第五章 仕込みは魔法に似ている
料理長の部屋は、厨房の奥の小さな石室だった。羊皮紙の束が積まれ、壁には乾燥させた香草が逆さに吊るされている。窓は格子の小さなものひとつ。蝋燭が三本、燭台で揺れていた。
白髪をきっちりと後ろで束ねた老人が、机の前に立っていた。背は低いが、目つきが鋭く、迂闊なことを言わせない圧があった。
「お前が、アカネか」
「はい」
「副料理長から聞いた。台を色分けし、肉と野菜を分けたという話だ」
「はい」
「なぜそうした」
「混ざると、人を病ませるからです」
料理長はしばらく無言で私を見た。
それから、おもむろに机の引き出しを開け、古い羊皮紙を一枚、机の上に広げた。文字は私の知らない書体で、絵記号のようなものが添えられている。
「これは何だと思う」
「分かりません」
「神殿の、最も古い『仕込み』の手順書だ」
仕込み。
私の頭の中で、その言葉が二重に響いた。
「我々の祖先は、これを『救済式の前文』と呼んでいた。何のための式かはいまでは誰も分からん」
「失伝、しているのですか」
「ああ。ただ、書かれている動きは、料理の仕込みに似ているのだ。だから、神殿は今も、料理長を一人、儀式に関わらせている」
料理長は私の顔をじっと見た。
「お前の動きを、副料理長が言うには、この前文の絵に酷似している」
私は言葉を返せなかった。
羊皮紙の絵を、じっと見る。手を洗う動作。鍋の前で布を分ける動作。火を入れる前に確認する動作。
すべて、私が祖母に教わったことだった。
「お前、何者だ」
「ただの、調理補助です」
「チョウリホジョ。それは、どんな身分だ」
「身分、ではないです。職業です。下処理と、洗い場と、器具の準備をする人間のことです」
「なぜそれをひとくくりに呼ぶ」
「私の故郷では、それぞれの工程に役割があるからです。下働きと、料理する人と、献立を考える人と、発注をする人。みんな違います」
料理長は長く息を吐いた。
「素晴らしい話だ。だが、お前のような者は、この王宮では珍しい」
「王宮ですか」
ようやく、自分のいる場所が「ただの厨房」ではないことを理解した。
「ここはこの国の、王宮の中央厨房だ。お前は、運悪く下女として雇われたのではない。お前のような人間を、副料理長は今、求めていた」
料理長は羊皮紙を巻き戻した。
「アカネ。お前を、明日から私の補助に置く。仕込みの一切を、お前に任せる」
「私には、そんな身分は」
「身分などこの厨房では関係ない。我々は、料理で人の命を預かっている。それだけだ」
その夜、私は厨房の隅の藁布団に横たわった。
石の壁から冷気が伝わってくる。
遠くで、鐘が鳴った。
私はまだ、この世界がどこなのか、分かっていない。それでも、手を動かせる場所だけは、与えられた。
眠りに落ちる直前、扉の向こうで誰かが、こちらを覗き込んでいる気がした。
目を開けたときその影はもういなかった。




