17.父の本気
「望むところだ」
胸の内で膨れ上がる高揚を抑え込み、ミカヅキが木剣を構え直した、その直後だった。
サキヒトの姿が視界から消えた。
「――っ!?」
何か特別な術を使ったわけではない。ただ地面を蹴り、間合いを詰めただけのはずなのに、踏み込みの瞬間も、身体が動き出す前触れも、ミカヅキの目には何一つ映らなかった。
禍津蛇との戦いを境に、人の動きが以前より鮮明に見えるようになった。足を踏み出す直前に移る重心、剣を振る前に強張る肩や指先、次の攻撃へつながる呼吸の変化――相手が動き始めるよりも僅かに早く生まれる「起こり」を、意識せずとも捉えられるようになったはずだった。
だが、サキヒトにはそれがない。
踏み込むと決めた瞬間と、実際に身体が動き出した瞬間の間に、見抜くべき兆しが存在していないかのようだった。
「どこだ……!」
反射的に木剣を胸元へ引き寄せ、右、左と視線を走らせる。背後へ回り込まれた気配もない。それでもサキヒトの姿はどこにも見えず、耳へ届くのは朝靄の中を吹き抜ける風の音だけだった。
次の瞬間、背筋を冷たいものが駆け上がる。
理屈ではなく、身体が危険を訴えていた。
「上か!」
ミカヅキは咄嗟に両足を踏み締め、木剣を頭上へ掲げた。
直後、落雷にも似た一撃が振り下ろされる。
轟ッ――!
木剣同士がぶつかったとは思えない衝突音が訓練場を揺らし、ミカヅキの両腕を凄まじい衝撃が貫いた。全身の骨が軋み、足元の固い地面へ踵が深く沈み込む。
「ぐっ……!」
押し潰されまいと歯を食いしばるが、受け止めた木剣は少しずつ頭上へ近付いてくる。巨木が倒れてきたどころではない。山そのものが剣の形となり、真上から圧し掛かってくるような重さだった。
それでも、どうにか受けた。
以前の自分なら、攻撃が来たことさえ分からないまま地面へ叩き伏せられていただろう。その一撃を完全ではないにせよ防げたことに、ミカヅキ自身が誰よりも驚いていた。
サキヒトは頭上から木剣を押し付けたまま、僅かに目を細める。
「ほう」
感心したように漏らされたのは、たったそれだけだった。
しかし、その短い一言が、ミカヅキの背中へ冷たい汗を流れさせる。
今の一撃でさえ、父にとっては様子見に過ぎない。
そう理解した時には、サキヒトが木剣を引いていた。
「待っ――」
言葉を最後まで発するよりも早く、その姿が再び朝靄へ溶ける。
今度は頭で考えず、身体の感覚だけへ意識を預けた。目に映るものだけを追うのではなく、足元を伝う振動や空気の揺れ、肌に触れる風の流れから、父の位置を読み取ろうとする。
左。
そう感じた瞬間、横合いから木剣が迫った。
「くっ!」
ミカヅキは木剣を立てて受け止めたが、打ち合った衝撃によって腕が大きく外へ弾かれる。胴が空いたと気付くより先に、サキヒトの木剣がすでに次の軌道へ入っていた。
ミカヅキは地面を蹴り、後方へ身を投げる。
木剣の先端が衣服の胸元を掠め、鋭い風圧が肌を撫でた。
距離を取ったはずだった。
だが着地した時には、サキヒトが眼前まで迫っている。
右肩から振り下ろされる木剣を斜めに受け流し、返す刃で胴を狙うものの、その一撃は空を切った。いつ避けたのかすら分からないまま父の姿が視界の端へ移り、今度は下段から斬り上げる一太刀が迫ってくる。
受ける。
弾かれる。
踏み止まる間もなく、逆側から次の一撃が飛んでくる。
サキヒトの剣は一つとして同じ軌道を通らなかった。重く叩き潰すような斬撃の直後に、手首だけを狙う小さく鋭い一太刀が混じり、それを防げば次は足を払うような低い攻撃が来る。正面から打ち込んできたかと思えば、木剣を合わせる直前に力の向きを変え、ミカヅキの体勢だけを崩して横へ回り込んでいく。
速さだけではない。
力だけでもない。
相手が何を見て、次にどう動こうとしているのかを読み切った上で、その判断を一つずつ裏切ってくる。
乾いた衝突音が、静かだった訓練場へ絶え間なく響き続けた。
何合打ち合ったのか、途中から数える余裕など失われていた。息はすでに荒く、木剣を握る両手は痺れ、腕を持ち上げるだけでも肩が軋んでいる。
それでもミカヅキは倒れていなかった。
防ぐたびに体勢を崩され、受け流すたびに腕が悲鳴を上げる。それでも次の攻撃だけは見失わず、紙一重のところで木剣を滑り込ませ、どうにか急所へ届く一撃を防ぎ続けている。
以前ならば、何をされたのか理解するより先に勝負は終わっていた。
今は違う。
完全に捉えているわけではない。それでも父の剣が見える。刃が通ろうとする道も、踏み込みによって生まれる僅かな風も、意識の端へ引っ掛かっている。
だからこそ、嫌というほど理解できた。
(強い……!)
