16. 父という壁の向こう側
「一本だ」
幼い頃から、何度この言葉を夢見てきただろう。
木剣を握れるようになってから毎日のようにサキヒトへ挑み、勝負になる前に投げ飛ばされた日もあれば、一太刀も振れないまま喉元へ剣を突き付けられた日もあった。
少し強くなったと思えば、翌朝にはその自信ごと叩き折られ、それでも諦め切れず、また木剣を握った。
何百回、何千回と挑み続けても、父の背中は遠いままだった。
追い付くどころか、距離がどれほどあるのかさえ分からない。
それでも、いつか必ず一本を取ると口にし続けてきた。
その言葉がようやく現実になったのだと理解した瞬間、胸の奥から熱いものが一気に込み上げてきた。
「やった……」
掠れた声とともに、自然と笑みが零れる。
木剣を握った手は震え、早朝の冷たい空気の中にいるはずなのに、顔も胸も熱くて仕方がなかった。
そんな息子を見つめていたサキヒトも、ほんの僅かに口元を緩める。
「確かに強くなったな」
その言葉を聞き、ミカヅキはさらに目を見開いた。
サキヒトが自分の剣を認めた。
それも、剣は悪くない、まだ甘い、といった遠回しなものではなく、はっきりと強くなったと言ったのだ。
幼い頃から積み重ねてきた日々が、胸の中へ次々と蘇る。
掌の皮が裂けても木剣を離さなかった日。身体中が痛み、寝台から起き上がるのも辛かった朝。それでも父が訓練場で待っていると思えば、歯を食い縛って立ち上がった。
符力が使えず、妖伐士として半人前だと笑われても、剣だけは誰にも負けまいと振り続けてきた。
そのすべてが報われたような気がした。
視界が滲み、ミカヅキは慌てて空いている手で目元を拭う。
「なんで泣いてるんだよ、俺……」
自分でも情けなくなり、笑いながらもう一度目を擦った。
「一本取ったくらいで泣く奴があるか」
「仕方ないだろ。親父から一本取るのに、何年掛かったと思ってるんだ」
「知らん」
「数えてないだけだろ」
「数える暇があるなら剣を振れ」
「こういう時くらい、もう少し素直に喜ばせてくれてもいいだろ」
ミカヅキが不満そうに言うと、サキヒトは小さく鼻を鳴らした。
「馬鹿者」
いつもと変わらない言葉だった。
だが、その声音は普段よりも僅かに柔らかく、ミカヅキの成長を誰よりも喜んでいることが、言葉にされずとも伝わってくる。
しばらく二人の間を穏やかな沈黙が流れた。
東の空はすでに白み始め、山の稜線から朝日の光が差し込もうとしている。あと少しすればアカリやカナメも支度を終え、ユウマと合流する時間になるだろう。
最後の朝稽古で、初めて父から一本を取った。
それだけでも、旅立ちの日としては十分すぎる出来事だった。
ミカヅキが木剣を下ろしかけた、その時だった。
「一本取った褒美だ」
サキヒトが何気ない口調で告げ、木剣を肩へ担いだ。
「褒美?」
ミカヅキが首を傾げる。
「親父が何かくれるなんて珍しいな。王都へ持っていける物なら――」
言葉は、そこで止まった。
サキヒトが木剣を担いだだけで、訓練場を満たす空気が一変したからだ。
冷たい朝の空気が、さらに重さを増したように感じられた。
風は変わらず吹いている。鳥の声も遠くで聞こえている。それにもかかわらず、サキヒトを中心とした一帯だけが、別の場所へ切り離されたように静まり返っていた。
これまでの稽古でも、父から圧迫感を覚えたことは何度もある。
どこへ打ち込んでも返される。
一歩間合いへ踏み込めば、次の瞬間には地面へ転がされる。
そう確信させる隙のなさは、幼い頃から嫌というほど味わってきた。
だが、今目の前に立つ男から放たれているものは、それまで感じてきた気配とは比べ物にならなかった。
巨大な獣を前にした時のように、肌が粟立つ。
背筋へ冷たいものが走り、身体の奥深くにある本能が、今すぐこの場から離れろと警告を発している。
ただ立っているだけだ。
神威を発しているわけでも、符力で身体を強化しているわけでもない。
それでも、足が勝手に後退しそうになる。
「親父……?」
ミカヅキの口から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
サキヒトは答えず、肩へ担いでいた木剣をゆっくりと下ろす。
構えと呼ぶには、あまりにも自然な姿勢だった。
腕にも肩にも余計な力は入っておらず、足の位置も、木剣の角度も、先ほどまでと大きく違っているようには見えない。
隙だらけに見える。
しかし、どこにも踏み込めない。
一歩進もうと考えただけで、喉、胸、手首、足と、身体中を同時に打ち砕かれる光景が頭の中へ浮かび上がる。どの角度から仕掛けても、木剣を振り始めるより先に勝負が終わっている。
これが、父の本当の姿。
かつて各地を渡り歩き、数多の妖を斬り伏せ、その名を轟かせた剣士――カシマ・サキヒトが、長い間隠し続けてきた剣気だった。
「どうした」
低く落ち着いた声が響く。
「まさか、一本取っただけで満足したわけではあるまいな」
挑発するような言葉だった。
ミカヅキは唾を飲み込み、木剣を握り直す。掌にはいつの間にか汗が滲み、指先が僅かに震えていた。
怖い。
禍津蛇と向かい合った時とは違う。
目の前の男が自分を殺さないことは分かっている。それでも、剣士としての本能が、その一歩を踏み出すことを恐れている。
だが、胸を満たしているのは恐怖だけではなかった。
幼い頃から追い続けてきた背中が、初めてその先を見せようとしている。
今まで自分が挑んでいた父は、まだ本気ではなかった。
その事実に悔しさを感じるよりも先に、強い高揚が込み上げてくる。
どこまで遠いのか。
今の自分の剣が、父の本気を前にどこまで通じるのか。
それを確かめたい。
たとえ一瞬で叩き伏せられるとしても、背を向けるという選択肢だけはなかった。
サキヒトが木剣を軽く振る。
ただそれだけの動作だったにもかかわらず、刃が通った場所の空気が低く唸ったような錯覚を覚えた。
「褒美をやろう」
静かな声が、朝靄の中へ落ちる。
「俺の本気を見せてやる」
ミカヅキの背筋を、鋭い戦慄が駆け抜けた。
それでも口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
「望むところだ」
震えていた指へ力を込め、木剣を正眼へ構える。
サキヒトの気迫に押されていた足が、今度はしっかりと地面を捉えた。
山の端から朝日が顔を覗かせ、流れていく朝靄の向こうで、二人の影を長く伸ばしていく。
旅立ちの日。
父と交わす、しばしの別れを前にした最後の稽古。
そして、ミカヅキが長年追い続けてきた壁の、その向こう側を初めて目にする戦いが、今まさに始まろうとしていた。




