第三章 水と火の境界
石の床は、水浸しだった。
大きな鍋から湯気が上がり、太い梁の天井に煙がこもっている。むき出しの炎、銅の鍋、無造作に積まれた野菜と生肉。
「おい、新入り、ぼさっとするな」
太い声が飛んでくる。
頭に布を巻いた大男が、私を睨んでいた。茶色いエプロンに、汗の跡が縦に走っている。
「下女として雇われたんだろ。早く野菜を洗え。あっちの桶だ」
下女、と私の口の中で繰り返す。
なぜか言葉は、通じる。
でも、ここはどこ。
頭が混乱したまま、足が勝手に桶へ向かう。冷たい水。泥のついた、見たこともない形の根菜。
着ているものが、いつもの割烹着ではなく、麻のような粗い布の長衣だった。エプロンは縄で結んであって、足元は革のサンダル。
現実感が、一気に薄れる。
でも、不思議と、私の手は動いていた。
手を洗う前にもう一度、爪と手首を確認した。指輪はしていない。傷もない。よし。
桶の水を換える。さっきまで魚を捌いていた台で、野菜を洗うのは嫌だ。私は別の台を空けてもらえないかと辺りを見回した。
誰も、台を分けていなかった。
生の鶏が乗っていた木のまな板に、続けて根菜を切ろうとしている男がいる。私は思わず、口を挟んだ。
「あの……それ、まな板を、別にしませんか」
男はぽかんと私を見た。
「は?」
「鶏の血と、野菜が、混ざります。お腹を壊します」
厨房の喧騒が、ほんの一瞬、止まった。
それから、男は大きな声で笑い出した。
「俺たちが食ってるもんに、いちいち上品なお嬢様が口出しか」
別の下働きの女が、鼻で笑う。
「気取った娘ね。どこの貴族のお下がりかしら」
「やめてやれ」
別の声が割って入る。
白い前掛けをした、痩せた中年の男だった。鼻筋の通った、神経質そうな顔。胸元には小さな銀の徽章。
「副料理長」
厨房の人間が一斉に背筋を伸ばした。
「お前、名前は」
副料理長と呼ばれた男は、私の前に立った。
「あ……、茜、です。梨原茜」
「アカネ。そうか」
彼は私の手元を見た。野菜を洗う私の指の動き、手首までしっかり泡を立てるその動作を、じっと観察している。
「お前、どこの厨房にいた」
「あの、給食、センターで……」
「キュウショク。聞いたことがない地名だな」
彼は腕を組み、しばらく私を眺めた。
それから、ぽつりと言った。
「お前の手の動きは、神官のそれに似ている」
神官。
その言葉が、私の中の何かを、かすかに揺らした。
私の動きを、誰かが、見ている。
厨房の隅で、別の下女がこちらをちらりと見て、慌てて目を逸らした。
副料理長は最後に、低い声でこう告げた。
「お前は、洗い場ではなく、こちらの台に立て」




