第六章 皇太子の銀のスプーン
翌朝から、私の場所は厨房の中央付近に変わった。
石の作業台。光の差し込まない場所だが、まな板を四枚置けるだけの広さがあった。私はそこに、自分の手順を一つずつ書いた木札を立てた。「手洗い」「色分け」「先入先出」「入荷確認」。文字の読めない下働きのために、絵も添えた。
厨房の人間は最初は私を遠巻きに見ていた。
でも三日目には、ひとりまたひとりと、私の真似をするようになった。
肉を扱った手でつい野菜に触ろうとするたびに、私は静かに言う。
「すみません、その手で、その鍋には触らないでください。一度水で流してから」
「分かったよ、うるさい新入りだな」
文句を言いながら、男たちは渋々従った。
次に私が変えたのは、食材の置き場所だった。
古い樽が手前、新しい樽が奥。これでは、新しいものから先に減っていく。私は逆にした。
「先入先出、です。古いものから先に使います」
マルタが手を叩いた。
「いいねえ。あたし、樽の蓋を開けるたびに、古いのが奥で腐ってたよ」
四日目の昼、副料理長が私の前にやってきた。
「アカネついて来い」
「どこへですか」
「皇太子の侍従が、お前を呼んでいる」
皇太子。
その言葉が頭に届くのに、少し時間がかかった。
厨房の奥の細い廊下を抜け、石段を上がる。装飾の少ない通路だが、磨き上げられた石が足音をきれいに反響させた。
通された小さな控えの間で、銀色の刺繍のついた服を着た青年が、私を待っていた。
年齢は私と同じくらい。背は高く肩幅は薄い。色の薄い金の髪を、顔の片側で軽く束ねている。瞳は灰青色だった。立ち姿が静かで、声を出す前から人を黙らせる空気を持っていた。
「君が、アカネか」
「は、はい」
「私はレイノルド。この国の、第一皇子だ」
皇太子。私は反射的に膝をつこうとして、足を踏み外しかけた。
「立っていてくれ」
彼は手で私を制した。
「中央厨房の風が、ここ数日で変わったと聞いた」
「あ、いえ、私は何も……」
「噂は副料理長から聞いている。台を色で分け、入荷を順に使い、食材を並べ替えたそうだな」
私は俯いた。
「それで、君に頼みたいことがある」
レイノルドは静かに椅子を引き、私に座るよう促した。私はためらいながら、浅く腰掛けた。
「私の食事の毒見を、君に手伝ってほしい」
「毒、見」
「正確には、毒見の補佐だ。毒見役は別にいる。だが、毒は口に入れる前に分かることが多い、と君なら言いそうだ」
「色、匂い温度。それから、誰がどのような順序で扱ったかですか」
レイノルドの目が、ほんのわずかに開いた。
「やはり、君はそうか」
「あの、私はただ……」
「アカネ。人は二種類いる。手柄を求める者と、結果を信じる者だ。君は後者だ。だから頼みたい」
彼の声には、命令のような圧はなかった。けれども、断れない静けさがあった。
「分かりました」
「ありがとう。明日から、調理開始から提供までの工程を見てほしい。私は皿を一度も覗かない」
「皿をですか」
「私が見ると、皆が緊張して逆に手元が狂うらしい。私は離れたところで、君の最終確認を待つ」
彼はそこで、初めてかすかに笑った。
「私のために、頼む」
控えの間を出るとき、私は一度だけ振り返った。
レイノルドは机の上に置かれた銀のスプーンを、ぼんやりと見つめていた。その横顔は、冷たいというより、孤独だった。
厨房に戻ると、副料理長が珍しく目を細めて笑っていた。
「ご指名、おめでとう」
「私には荷が重いと思います」
「お前の手は、軽くない」
彼は私の肩を軽く叩いた。
その夜、私は与えられた小部屋でノートを開いた。
給食センターのロッカーから、いつの間にかこちらへ持ち越せていた。文字は当然、向こうの言葉のまま。それでも、頁をめくるたびに、祖母の手の動きが、ふっと蘇った。
誰も見ていないところで、丁寧に。
翌朝、私は皇太子の前菜を担当する小厨房に立った。
窓の格子から、初めての朝日が差し込んだ。
扉が開き、黒髪の侍女が入ってきた。胸の前で手を組み、丁寧に頭を下げる。
「アカネ様、聖女様がご挨拶をなさりたいと」
聖女。
私はその言葉が、なぜか苦く感じた。




