15. 旅立ち前夜、届いた一太刀
王都への出発を翌日に控え、ミカヅキは自室の床へ広げた荷物を前に、先ほどから同じものを入れては取り出す作業を繰り返していた。
着替えに手拭い、傷薬と保存食、それから旅の途中で必要になる最低限の道具。王都へ向かう街道は比較的整備されていると聞いていたが、村の外へ長く出た経験などほとんどないため、何をどれほど持っていけばいいのか見当がつかず、荷袋は詰め直すたびに形を変えている。
「こんなもんでいいのか……?」
誰に尋ねるでもなく呟き、ミカヅキは畳んだ衣服を荷袋へ押し込んだ。
王都タカマガへ向かう。
口にすれば簡単なことのように聞こえるが、その事実は今もどこか他人事のようで、明日の朝になればいつものように村外れの訓練場へ向かい、サキヒトに何度も地面へ転がされるのではないかという気さえしていた。
けれど、机の上に置かれた妖伐士本部からの召集状も、部屋の隅にまとめられた旅装も、これまでと同じ日々が終わろうとしていることを否応なく物語っている。
「本当に、王都へ行くんだよな……」
ミカヅキは荷造りの手を止め、開け放たれた窓の向こうへ目を向けた。
夕暮れに染まる村は、明日から自分たちがいなくなることなど知らないように、いつもと変わらない穏やかな時間を刻んでいる。道を走り回る子供たちの笑い声が遠くから聞こえ、家々の屋根からは夕餉の支度を知らせる白い煙が立ち上っていた。
何度となく目にしてきた風景だった。
朝になれば村人たちが畑へ向かい、日が暮れれば家族の待つ家へ帰る。妖が現れたという知らせがあれば妖伐士が剣を手に取り、それが片付けば、また変わらない日々が続いていく。
これまでのミカヅキにとって、その小さな世界がすべてだった。
王都には当面滞在することになるらしい。サキヒトとユウマの取り計らいによって、アカリとカナメも妖伐士本部の施設へ身を寄せることが認められ、村の警護にはサキヒトに加えて、本部から銀札級の妖伐士が一人派遣されることになっている。
守りが手薄になる心配はない。
むしろ自分が残るよりも、よほど確実に村を守ってくれるだろう。頭ではそう理解していても、生まれ育った場所を離れる寂しさまでは、簡単に割り切れるものではなかった。
窓枠へ肘を置き、遠くまで続く山の稜線を眺めていると、沈みかけた夕日が空を茜色に染め上げていく。その山々のさらに先に、自分の知らない街や人々、そして王都タカマガがあるのだと思うと、不安と同時に、押さえ切れない期待が胸の奥へ湧き上がった。
妖伐士本部。
自分と同じ神の器たち。
布都御魂の秘密と、自らの内に眠る神の正体。
村に留まったままでは、きっと何一つ分からない。それでも一歩踏み出せば、今まで知ろうともしなかった世界と向き合わなければならなくなる。
少しばかり感傷に浸っていたミカヅキの視線が、ふと壁際へ向いた。
そこには、一振りの太刀が静かに立て掛けられていた。
神剣・布都御魂。
北の森で禍根蛇と戦った際、長い沈黙を破って本来の姿を現した神代の剣である。
今は鞘に収められ、あの時のような蒼白い光も、森を震わせた圧倒的な存在感も感じられない。ただ、王都の名工が作ったと説明されても信じてしまいそうな、静かで美しい一振りとして佇んでいる。
しかし、何も起きていないわけではなかった。
あの日から布都御魂へ目を向けるたび、その奥深くに何かが眠っていることを感じるようになった。呼び掛けても言葉が返ってくるわけではなく、手に取ったからといって蒼白い神威を引き出せるわけでもない。
それでも、確かにそこにいる。
長い眠りから目覚めかけた何者かが、鞘と刃を隔てた向こう側から、ミカヅキの一挙一動を静かに見つめているような気がしてならなかった。
変化は、刀だけに起きたものではない。
禍根蛇との戦いから目を覚ました後、ミカヅキの目に映る世界は、以前より僅かに鮮明さを増していた。
風に揺れる木の葉の細かな動きや、人が足を踏み出す直前に重心を移す瞬間。剣を振り始めるよりもわずかに早く生まれる肩や指先の力みまで、意識を集中すれば自然と目に入ってくる。