剣の速さも、一撃の重さも、間合いを支配する技術も、数え切れない死線を越えてきた経験も、そのすべてが自分より遥かに上にある。
一本を取れたことで、少しは父へ追い付いたつもりになっていた。
だが、サキヒトが本気を見せたことで、これまで見えていなかった距離が初めて姿を現した。手を伸ばせば届くと思っていた背中は、実際には高い山の頂にあり、自分はようやく麓へ辿り着いたに過ぎない。
悔しい。
だが、それ以上に胸が躍った。
遠すぎて見えなかった場所が、今ははっきりと見えている。どれほど険しくとも、同じ道の先に父が立っているのなら、歩き続ければいつか辿り着けるかもしれない。
(届かないわけじゃない)
サキヒトの木剣を受け流しながら、ミカヅキは強く地面を踏み締めた。
禍津蛇との戦いで布都御魂が目覚め、自分の中に眠っていた何かも動き始めた。つい先ほどには、何年も追い続けてきた父から初めて一本を取ることができた。
確かに前へ進んでいる。
その事実が、痺れた腕へ再び力を与えた。
「まだだ!」
ミカヅキは打ち込まれた木剣を外へ滑らせ、そのまま父の懐へ踏み込む。胴を狙って横薙ぎに振るったが、サキヒトは半歩だけ身体を引き、切っ先を紙一重でかわした。
返す木剣で追撃しようとした、その時だった。
サキヒトの動きが止まった。
「……?」
ほんの一瞬の静止。
それまで間断なく続いていた攻撃が突然途切れ、ミカヅキの耳へ、自らの荒い呼吸と早鐘のような鼓動が戻ってくる。
好機にも見えた。
だが、踏み込んではならないと本能が叫んでいた。
サキヒトは木剣を下げたまま、何の構えも取らずに立っている。それなのに先ほどまでとは比較にならないほど濃密な気迫が、その身体の内側へ集まり始めていた。
これは隙ではない。
次の一撃を放つために、あらゆる力が静かに一点へ収束している。
気付いた時には、サキヒトの身体が僅かに沈んでいた。
足の指が土を掴み、腰が落ち、木剣を握る腕がゆっくりと持ち上がる。
ただ剣を振り上げている。
それだけのはずなのに、訓練場の空気が低く震え、周囲に漂っていた朝靄がサキヒトを避けるように左右へ流れていく。
ミカヅキの喉が鳴った。
目の前に立っているのは一人の人間であるはずなのに、巨大な山が頭上へ影を落とし、今にも自分を押し潰そうとしているような錯覚に襲われる。
逃げろ。
先ほどよりも強く、本能が警告していた。
その一撃は受けてはならない。横へ飛び、間合いから逃れなければ、木剣ごと身体を砕かれる。
だが、ミカヅキは足を動かさなかった。
ここで逃げれば、父が見せようとしているものを最後まで受け取ることはできない。
サキヒトの木剣が、頭上で静かに止まる。
「受けろ」
短い言葉が落ちた。
その瞬間、ミカヅキは木剣を両手で握り締め、全身の力を足元へ集めた。




