第八章 在庫表に潜む影
翌朝、副料理長と私は料理長の部屋にいた。
机の上に、紙包みに入った灰色の粉と、私の作った在庫表、そして食材庫の出入記録が並んでいた。料理長は腕を組み、灰色の粉を蝋燭の光に透かして眺めていた。
「これは、確かに毒だ。ゆっくり効く類いだろう」
「皇太子殿下に、近づいているということですか」
「過去の事例だと、即効性のものは毒見役で見抜ける。ゆっくり効くものは、見抜けない。だから、こちらに混ぜたのだろう」
料理長は出入記録を一枚ずつめくった。
「アカネ、お前が並べ替えてから、三日以内に動いた者はいるか」
「ここに、神官付きの侍女、と」
料理長は記録を見て、低く唸った。
「この侍女は、聖女イレーナ様の侍女だ」
部屋の空気が凍った。
副料理長が口を開いた。
「料理長、これは慎重に運ばないと、こちらが消されますよ」
「分かっている」
「皇太子殿下に、直接ご報告するしかないかと」
料理長はゆっくりと頷き、私に視線を向けた。
「アカネ、皇太子殿下のところへ、私と一緒に行ってもらう」
「私がですか」
「お前が見つけたんだ。お前の口で語るほうが、誤魔化されない」
午後、私と料理長は皇太子の執務室に通された。
窓の大きな部屋だった。机の上に、地図と書類が積まれている。レイノルドは私たちを見て、すぐに人払いをした。
「アカネ、副料理長から話は聞いた。詳しく頼む」
私は静かに、樽の重さの違和感、灰色の粉、出入記録の照合、すべてを話した。
レイノルドは私の話を最後まで聞き、長く目を閉じた。
「君は、なぜ気づいた」
「樽の位置が、私の並べ方と違っていたからです」
「それは、誰でも気づくことか」
「いえ。私が毎日見ていたからです」
私は机の上の在庫表を指した。
「在庫表は、誰が、いつ、何を、どれだけ動かしたかを残します。今日と昨日と一昨日と、毎日比べれば、ずれは必ず出ます。私はずれを記録しているだけで、特別なことはしていません」
「だが、誰も、それをやっていなかった」
「はい」
レイノルドは机を回り、私の前に立った。それから、ゆっくりと、片膝をついた。
料理長と副料理長が息を呑んだ。
「殿下」
「アカネ。礼を言う」
彼は私の手を取った。
「君が来てくれなければ、私は静かに死んでいた」
私は何を返していいか、分からなかった。
手柄を取られないように身構える、という習慣が、私の中で揺らいだ。
「殿下、頭を上げてください。私は誰でもできることをしただけで」
「誰でもできる、を、今までこの王宮の誰もしなかった」
レイノルドは立ち上がり、私の目を見た。
「君を、この王宮の中央厨房の改革責任者に任じる」
「私は補助です」
「補助でいい。肩書はあとからついてくる」
彼の声は静かだったが、議論の余地のない強さがあった。
その日の夕方、王の執務室に呼ばれた料理長は青い顔で戻ってきた。
「料理長、何があったんですか」
「王が、改革を許された。だが、聖女側を表立って糾弾するなと」
「それは、なぜ」
「証拠が、灰色の粉だけだ。神官団は、それを否定するだろう」
料理長は私を見た。
「アカネ。これからお前は、改革の現場に立つ。聖女側はお前を狙うだろう。命を守るために、隠語で記録を残せ」
「隠語ですか」
「お前のあのノートに書け。文字が違うのなら、彼らには読めない」
私は頷いた。
その夜、私は与えられた小部屋で、ノートを開いた。
日本語で書ける場所が、私を守る盾になるとは、思っていなかった。
『香辛料、灰色の粉。聖女付き侍女、樽を動かしたのは三日前。皇太子毒殺未遂、未然防止』
書き終えて、頁を閉じた。
窓の外で、王宮の鐘が、低く長く鳴った。
翌朝、私の作業台には、新しい木札が掲げられていた。
『中央厨房改革責任者 梨原茜』
文字を見上げて、私は奇妙な気持ちになった。
この札は、誰が見るのだろう。
マルタが横に来て、にやりと笑った。
「あんた、出世したねえ。あたしの娘みたいで、誇らしいよ」
「マルタさん、私、急に偉くなったわけじゃないです」
「分かってるよ。あんたは、ずっと同じことをしてるだけだ」
マルタは私の肩を叩いた。
その瞬間、扉の向こうからまた神官たちの足音が、近づいてきた。