身体の感覚も鋭くなっていた。
同じように剣を振っているはずなのに、足から腰へ、腰から肩へと力が伝わっていく流れが、これまで以上にはっきりと分かる。刃がどの角度を通れば最も無駄がなく、どこで力を抜けば次の斬撃へ滑らかにつなげられるのか、それまで感覚に頼っていたものが、手を伸ばせば触れられそうなほど明確になっていた。
強くなったのだと思う。
だが、それを素直に自分の力だとは言い切れなかった。
まるで、誰かが長い年月をかけて磨き上げた剣を、自分の身体を通して一瞬だけ見せているような、奇妙な感覚が残っている。
ミカヅキは立ち上がると、壁際の布都御魂へ歩み寄った。
鞘へ収められたままの神剣へ手を伸ばし、柄を静かに握る。ひんやりとした感触が掌へ伝わったが、北の森で感じた灼けるような熱も、魂の奥へ響いた鼓動もなかった。
「……あれは、何だったんだ」
森を白く染めた蒼白い光。
燃え盛る世界と、天地を断ち切った巨大な影。
そして、禍根蛇が最期に口にした「あのお方」という言葉。
考えるほどに疑問は増えていくが、布都御魂は何一つ答えず、ただミカヅキの手の中で沈黙を守り続けていた。
それでも柄から手を離そうとした時、掌の奥へ、脈動にも似た微かな震えが伝わったような気がした。
「王都へ行けば、分かるのか……?」
返事はない。
だが、少なくとも確かめるべきものが王都にあることだけは、妙にはっきりと感じられた。
ミカヅキは布都御魂から手を離し、再び荷物へ向き直った。
不安が消えたわけではない。
それでも、ここで立ち止まるつもりはなかった。
◇
翌朝。
太陽が山の向こうから顔を出すよりも早く、ミカヅキは村外れの訓練場へ立っていた。
薄い朝靄が地面を覆い、夜の冷たさを残した空気が肌を刺している。普段ならサキヒトが先に待っているはずの場所には、まだ誰の姿もなく、静まり返った空間に木剣が風を切る音だけが規則正しく響いていた。
今日は王都へ発つ日だ。
日が昇ればユウマと合流し、アカリやカナメとともに村を出る。だからこそ、旅立つ前にもう一度だけ、幼い頃から続けてきた朝の鍛錬をしておきたかった。
足を踏み出し、木剣を振り下ろす。
返す刃で斜めに斬り上げ、腰を回しながら横薙ぎへつなげる。呼吸と足運びを合わせ、力の流れを確かめながら、何度も同じ型を繰り返した。
禍根蛇との戦いを境に、自分の感覚が変わったことは間違いない。
剣の軌道が以前より鮮明に見え、踏み込むべき位置も自然と分かる。しかし、それはまだ借り物のように身体へ馴染まず、意識しすぎればかえって動きが乱れた。
自分は本当に強くなったのか。
それとも、布都御魂の力に一時的に引き上げられているだけなのか。
その答えを確かめたいという思いも、この場所へ来た理由の一つだった。
木剣を振り下ろし、足を止めた時、入口の方から土を踏む音が聞こえた。
振り返ると、朝靄の向こうにサキヒトが立っている。いつものように鍛錬着へ身を包み、右手には使い込まれた木剣を持っていた。
「今日は俺の方が早かったな、親父」
少し得意げに告げると、サキヒトは訓練場へ入りながら、珍しいものでも見るように息子へ目を向けた。
「まさか、お前に先を越される日が来るとはな」
「俺だって少しくらい成長する」
「王都へ行くと決まっただけで心構えまで変わるのなら、もっと早く追い出しておくべきだったか」
「朝から息子を追い出そうとするなよ」
「旅立ちを促しているだけだ」
「言い方の問題じゃないだろ」
普段と変わらないやり取りを交わしていると、不思議と胸の奥にあった緊張が薄れていった。
明日から何が待っているのかは分からない。
だが今この場所では、いつもと同じように、父へ剣を向ければいい。
「それで?」
サキヒトが持っていた木剣を軽く持ち上げる。
「随分と早くから振っていたようだが、少しは心構えというものが身に付いたのか?」
「たぶんな」
「曖昧だな」
