葉の間から動物の気配が一つも伝わってこない。虫の鳴き声さえ消え失せ、森全体が息を潜めながら、何かが現れる瞬間を待っているようだった。
やがて、木々の奥から低い唸り声が響いた。