「だったら、確かめればいいだろ」
ミカヅキが木剣を構えると、サキヒトの口元が僅かに緩んだ。
「ほう。言うようになったな」
ゆっくりと木剣を下段へ構える。
「では、それが本当かどうか――剣で確かめるとしよう」
その一言で、訓練場の空気が変わった。
ミカヅキも自然と表情を引き締め、両手で握った木剣を正眼へ据える。
父であり、師であり、幼い頃から追い続けてきた最も高い壁。
何度挑んでも届かず、数え切れないほど地面へ転がされてきた相手だ。
今日でしばらく、この場所で剣を交えることはできなくなる。だからこそ、一太刀でもいい。これまでの自分とは違うのだと、成長した姿を見せたかった。
朝靄の中で、二人の視線が交わる。
「行くぞ、親父」
「来い」
短い言葉が落ちた次の瞬間、ミカヅキは地面を蹴った。
踏み込んだ足元から土が弾け、二人の間にあった距離が一息に消える。振るった木剣は鋭く風を切り、迷いのない軌道でサキヒトの胴へ迫った。
これまでにも何度となく放ち、そのたびに容易く捌かれてきた一太刀。
だが、今回は違った。
受け止めたサキヒトの木剣が、ほんの僅かに内側へ押し込まれる。
「っ――」
ミカヅキは目を見開いた。
崩した、と呼べるほど大きなものではない。それでも、これまで微動だにしなかった父の構えが、確かに揺らいだ。
その一瞬を、逃すつもりはなかった。
ミカヅキはさらに深く踏み込み、弾かれた木剣を即座に引き戻すと、右から胴を薙ぎ、受けられれば手首を返して左の肩口を狙う。そこから袈裟斬り、逆袈裟へと流れるように軌道を変え、サキヒトが守りを整える暇を与えないまま連撃を重ねていった。
乾いた木剣の音が、早朝の訓練場へ途切れることなく響く。
一撃ごとの速さだけではない。次の攻撃へ移る際の無駄が減り、足運びも以前より深く、鋭くなっている。
ミカヅキ自身にも、それが分かった。
父の木剣がどこへ動くのか、完全に見えているわけではない。それでも、サキヒトが剣を返す直前、肩や肘へ生まれる僅かな変化を、身体が自然と拾い上げていた。
ここだ。
考えるより先に足が動く。
サキヒトの防御が整う前へ踏み込み、さらに斬撃をつなげる。流れを一度でも手放せば、すぐに形勢を覆されることは分かっていた。
だから止まらない。
ただ前へ、ひたすら父の剣へ食らい付いていく。
サキヒトはいつもと変わらず無言で木剣を操っていたが、その目だけは、これまで以上に鋭くミカヅキの動きを見据えていた。
踏み込みも、間合いの読みも、剣をつなぐ判断も、禍津蛇との戦い以前とは明らかに違う。
布都御魂が目覚めた影響なのか、それとも死線を越えたことで、元から備わっていたものが磨かれたのか、今のサキヒトにも答えは出せない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
強くなった。
息子は間違いなく、以前よりも遥かに高い場所へ足を掛け始めている。
サキヒトが迫る木剣を受け流そうとした、その時だった。
ミカヅキの手首が僅かに動く。
真正面から押し切ると見せかけた木剣が、サキヒトの刃へ触れた瞬間、滑るように軌道を変えた。
「――!」
受け流したはずの木剣が防御の内側へ入り込み、その切っ先がサキヒトの胸元へ届く。
コン――。
驚くほど軽い音が、訓練場へ響いた。
木剣の先端が、サキヒトの胸へ触れている。
吹き抜けた風が朝靄をゆっくりと押し流し、二人の間へ冷たい空気を運んだ。
ミカヅキは木剣を突き出した姿勢のまま、呆然と目を見開いていた。
「……え?」
何が起きたのか、自分でもすぐには理解できなかった。
当たった。
何度挑んでも、これまで一度として届かなかった父へ、自分の剣が確かに触れている。
「今の……入ったのか?」
震える声で尋ねると、サキヒトは胸元へ向けられた木剣を見下ろし、しばらく何も答えなかった。
やがて静かに息を吐く。
「一本だ」
短い言葉だった。
だが、ミカヅキにとっては、それだけで十分だった。




